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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-107  —

山本 咲


サムエル記Ⅱ 1章


 サムエル記Ⅰ・Ⅱはサウルの死で二つに分かれている。ここからサウルの死が格別に扱われていることが分かる。ここまでのところからサウルという人がダビデを殺そうとしたことや、神の道から外れていったこと、神に捨てられたということのみを見出して「そのように道を外れないようにするべきである」と読み解いて終わりやすい。しかし、この箇所からはそれだけではなく、ダビデという人物がサウルをどのように扱ったかということが分かるのである。サウルは確かに多くの欠点があったがダビデはその部分のみでサウルを軽視していなかった。彼は油注がれ、神に選ばれたものであったことは事実なのである。ダビデはだからこそ、サウルの死を自分の命を狙うものが死んだという事実として簡単に扱わなかったのである。私たちは聖言をいつもと同じように解釈して簡単に通り過ぎてしまうことが多い。慣れてくると、以前受けたメッセージの内容からその真理を深めることなく終わってしまうのである。しかし、私たちは聖言をさらに見つめ、自らの信仰生活に活かしていかなければならない。これは神との交わりなのである。神を目の前におきつつ、その人格に触れ、どのように生きていくかをもう一度考えるのである。それによって神を知り、養われていくことが必要なのである。そしてそれらのことを実践することで成長し続けることができ、神の前に信仰者として歩むことができるのである。
ダビデはサウルに大変苦しめられた。しかしあるところで彼はこのサウルとの問題に対して「すべてを神の手に委ねる」という覚悟をした。そして自分自身で手を下すということを一切やめたのである。神が自身に油注いだという事実を前に彼は神がすべてを許してこの場所を与えられているということ、そしていつかそこから神が救ってくださるということを信じていたのである。サウルの死が報告されたときダビデはその心を試された。その一瞬の反応に彼の神への姿勢が問われたのである。彼は心から悲しんでいた。ヨナタンだけでなくサウルの死をも悲しんでいたのである。彼は哀歌の中で神が憐れみ深い方であること、そして、サウルが悔い改めたなら神は赦されたであろうという事実を述べている。彼はあくまで自分の主観でサウルのことを切り捨てなかった。神の考え、御心に忠実で勝手な判断を一切下すことがなかったのである。ダビデの信仰は試された。しかし、彼は信仰によって真実に、神の教えに聞き従い、その御心を重んじたのである。だからこそ、彼はサウルの死を前に心から悲しむことができたのである。彼は苦しみから解放された。そのような時に人間は自らの喜びを出しやすい。ここでダビデが何も考えていなければ、死の知らせを前に喜び踊ったことだろう。しかし、彼は自らを苦しめたサウルが死んだということに安堵するよりも、サウルが死んだことで彼に救いが訪れることなくその滅びを迎えてしまったことを悲しみ、惜しんだのである。彼は逃亡生活の中でも自らが命を狙われていようとも、サウルが救われることを願っていたのである。それ程の信仰があったからこそ、彼は神の御心に歩むことができたのである。私たちも神の前に忠実に生きることができるだろうか。私たちは神との関係の前に注意していかなければならないことがある。それは神との関係における「過ち」と「不忠」である。忠実でないということがどういうことなのかを考えていかなければならない。私たちは神に贖われ救われた。そしてその御心を知らされ、仕えることが許されたのである。だからこそ神の御心を恐れかしこんでいくことが求められる。ただ自らの価値観で生きていては、神が望まれるように自らを生かしていくことはできない。神の御心は何か、それを日々考え、自らを変革していくことが大切なのである。私たちもダビデのように神の御旨を重んじ、忠実に歩みたく願う。またこれは旧約の話であるが、新約において主に油注がれたものは誰だったか。主イエス・キリストご自身である。イエス・キリストは私たちのためにご自身を十字架に捧げてくださったのである。油注がれたものとしてご自身を表された。だからこそ私たちがどのようにイエス・キリストに忠実に歩むかが問われている。旧約ではダビデがサウルという油注がれたものに対しての姿勢を表し続けた。哀歌にはサウルが守ったこと、豊かにしたことがうたわれている。そしてその初めには「弓の歌をユダの子らに教えるように」と書かれている。イスラエルの若者たちが弓の訓練をするときに歌いなさいとすることでこの事実が語り継がれるように大切に扱ったのである。ダビデの一団はならず者の集団であった。しかし、彼らはそのままではなく、だんだんとダビデと共に神の訓練を受け、王家を守り支える集団へと変貌していく。彼らもダビデとともにいることで主に忠実に歩むことを学ぶ。だからこそ、彼らはサウルの死にダビデと共にその衣を引き裂くという行動に出た。ダビデと同じ心を持つようになったのである。彼らも神の導きによって王を支えるものとなるべくこのところが用意されていたのである。
私たちも新約の時代に教会を形成している。ダビデやその周りを支えた者たちがそうであったように、疑問に思うことも多々あるだろうが、主に油注がれたもの、主の御心を大切に扱う必要がある。そこには私たちの主観が強くありすぎてはならない。真実に神の前に歩み、その信仰に生きるものとさせていただきたい。そして神が手を動かされるのを待ち続けることのできる信仰者でありたく願う。


Q:取り上げられた箇所の中で、ダビデはサウルを油注がれたものとして扱った事実が語られました。ダビデはきっとサウルが変えられていくことを望んでいたと思うのですが、そのことはかないませんでした。しかし、神の御手に委ねたことでそのことを乗り越えていったと語られたのですが、そのように彼が考えられるようになったのはどの時点だったのでしょうか。

A:私の意見もあるが、皆さんがどのように捉えるかが重要である。私たちの置かれている日々は神の御心を尊びながらどのように生きていくかということが大切になる。現実には決着がつかないことが多くあるだろう。ダビデもサウルが変わるのか変わらないのかという問題に早い答えが出てほしかったのにもかかわらず、答えが出なかった。私たちもそのような状況に置かれることが多々ある。変わらないということが決まっていたならダビデはサウルを失格者として扱うことができた。しかし、そこに神からの返答はない。人間はそのような不安定な状況を嫌う。だから決めてしまいたくなる。しかし神の御心を尊ぶとはそのようなことではない。なぜなら神ご自身ですらその答えを保留にしておられるからである。神にとって答えを出してしまうことは簡単である。なぜなら神にできないことは何もないからである。だからこそサウルの心に触って変えてしまえばいいと私たちは思ってしまう。しかし、神はそのようにはされない。なぜならそのようにしてしまえばそこに人間の自由意思はなくなってしまうからである。人間ではなく、ロボットになってしまうのだ。神はサウルが立ち返って悔い改めることを望み、その最後を決めないでおられる。それは大きな憐れみの故である。その神の御心をダビデは大切にし続けたのである。そしてその中で自らの行動を選択していったのである。ダビデはペリシテに逃げたことですら本当にこれでよかったのかと考えている。相手を止められないが、逃げ続けることもできない、という状況からサウルが追ってこられないペリシテを選んだのにもかかわらず、それでも正しいのか悩んでいるのである。神の御心、御意志を常に追求し続けているのである。私たちは逆にこのような状況になると理由として取り上げて、「相手に手を下せないのだからしょうがないじゃないか」としてしまいやすい。しかし、神の御心を常に追求するならば、その事実ですら自分が甘えていたのではないかと考え続けていくことが大切なのである。
ダビデはもしサウルが心から悔い改めたことが分かったら喜んで彼のもとに戻っていってその地上の生涯が終わるまでともにいただろう。ダビデは一面そのことを期待していたと思う。だからこそ彼にとっては逃げることが仕事だったのである。
ダビデは人の評価を気にしなかった。彼は神を仰ぎ見ながら、サウルに対して真実に歩むことを追求したのである。だからこそ、彼が主観を挟む余地はなかった。そして同時に理由をつけて妥協することもしなかった。でなければ、主がこのようにあるべきと示されているにもかかわらず、それを「無理です」「私にはできません」と言い訳してしないことになるからである。神との深い交わりができないのは人のほうがこのようにあきらめてしまうからである。ダビデはつらく、苦しかった。命を取られるぎりぎりのところまで行った。同情の余地は多くある。その状況は彼にとっての誘惑であっただろう。人間にとって理由が立つこと、同情されるような状況は甘えることができる環境を作りやすい。同情されてしまえば、周りに理解されれば私たちは甘んじてそこから逃げてもいいと思いやすい。しかし、それは神の前にはやはり甘えなのである。だからこそダビデは同情を恐れた。そして自分がこれほど苦しむ理由は何かと立ち返ったのである。それは、決して自分の為でも人の為でもなかった。ただ神のために、神の御心が行われるようにと生きたのである。彼は人の賛辞も同情も気にせず、ただ「神が私の苦しみを知っていてくださる」「神が覚えていてくださる」「神が贖ってくださる」ということを信じ、真実に歩んだ。そして「私はそれが喜びです」と告白することができたのである。


Q:今日取り上げられた箇所に出てきたアマレク人の若者のことなのですが、この前の箇所でダビデがアマレク人を打ち破ったところがあります。その後にアマレク人がダビデに近づいているということなのですが、彼は在留異国人のアマレク人だったと考えていいのでしょうか。

A:その通りである。彼はサウルにとどめをさしたと偽り、語ったのである。しかしどこか聞いたことのあるようなやり取りが書かれている。ここから考えるとするとあくまで聖書には書かれていないことだが、彼はサウルと道具持ちとのやり取りをどこかで見ていたのではないだろうか。だからこそ、あくまで自分に非はないという状況を語りつつも、褒美がもらえるようにと願ってダビデのもとに来たのである。このところで若者は知らず知らずのうちにダビデの問題点を突いてきた。ダビデも28、29歳という時である。あなたもその所をつい最近通ってきたと思うが、そのぐらいの年なのである。ともするとその知らせに喜んでしまいそうな状況である。しかし、ダビデはあくまでそのような誤報に揺さぶられることがなかった。そして若者同士の軽いやり取りで「よくやった」と喜んでしまうのではなく、その一瞬でも油断せずに、緊張してことを進めていったのである。だからこそ、彼は一見厳しいともみられるが神の御心に従ってこの若者の件を扱うことができたのである。緊張していくことは大変なことである。自分に厳しい人や、問題を見抜く人をそばにおいておくことはつらく、苦しいことである。しかし、それができない人の成長は遅い。緊張していることは、自分のすること一つ一つが正しいか考えさせられたり、以前注意を受けた問題を再び繰り返すことのないように意識したりすることにつながる。気は抜けないから疲れも苦しみも抱く。しかしそれはいつまでも同じではない。それを繰り返すうちに、自然と意識せずともできるようになっていくのである。それが成長である。このような状況は近くに緊張を引き起こす人物がいればいつまでも続く。だからこそ半分強制的に成長せざるをえない状況へと自分を追い込むことができるのである。嫌だとそこから逃げ出してしまうのは簡単である。しかし、それではやはり成長できない。あなたが家族と共に土曜日の昼食を私たちと共にすることを大切にしているように、やはり緊張して過ごす時間も必要なのである。あなたは特に自分だけでなく、隣で何をやらかすかわからないというような子どもの状況にハラハラしていなければならない。より一層緊張するだろう。しかし、そのような中で子どもを落ち着かせることや、いうことを聞かせることで、急に何らかのことがあり、子どもを静かにさせなければならない状況が起こっても対応していくことができるのである。つまり緊張はあなたに何らかの決断を迫られたときに対応する力を身に着けさせる。物事に驚いて終わってしまうのではなく、落ち着いてその問題にどのように対処していくべきか最善を決断することができるのである。緊張のない生活を送っていると急に目の前に何らかの問題を突きつけられると驚くだけで冷静な判断を下せずに終わってしまう。きちんと対応しきれない。それでは実績を残すことはできない。この世界はただ考えて終わっていてはいけない。何らかの形でそこのことを成していかなければならない。あなたには家長としてそれができるようになってもらいたい。なお取り組み続けてほしいと願う。


Q:先ほど主観という話が語られたのですが、私は時々自分を認めてほしいというような心を持つことがあります。もちろん口には出さないのですが、そのことを後から悔んだり、落ち込んだり、失望したりします。そのことも主観と考えていいのですか。だからそのような考えが私たちを神から遠ざけてしまうのでしょうか。

A:その通りである。だからこそ恐れて、注意していかなければならないと思う。そして私は失望するよりも神にその罪を言い表し、その中から贖われるように願い続けることが大切だと思う。しかし、時には神は「あなたはそのまま変わらないのだから受け入れていきなさい」と言われるかもしれない。どのような状況にしても神との間にそのような交わりを持っていくことが必要なのである。聖霊は私たちの中に存在する。だからこそ、聖霊が語られているのか、ただの自分の意思なのかと悩んでしまいがちである。それも常に考えて、意志していくことが求められているのである。そして「ああまたやっちゃった」というところに行きつくだけで終わるのではなく、行きつく先を決めて、中途半端なところで妥協して終わらないようにしなければならない。そして結論を持ち、自らを変革させていくことが大切なのである。もちろん先ほど語ったが「そのまま変わらないのだから受け入れなさい」と語られることもある。それは生涯持っていなければならない。受け入れなさいと言われたから「ああしょうがない」としていてはいけない。変わらず、恐れていかなければならないのである。そして自らのできないことを自覚し、正確に測れるからこそ、自分のそのできないことを持ちつつも、できないなりに取り組んだり、できないというレッテルを自らに貼ることで、謙遜に、相手を尊敬していくことができたりするのである。もちろんそれは苦しいことでもある。そのことがきちんと信仰によってなされていかなければ、劣等感を抱き、ただ苦しんでいなければならない。しかし、信仰によって自らの足りない部分を見ることができたなら、その問題を受け入れることができるのである。それは同じ苦しみを持つものに心から寄り添い、共感できるものになる。そしてお互いの足りない部分を補いつつ、共に歩むことができるようなものになるのである。人は相手が苦しんでいるとき、悩んでいるとき何らかの言葉や語り掛けで相手を助けようとする。しかしそれはどうしても上から目線になりやすい。しかし同じ痛みを持つものは何を語らなくても、相手に心から共感することでその苦しみを和らげることができる。もちろんそれはただの傷のなめ合いではない。その苦しみから互いを引き上げ、もう一度回復し、歩みだすための力を得るために行うのである。だからこそ私たちは真の共感をするために、キリストの十字架と共に生きるということを自分の営みの中で持ち続け、行っていかなければならない。自らをその苦しみから逃していては人格に寄り添うことはできないのである。


Q:今日取り上げられた19節と25節に「高き所で殺された」と語られていますが、「高き所」とはどこですか。

A:これは場所ではなく、一番高い地点、地位、絶頂期ということである。ヨナタンは信仰の人としてそのような時に亡くなったのである。彼は真理を知っていた。ダビデが次に選ばれたことも、サウルがその意味である地点から落とされたこともわかっていただろう。彼は選択として父親を切って、早々にダビデに乗り換えることもできた。しかし彼は滅びの道であっても父であるサウルと共に生き、イスラエルの為に戦うことを選んだのである。それは彼の信仰による決定だった。だからこそ潔く彼はその所に自らを置き、信仰を貫き通すことができたのである。ダビデに勝るとも劣らない信仰が彼にもあった。彼は父親がもう一度神に立ち返り、悔い改め、神と共に生き、真にイスラエルの王として生涯を全うすることを信じながらそばにいつづけた。ダビデは逃げ続けることが御心だったが、ヨナタンは何があっても、たとえそこで生涯を終わらなければならなくとも、離れずともにいることが御心であると信じた。それを彼は最高の信仰の決定として選び取ることができたのである。この信仰はダビデに大いなる影響を与えた。ダビデは女の愛に勝る愛をヨナタンが与えてくれたと語っている。それは「好きよ」ということではなく、最上のライバルであり、信仰の友として「私の信仰を見てくれ。私もあなたの信仰を見ている」という語り合いができる関係だったのである。ダビデとヨナタンの関係はこのところで終わるものではない。この後にも長く続き、ダビデとヨナタンの息子メフィボシェテとの間のやり取りに現れている。メフィボシェテはダビデの姿を見ながら、自らも父親の信仰を受け継いだものとして、ダビデに神の召しを全うすることを願い、対峙し続けていると私はこの二人のやり取りを見て思う。それが今日語った主に油注がれた者に対する信仰ということ、主の召しというものについて私たちがどのように信仰によって取り組んでいくべきかということにつながるのである。あなたも一人っ子で両親や家族、親戚の期待を背負い生きていると思う。その中では時に苦しくなることもあるだろう。しかし、そのことも神が召してくださったと考えていくことが必要である。あなたがそう考えて、「私が召しに応えようとするなら何かあっても神が必ず助けてくださる、導いてくださる」という信仰を持って最善を願い、精一杯生きていこうとするなら、主は必ずその道を祝してくださる。そして今度はあなたに与えられた人格に神は大いにご自身を表し、御旨と御業を表してくださるだろう。それはあなたの信仰の姿勢を一番に見るのはあなたに生まれてくる子どもだからである。「お母さんってこうやって神の御旨に仕えて生きているんだ」と分かれば、あなたの子どもは「お母さんを泣かせてはいけない。私もお母さんと同じ信仰をもっていくんだ」という思いを持つようになる。
ヨナタンは神の油注がれた方として父親を見て、愛そうとした。しかし愛そうとすればするほど、その悲しさや弱さ、愚かしさが見えてくる。だからこそ助けようとすれば今度は、それはかなわずに終わってしまう。彼は「なぜ理解してくれないのか」「なんでならないのだろうか」と悲しまなければならなかった。もういっそ捨ててしまえばそれは楽になれた。彼の目の前には親友のダビデと共にイスラエルの人に仕えるという道も置かれていた。しかし彼はそうはしなかった。彼は「父の息子として生まれた。だからこそ、この父親に生涯仕えていくことが私の使命なのだ」と生きたのである。この信仰は死をもって終わるものではなかった。彼の信仰は覚えられ、祝福された。そして、メフィボシェテはダビデと同じ食卓に着くものとなり、その庇護の下、歩むことができるようになったのである。
私たちはそのように聖書を読みながら自らの生きる現実と結び付けていけるようになるといいと思う。そして自らを変革し、共に生きていける場を教会の中で築き上げていくことができることを願う。私はこれだけの話を高校三年生のあなたに話すことができる、聞かせられることがこの教会の誇りであると思う。ただ今度はそこをだんだんと理解するだけではなく、生きていかなければならないというところにも直面するだろう。それはさらに難しいことになる。しかし、神が召してくださったところになお生きて、信仰の醍醐味を味わってもらえばいいと思う。


感想なのですが、先日礼拝の中で「劣等感を持っていてはいけない」ということが語られました。しかし私はそれがなかなかできないという事実に長く悩んでいました。そんな時、親子の会話の中で父に「すべてが今すぐ変わるということではない。今できないことも何年かしてできるようになってくる。もちろんそうなると次にまた気になるところが出てくる。その中で歩み続けていくことが大切なんだ」ということを語られました。私はその話の一週間後には、「なんでこんなこと考えて、悩んでいたんだろう」と思うことができました。しかし、その直後にまた劣等感を抱くことに出会って、語られた通りだなと思ったことがありました。神との歩みの中で私はやはり今できないということがあり、悩まなければいけないことが多くあると思います。ただ、その中でも私は神に自分が変えられていくことを感謝できるようになりました。神はあっという間に私の悩みをすべて解決はされませんでした。むしろ解決したかと思えばまたすぐ次の悩みが目の前に訪れる毎日です。しかし、その中でも自らに変化が与えられ、その変化に気づかされ、神に感謝することで、神との交わりを常に持つことができるようになったと感じています。そのような日々を超えているからこそ、私は今持つこの悩みや、苦しみも神によって大きな変化が与えられ、感謝に至るだろうと確信することができるようになったのです。心から神に感謝をいたします。

(仙台聖泉キリスト教会会員)