同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— あきらめずに拘り続けた父 —

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玉城 義



「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」(ヘブル 11:13)

 4月13日は長男の誕生日で8歳になり、5月21日は次男の誕生日で6歳になりました。
 感謝するとともに、これまでの自分と父との関係を思います。
 私自身は15歳の時、救いの恵みを頂いた者であります。けれども、それからの歩みは一つ一つのことを牧師先生に聞きながら歩みませんでした。ですから結果的に思うようにならない高校生活であったし、その後の就職場においておの働きも思うようになりませんでした。ある時から自分の力のなさに開き直ってしまい、自分の憧れているもの、理想を求めて誰にも捕らわれずに生きたいと思うようになりました。ですから、教会も仕事もままならなくなり、自分の殻に閉じこもり、放浪し続けました。
 そういう私に対して父はあきらめずにどことなく放浪する私を見つけては「何かできなくてもいいから、教会にだけは行きなさい。教会だけは離れてはいけない。」と促し続けました。
 神の憐れみによって、もう一度教会に戻され、キリストの十字架の御許で自分自身を悔い改めさせて頂きました。  その後、結婚が与えられ、子供が与えられ、ここまで教会の中で生かされてきましたが、今思うと、どうして父がこの教会で私が生きることに拘ったかが、少しずつ分かってきました。それが神が私に与えて下さった私の生きる領域であり、生きる分であること、自分が願うように生きたとしても、それが本当の喜びでないこと、神が与えたもう生きる分の中で、神に愛され、神を愛し、神を畏れ、隣人と共に生きること、それが本当の自由であり、本当の幸いなる人生なのだと分かってきました。

 私のことをあきらめずに待ち続けた父の姿は、99匹を残して、一匹を探し求めた羊飼いの姿に重なるものがあります。  私に与えられた子供達への思いは、父の信仰を受けて、自分に与えられた分を慎み深く歩んでいくこと、それが子供達への私の信仰の姿勢であると感じています。
 今年も、キリストの十字架の御許へ子供達を導いていく一歩でありたく願います。

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」 (ローマ 12:3)
「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇 23:6)

(仙台聖泉キリスト教会 会員)