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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-100  —

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山本 咲


サムエル記Ⅰ 25章

 この一連の話を聖書は大切に取り上げている。またその重要性を表すためにこの話はこれだけのボリュームで語られているのである。このところにはアビガイルという女性が妻となった経緯が記されている。
25章のもう一つ大切なところはサムエルが亡くなったことが語られていることである。一つの時代が終わり、サウル王からダビデへと移り、指導者が変わることでサムエルも表舞台から姿を消していった。
サムエル記は途中まではサムエルによって記された。その先はサムエルが導いた者たち、価値観を受け継いだ者たちによって記されたといわれている。彼らがどのようにこれらの出来事を見ていたのかを探っていくことで彼らがそのサムエルから受け継いだ信仰を全うしていたのかということが分かる。このような歴史的出来事を記すとき誰がどのような視点で書いたかによって大きくとらえ方が変わってくる。サムエルから受け継いだ者たちがこのサムエル記を神の霊感によって書き上げたのである。そのことからわかるのは「聖書は神の視点ですべてのことが捉えられ、残り、現在私たちの手に届いている」ということである。話を25章のことに戻していこう。この箇所ではアビガイルという女性の聡明さと、彼女の夫ナバルという人物について語られている。ナバルは愚かだった、それは確かである。しかし同時に彼は裕福であり、富を多く持つ成功者だった。今まで私はこのような愚かな人は成功しないということを話してきた。しかし、彼は成功している。それは彼が人を人とも思わない用な商売法で富を築き上げたからである。それによって彼は成功者となり、富によってその生涯を潤していったのである。しかし、それゆえに彼は滅びを免れることができなかった。富は人間の人生に大きな影響を与える。それを得るために追及していく人間のエネルギーや意欲というものはとてつもなく大きい。しかしそれは神を侮った行動である故に滅びを招くことになる。もちろんその滅びを受けずに人生を終える人たちもいる。それでも、その子や、続く人々にその滅びが向かうことがあるのだ。また私たちは成功している人々を愚かな人間の姿だと言いながらもうらやんでしまう時がある。または逆に自分が富を持つようになるとそのように言ってくる人を何の努力もしないからだ、天から降ってくるのを待っている愚か者だと言ってしまう時もある。だからこそ気を付けていかなければならない。自分の人生の基盤となるものを正しく置いていかないと、すぐに揺さぶられ、人生を滅びの道へと進めてしまうのである。そんなナバルに対してアビガイルは聡明であった。ナバルに相対するように書かれている。それだけになぜナバルのような相手と結婚をしたのだろうかと考えてしまう。もしかしたら、政略結婚や、借金の故や、経済を得るためだったかもしれない。そのような中に置かれただろうと想像できる彼女がなぜ、このような状況の中で自分をいかし、ダビデの妻となり、王妃へとなっていったのであろうか。なぜ彼女はナバルと生きながら聡明でいられたのだろうか。それは彼女が信じるべき生き方を変えなかったからである。環境が良くても、悪くても、相手が悪かろうが、神が置かれた状況を受け入れ、神に対するように静かに黙って周りの人に仕えることをしていったからである。もちろん人間であるから完ぺきではなかったかもしれないし、アビガイルも初めからそんな聡明であったとも限らない。しかし、彼女はそのような状況において、神の道を信じ、仕えたからである。また彼女がダビデと心が一つとなったのも、彼女の語った言葉がダビデにとっての福音となったからである。ダビデも彼女と同じように、次の王となるはずであるにもかかわらず、困難な状況の中に置かれ続けていた。そんな2人だからこそ、神が時を定めておられることを信じるというところに信仰の一致が与えられたのだろう。福音というものはこのようなことを通して人の心をつかんでいく。私たちは私たちの中に福音があるか、神を信じて生きているかによって、それが誰かの心を潤し、救っていくものとなり、一致が与えられるのである。このようなことによって魂の救いが与えられ、導かれていくのである。


Q:今日語られたところのアビガイルがこの一連の出来事の中でしもべから報告を受けている姿や、その中ですぐに対処をするだけの力があったことを見る中で、説教の中でも語られている、「小さいものに忠実であること」や、「周到さ」ということに通じるものがあるように感じました。彼女のこのような「周到さ」や「聡明さ」というものはナバルの家を生きる中で身に着けていったのでしょうか。

A:なぜアビガイルがそのような女性になったのかということをもう一度考えてみると、彼女が聡明になったのはナバルの扱いによるものであると私は考える。
周到な人はどのように生まれるのか。それは一面厳しさの中、徹底した扱いの中で出来上がるのである。ナバルのように狡さや、愚かさも受けてしまうのではないかと思うかもしれないが、確かな信仰を持っているとそうはならない。またこのような困難であっても信仰の故に自らをその場所にとどめていくことができるのである。周到さは身についていくものである。周到さを身に着けるうえで一番の敵は、その足りなさを「大丈夫だよこのくらい」といって受け流してしまう優しさである。「ばかやろう!」といわれるくらいが私たちにとって効果があるのである。私たちは本来あえてナバルのような人物につかなければならない。中途半端な甘さは自分自身を甘えさせてしまう原因となるのである。老牧師の周到さは一面継母との生活の中で甘やかされるよりも、厳しさの中育てられたからこそ生まれたものであると私は感じる。それは老牧師にとって大変なことだったし、一面寂しさを感じさせるものである。しかし、親子がどうでもいい関係でいることや、甘やかされているような環境よりも良かった。その厳しさの中で老牧師は相手の厳しさをひどいと取り上げて、愛さなければいけないという正論を述べることもできた。しかし老牧師は自分を甘やかすということをしていなかった。だからこそ今の周到さがあるのである。下手なクリスチャンは愛と憐れみを強調する。しかし、それは恐れていかなければならないことである。正論を振りかざしていてもしょうがない。生きるものとなっていかなければならない。与えられた環境によって自分を厳しく扱っていかなければならないのである。家庭集会の中である兄弟が仕事の中で後輩に注意をしていた際にそれをみたお得意さんに「厳しすぎるのでは」と言われてしまったと相談してきた。しかしそれは決して彼が悪いわけではない。むしろ会社にとっては厳しく指導をして後輩を育てていくほうがいいのである。そうでなければ、甘い扱いで仕事のできない者になってしまい、その会社にとっても、教えを受けている人にとっても悪影響となってしまうのである。その「厳しすぎるのでは」といった人は一見優しいように見えるが、自分が受けた厳しい経験に重ねているか、何らかの気分で言ったか、結局は偽善でしかないのである。むしろ社会を知っている人はこんなことは言わない。だからこそ、厳しい社会の中ではこのようなことをいう人はいいように扱われてしまうのである。クリスチャンはだからこそ相手の人生に悪影響となる優しさを与えてしまうことや、形ばかりの偽善にならない用に注意していかなければならない。それは結局、世の中にとってのクリスチャンを都合の良い人や愚かな人にしてしまい、名を貶める結果にしかならないからである。


Q:礼拝で不正な管理人の抜け目がなかったのを見て彼を誉めた(ルカの福音書16章8節)というところが取り上げられ語られましたが、私は初めにこの箇所を読んだときからなぜ不正であるのに褒められるのかというところが理解できずにいました。しかし、礼拝の中でここから「周到さ」や「この富とはタラント(賜物)である」と語られ、この御言葉についてもう一度その捉え方を考えることができ感謝いたしました。

A:人間の行動はいかに正しいといわれていても、価値観が固まってしまうと、なかなかそこを変革していくことができない。しかし、その正反対の価値観を受け入れることができるきっかけが与えられると、私たちの行動に変化が表れてくるのである。だからこそ、私たちの意識の中にそのような考え方を入れておかなければならない。一面価値観を保つことも必要であるが、頭から否定するだけでなく、その考えや言葉を受け入れることで変化というものが与えられることもあるのである。もちろんその意識によってすぐさま変わることはできない。しかし、確かに変化が与えられるのである。相手の言うことがわからなかったり、賛同できなかったりすること、頭から否定していたことも心や価値観、意識が変化することで考え方や、その相手の言葉を受け入れることができるようになるのである。またそれによって私たちが周りに置く人間も変化していく。それは私たちにとって意見や、注意、指摘をしてくれる人が変わることにつながる。そして、そのことの故に私たち自身にも変化を与えるのである。


Q:教会学校青年科の教師として学びを進める中で、イスラエルの民が同じ過ち、罪を繰り返して、指導者が立てられ是正されていくこともありながら、それでも時代が変わるとまた戻っていってしまう姿を見ていて、なぜこのようなことになるのかと疑問に思ったのですが。

A:旧約聖書の物語、他人事としてとらえるのではなく、聖書をもう一つ深めて考えていくことが大切なのである。先ほど質問されたようなことは目に見えやすく、楽なとらえ方である。そこからもう一つ、ここに何があるのだろうかと考えていくことが必要なのだ。私が語っている意志するということもこのことの一つなのである。そのように日々考えていくには私たちに意欲がなくてはならない。世の中の人が、日々成長し、周到になっていくのは富や名誉に貪欲だからである。人間は様々な欲の中に生きている。世の人は富や、名誉の中で生きることそれが生きがいになっている。だからこそ、そこに意欲をもって挑んでいくのである。私たちはそのようなところに生きがいを持っていてはならない。しかし、だからと言って欲がないようなどうでもいいという感情に任せているようでもいけない。ではどうするべきなのか。神と共に生きることに欲を持つべきなのである。日々が信仰によってワクワクしたり、その喜びにあふれたり、生き生きしていることを目指すべきなのだ。それができるようになると、心から湧き上がる喜びにあふれ、意欲をもって信仰生活に当たることができる。またそれは、神への心からの信頼となり、周りにある多少のことによって揺るぐこともなく生きることができるものとなっていくのである。私たちはこのような信仰を自分のものとしていかなければならない。あなたがナバルのような人に仕えていかなければならないことも、あなたの信仰によってアビガイルのようにしていこうとすることが大切なのである。そして彼女と同じようにあなたの結実の瞬間を迎えることが神の願いなのである。アビガイルは急にこのところに立たされ、周到に事を行うことが求められた。同じように私たちの前にもこのようなときがくる。彼女はその瞬間をとらえ、的確に、周到に信仰によって事を進めていった。それは彼女が日々神を信じる信仰によって生きていたからである。私たちも信仰によって日々を生きながら、真実に生きていくことが求められている。それは、中途半端な飛び石のような信仰ではなく、一つのつながった確立された日々の信仰を築き上げていくことである。そのような信仰がアビガイルのような結実につながるのである。


Q:昨年から礼拝の司会者を任せられるようになったのですが、聖書朗読の時が一番緊張します。その練習をしている際に妻にチェックをしてもらったのですが、「最後のところで間違えることが多いよ。最後になると気を抜いているでしょ?」と言われた時に、礼拝で意志し続けるということが語られていますがそのことをもう一度考えさせられました。

A:若い時にそのことに気付くことは大切である。年を重ねていけばいくほど、やろうと思ってもできないのである。せいぜいそのことができるのは40歳までである。だからその時を十分に注意し、油断せずに取り組んでいく必要がある。意志をしていくということは自分の中でだけわかることである。もちろん今回のあなたが奥さんに見破られたようによく見ている人から見ればわかってしまうこともあるが、意志しているか、していないかはわからない。しているようなポーズもとれるし、自分自身に意志しているように暗示をかけることもできる。特に若い時は外側をうまくつくろうことができる。しかし、できていなければ、年を取ればその部分にほころびができ、意志が維持できなくなってしまうのである。だからこそ意志していくことを習得したいと思うなら、そこにきちんと意義付けをして、モチベーションを保ちつつ、意識していかなければならないのである。先日青年会で「私たちは幸せになるために信仰をしているのではなく、神の栄光を表すために信仰をしているのだと改めて気づいた」という証がなされていたが、私たちの幸せは神の栄光を表した先にある。本来信仰者は神の栄光を表すことでその先に幸せを見つけていくことができる。神は私たちそのようにして幸せを用意しておられる。そうでなければ私たちがある程度のことで満足してしまうと本当の幸せを得ることはできないし、年齢がある程度いってしまえばよりこのぐらいでいいかと妥協してしまう。しかし、神の栄光を表すということを第一と考えるからこそ、私たちは様々なことを行っていく意義を得て生き方を追及することができ、その先に神から与えられる幸せを見つけることができるのである。私たちはそうでなければ、結局世的な幸せになってしまい、神が本当に与えたいと願っている幸せを得ることができないのである。神の栄光を表すことに喜びを見出すことが信仰者にとって本当の幸福なのである。
なおあなたも奥さんの前で練習し続けていってもらいたいと思う。


Q:聖書を読んできて、うまくイメージができない言葉があるのですが、「聖霊」と「御使い」というものの違いはどのようなものでしょうか。

A:「御使い」は天使のことで、神の創造物であり、私たちと同じように作られたものである。
「聖霊」は神で、三位一体の一つである。悪魔はもともと、位の高い天使が傲慢の故に落とされた姿である。そしてその落とされた悪魔に私たちの世の支配は任されている。それは落とされる前からそうで、落ちた後であっても変わらずにこの世の支配は悪魔のもとにある。だからこそ、私たちのこの世自体も神から離れてしまっている。イエスキリストが荒野で誘惑を受けた時、「私を拝むなら、この全世界をあげよう」と悪魔に言われている箇所がある(マタイ4章8~10節、ルカ4章5~8節)。彼にその支配がゆだねられているからこそ、こう語ったのである。それは「イエスキリストに私を拝むならば、拝みさえすれば、十字架の苦しみや、辱めを受けずにこの世の支配を取り戻すことができる」と語って誘惑しているのである。「そういうやり方はどうですか」と悪魔は言うのである。それに対してイエスキリストは「いいえ、神以外のものを拝んではいけない。わたしは十字架を通して贖いによって世を救うのだ」と語ったのである。このことからわかるように悪魔にはその権利があった。事実上神の支配の下にある、悪魔の支配する贖いがなされた世に生きているのである。会社で言う社長派か専務派かというような派閥のあるようなところに生きているのである。しかし社長は意向を示そうとも、あまり口を出してこない。実質声を出しているのは専務というような状況である。なら社長の意向は置いて専務に従っておこうというようでは結局会社の方針には沿って生きていないことになる。だからこそ、私たちは神の働きの中で生き、会社に貢献していくものになるのかということが求められているのである。
宗教はアジア、セム系から出ている。セム系は思想的に物事をとらえていくことができる。現在キリスト教を考えるとヤペテ系、ヨーロッパや欧米が多い。彼らは思想的に考えていくことが苦手で、どちらかというと、現実的に物事を考えることを得意としている。ユダヤ人はセム系だが、散らされ、ヤペテ系と結びついて今広がっている。逆に私たちは精神的に、思想的に捉えることはできるが、現実に結び付けることを苦手としている。だからこそ、物事を周到に進めていくことができず、言葉だけの愛ばかりで形にならずに相手に伝わらないことも多いのである。もちろん全部が全部そうではなく、統計的に考え、その思考を解析していくとそのようなものが多いということである。だからこそ、私たちは現実と結びつけ、この悪魔の支配にはあるが、神の支配のもとであるからこそ、神が語る生き方で現実の問題を生き抜き、この悪魔の支配に陥らないようにしていかなければならないのである。


Q:アビガイルはナバルの神を恐れない姿を見続けたからこそ、自分はどのように生きるべきか考え、歩むことができたのでしょうか。

A:そうだと考える。そして最終的には、そのナバルの姿に彼女が怒れるかどうかだった。しかし、その怒りをただぶつけていても、力がなければ何も起こらない。ナバルに負けて封じ込められて終わるだけである。ことを動かすだけの力がなければ、彼女はただナバルに吠えて訴えていただけで終わってしまうのである。彼女が聡明になれたのは、ナバルの厳しさの中で生きたからであり、その中から神の栄光を表し、結実することができたのは、彼女がその中で泣き寝入りするのではなく、ことを起こしていったからである。またナバルに対して最終的にダビデが行おうとしていたことを突きつけ、彼に宣言をして、とどめをさしたのは彼女である。ナバルはその彼女の言葉によって石のように固くなり、10日後に亡くなった。彼女はそれだけ厳しいものを突き付け、その真実を語ったのである。彼女は確かにナバルの下で様々なことを学んだが、最終的に彼女を救ったのは神であり、その信仰によって救いが与えられたのである。私たちの被害者意識はどうしてもこのような状況で、泣き寝入りに陥らせてしまう。または、相手に対する怒りや恨みに左右され、回復もできず、やられっぱなしで動きが取れなくなってしまう。しかしそれが一番楽なのである。信仰者はそうであってはならない。アビガイルのようにことを起こすために立ち上がっていくことが必要になることや、また最終的にそれによって悔い改めてくる人が現れるなら、新約の時代に生きる私たちはイエスキリストの十字架を信じるならば許しますよと言えるか、その強さが大切なのである。相手への怒りを治められず、敵をとっているようではいけないのである。ダビデはこのところでナバルに対する被害者意識から、怒りを治めることができなかった。その時点で彼もナバルと同じようになっていたのである。ダビデは用意周到にナバルのもとに頼みに行っている。忙しい時期も終えた、お祝いの時を選び、かつ、それまでの間に彼らのしもべを守ったということがあった。しかし、それにもかかわらずナバルは彼の願いを却下するだけでなく、ダビデを馬鹿にするような言葉を語ったのである。それに怒ったダビデは滅ぼそうとした。確かに怒るようなことではあったが、本来は分け前をもらおうとしていたのにもかかわらず、それができないから滅ぼしてしまおうとなっていてはナバルと同じである。だからアビガイルがそのことを指摘し、「あなたはそのような方ではないはずです。どうか怒りを治めてください」としたときに、怒りを治めるだけでなく、彼女を妻として迎え入れたのである。アビガイルが必要を満たしたから妻に迎え入れたのではない。彼女がダビデを愛し、たしなめたからである。ダビデにとってはこの行動が彼の命を救うほどのことであったのである。もちろんダビデもアビガイルも10日後にナバルが死ぬことは知らなかったが、いつか何かの形で事が起こるだろうと信じていた。またアビガイル自身も、このことで何かが起こったなら私を思い出してくださいと語っていたのである。そしてすぐに神によってそのことは行われ、アビガイルが告げたように、神によってナバルは滅ぼされた。そしてアビガイルの愛にこたえ、彼は妻へと迎え入れたのである。これこそが信仰者同士の愛の在り方なのである。互いに行われていることに目を向け、そのことに感謝をして相手に愛を返すのである。もちろん相手に返してもらうために事を行うのではない。これも先ほど語られた意志することと同じである。目に見えることばかりしていては意味がない。目に見えないこと、わかるかどうかということを行っていくことが大切なのである。神の世界は目に見えないことや霊的なことで成り立っている。だからこそ目に見えないことをやり続けられるということが信仰者の在り方なのである。返してもらうことを望んで行うのではナバルと同じであるし、返してくれないと怒るのはダビデと同じである。世の中と同じレベルになってしまってはいけないのだ。神はアビガイルによってダビデを守ろうとされたのである。神の憐れみがそこにあり、彼女を用意しておられたのである。特に彼にとって大切な心の支えであるサムエルという存在が失われたこの時であるからこそであった。サムエルが祈っていることでダビデはどれだけ助けられていたか、心強いことであったか。私たちにとっての老牧師も同じである。どれだけ老牧師の祈りがあることを私たちが大切にできるかである。老牧師は時にはむっとして、気難しいところがある。しかし、ダビデにとって祈り支えとなるサムエルの存在があったように、目に見えないところで祈り続けている老牧師の存在を大切にしていきたい。ダビデはサムエルがいなくなったとたんこのような世の中の嫌な一面を見る出来事に直面した。そして怒りを引き起こされてしまった。世の中にあるこのようなうごめく嫌な部分に注意していかなければならない。ダビデは神の憐れみによってアビガイルという存在が与えられた。そのような信仰を共にする存在、祈り、支えあい、時に抑止となってくれる存在がそばにいることを心から喜び、大切にしていかなければならない。この世は悪魔の支配にあって恐ろしいものであふれている。だからこそ、祈りとともに立ち、聖霊の働きに心を動かされながら、日々を信仰によって歩んでいくことが必要になる。なお、共にその戦いを勝ち抜いていきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会会員)