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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-99  —

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山本 咲

(写真はウィズティアーズサテライトコンサートから)


サムエル記Ⅰ 24章

 先月からダビデがサウルの下から逃れる一連の話が続いている。前回ダビデがケイラの街を救ったのにも関わらず、ケイラはダビデを裏切ったことを取り上げた。これらのことによって、24章の一連の出来事が起こってくる。先月特に取り上げたのは、神のみ旨に従ったのにもかかわらず、その状況が変わることはなかったという事実である。信仰者は時に、御旨に従えば神が物事を改善してくださると期待するものである。しかし、必ずそのようになるとは限らない。引き続き、その困難の中を通るという神の試みを受けなければならないときもあるのである。ダビデはそのような状況の中で、神がどのような方であるかということを探り続けた。神はダビデを働きの器とするためにこの試みを用意されていたのである。そしてダビデも神を探る中でそのような神の御意思というものを知り、その与えられた状況を享受することができたのである。このような状況の中ダビデは神の働きの器として生きることが始まり、成長していくことが求められていった。そしてだんだんと王となっていったのである。彼は王になることは神によって決まっていた。しかし、だからと言って肩書だけがポンと与えられたわけではない。また何もせず、その時を待っているだけでよかったわけでもない。彼はまず、役割を担うだけの力を身に着ける必要があったのである。そしてその中でも最も大切なのが神の御意思を知る力であった。彼はそれを神との交わりの中で得ていったのである。それがなければ、彼は王として立っていくことができなかっただろう。そして結局はサウルと同じ道を行くようなものになってしまったのではないだろうか。彼にももちろん失敗がなかったわけではない。しかし、その中でも彼は神の言葉を捉え、最終的には神の下を離れるということはなかった。彼は罪を悔い改め、神のもとに立ち返り続けたのである。今回取り上げられた24章の出来事を通してサウルはダビデに許しを請い、その関係の回復が与えられた。しかし、この後サウルは心変わりをして、またダビデの命を狙うようになる。ダビデはそのような環境にこれからも置かれていく。それでも彼はこの状況を受け入れ、越えていかなければならない問題なのだと歩みを進めていく。私たちも一つ問題が乗り越えられたからと言って、そのままずっと良い状況が続くわけではない。また少し経つと問題に出会うのである。しかしそこも、神に助けをいただきながら、越えていくのである。そうしていくことで神の御扱いの中を、感謝と喜びとともに生き抜いていくことができるのである。ダビデは王としてたった後、多くの戦いを越えながら、一国を作り上げていく。そして神殿を建設する準備を進め、その責任、神の務めを全うすることができたのである。彼は確かに躓いた。しかし、彼を育てる神の手の中で、時にはその罪の刈り取りをしながら、主を信じつつ、その器へとなっていったのである。私たちもダビデのように神の御扱いというものを知り、その所に意思を持って自らを置き続け、神の働きを全うする器へとなっていきたく願う。


Q:先日の礼拝でラザロと金持ちのところ(ルカ16章19節~)が取り上げられました。先生はラザロと金持ちの終わり方の差は決して金持ちが悪人だったからそうなったわけではなく、「悔い改め」がそれを分けたのだと語られましたが、そのことをもう少し詳しく知りたいのですが。

A:このことはイエスキリストが死後について語ったことである。ということは現実にある話、真理であり、私たちもこのような状況になりうるということである。この話はイエスキリストの目の前にその話を聞く対象がいて語られたことである。だからこそ聞く人に届くようにと語られたものであり、注意深く聞くならば、そのことから得られるものが多くあるのである。この話を読むと私たちは金持ちを悪人と決めこみ、自分に都合のいいようにとらえてしまうことが多い。自分と他人を比較しては、「あっちの人のほうが悪いから、この話はあの人に向けて語られているのだろう。私はきっと天国に行けるだろう」などと考えてしまう。しかしこの話で本来捉えるべきところは違う。イエスキリストの話から捉えるべきは、この二人に差をつけたのが「悔い改め」だったということである。これを読むと、一見、金持ちが悪人であるように思えるが実は違う。彼は自らの兄弟が同じ状況になることを望んでいない。苦しみをいだいているからこそ、どうにかして、自らの兄弟を助けようとし、何らかの働きかけによって兄弟が悔い改めることを望んでいるのである。またここで取り上げられる彼の言葉から、彼自身が兄弟を救いたいと思っている事実と、彼が生前悔い改めなかったからこそこの苦しみを味わっているということを自覚していることが表されているのだ。そこから続き生まれてくる疑問は「悔い改め」とは何なのかということである。「悔い改め」とはただ自分が行ったことを悔いることではない。自らを戒めつつ、改めることが必要になる。だからこそ罪の告白をただすれば与えられるものではないと考えなければならない。生きているときに悔いるということ、意思の中で考えることは意外とできる。以前は放蕩息子の例も上げたが、彼のように、「なぜ父親からもらった財産を湯水のように使ってしまったのか」「なぜこんなみすぼらしい生き方をしなければならないのか」と考えることはできても、そこから「父のもとに帰ろう。しかし、私は大きな罪を犯したから、息子となる資格はない。しもべの一人にしてもらおう」と悔いて、変わることは難しい。彼は家へと帰り、その悔い改めを父の下で行った。それによって彼は許しを得、もう一度、息子として父の愛の腕の中へと飛び込むことが許されたのである。神を信じる信仰はここにある。先日の礼拝では私たちの天の御国は悔い改めによって確立し、与えられるという事実を語ったのである。私たちは自分自身で自らの罪を許してしまったり、簡単にそのときを越えてしまったりすることがある。しかし、本来は、聖書や、メッセージによって語られる中で、自らの罪を見出し、それを悔い、神の語られる方法をもって改めていく必要性があるのである。またそれはただ自らの中で完結する問題ではなく、人格を通して行われなければならない。放蕩息子は父の下に悔い改め、遜っている姿が書かれているがこのようでなければならない。同じ過ち、罪を何度も繰り返してしまう人がいるが、それはきちんとした悔い改めを行うのではなく、適当に自らの中で終わらせてしまっているからである。本当に神の国を勝ち取り、攻め取りたいとするならば、「悔い改め」を聖書やメッセージによって導かれるように神や人格同士を通して行わなければならない。だから注意して覚えてほしい。神の国は一時の善行、人を助けることによって勝ち取れるものではない。そこには必ず悔い改めがなければならないのである。


Q:先日の祈祷会の賛美で「ロバの顎骨」というところが出てきて、士師記のことだということはわかったのですが、その意味はどのようなことなのでしょうか。

A:これは私たちを主が用いてくださり、敵を倒されるということを歌ったものである。私たちは役にも立たないようなロバの顎の骨であるけれども、それを持つ主の力によって使われることで大きな力となることができる。だからこそ主の手のなかに自らを捧げ、私を用いてくださいと告白しようという賛美なのである。賛美にはその歌詞によって多くのことが語られている。この賛美は一面私たちの意志によるものではなく、どちらかというと神のほうからの働き掛けによって力が与えられるということを語っているが、逆に私たちのほうから神に対して私にこの働きをさせてくださいということが語られている賛美もある。それはすべて聖書に基づき、作られている。この元となる聖書は広い世界観とボリュームを通して、多くのことが、様々な場面を通して語られている。しかしその事実を前に、「これだけ多くのものを捉えるのは大変だ」とするのではない。聖書はこれだけのことを通して神の愛を偏に語ろうとしているのである。だからこそこれを読む私たちは神の愛の深みというものをここに書かれた多くのことを通し、捉えていくことができるようになるのだ。それは生涯すべてをかけてとらえていくほどの事柄である。またそれを捉えることができるならそれによって自らと自らの周りにいるものの生涯を愛と恵みと祝福に満ちたものへとすることができるのだ。しかし注意していかなければならないのは私たちの人生はそのようにすべてを用いて神の愛の道を究めていくことができる一方で、自由ゆえに、違うことに自らを陥らせてしまい、神の愛の道から外れてしまうことがあるということである。しかもその最初の誤りは簡単には分かりにくいものであり、神の道を歩いているつもりで、先に行って初めて、誤った道を歩いていたということに気付くこともあるということもあるのだ。だからこそ、日々の教会出席を大切にすべきである。なぜならその中で語られる言葉を通し、自らを見直し、時には悔い改め、方向をもう一度定めて神の道を確実に進んでいく歩みへと変えていくことができるからである。決して自分は大丈夫だと侮ってはならない。そして、自らの子どもを神の道から外れないようにと考えるなら、幼い時から、その意味が分からないときからでも集会に参加し、その話を聞ける環境を作っていくことが大切である。なぜなら本当に彼らにとって必要な状況になったときに自然と神から語り掛けを受け、その語られる言葉が彼らの心に留まるようになるからである。すでにここにも多くの子どもたちがその席を占めているが、このように少しずつでも神から与えられる言葉を蓄えていく必要があるのである。


Q:先ほどダビデの話の中で、自覚するという話が出てきたのですが、もう少し詳しくお話していただけますか。

A:自覚というのは、過去を振り返りながら、自らに足りない点や、不足を認識すること、またそのことに気付いて改善しようと考えることや、改善しようとしても取り組めなかったことを振り返ることなど、すべてのことを自覚と語っていた。またそれは神によって与えられた祝福を認識するということや、神によって示されたのにも関わらず取り組むことができなかったと後悔することも含まれている。これらすべてのことが自覚なのである。それは神自身が自覚を求めておられるからこそ起こるのである。ただ手をたたいて神を拝んでいればいいというものではない。神や人との関わりの中で生まれてくるものが自覚なのである。だからこそ自覚することによって絶望にも立たされることもある。しかし、それは神がいない人の話である。私たちは自覚しても、神を信じるゆえに、絶望的な自分をも受け入れることができるのである。また自覚はしたからといって、そこから自らを変革できるとは限らない。できないこともあり、時と場合によっては放置してしまうこともある。しかし、まず自分にあるすべてのことや過去を振り返ることで認識し、悔い改めや感謝によって進んでいくことが必要なのである。私はそのことをしっかり行っていくために必要なのは伴侶の存在だと思う。しかも手ごわい伴侶であればあるほど良い。ただ自分を甘やかすような存在ではどうにもならない。手ごわいからこそ同じように自分も強くなっていくことができるし、また自分が強くなれば相手もまた手ごわくなっていく。それによって私たちは互いに信仰者として成長が与えられ、変革へと至ることができる。伴侶者は互いに相手に変革を促すとても大切な人格なのである。


Q:ペンテコステの礼拝の際に「成長に必要なのは信仰、希望、愛によって明け渡す」ということが語られていましたが、どういうことでしょうか。

A:すべてのことにおいて、信仰や希望、愛を理由に自らを相手に明け渡していくことができるかということである。例えば、伴侶を愛するゆえに相手のために自らを差し出して働くことができるかという意味である。ケイラが裏切ることにつながろうとも、「そんなことってないじゃないですか!」とダビデは神に訴えなかった。それはダビデが神を愛していたからであり、神に自らのすべてを明け渡していたからである。だからこそ彼はたとえ神に従うことで事が好転しなくても訴えることはなかった。悩むことがあろうとも、そのように彼ができたのは神を愛していたからである。
明け渡しとは、自らの持つもの、時間、したいこと、感情、そのようなことを捧げていくことである。相手のために必要ならば、自らが望むことを一旦おくということも明け渡しである。また夫婦で言うならば、たとえこの人の故にともに滅びることになっても、それでも私はこの人についていこうというのならそれも愛ゆえの明け渡しなのである。
母性というものもこれに極めて似ている。子どものためにすべてを捧げられるそのような感情である。それは一面自らから産まれたものだからということが大きい。体の一部ともいえる存在としてなっているのである。しかしこの母性についても注意していかなければならない。ただ無意識に子どもを大切にしているのではなく、愛によって意識して行っていかなければならない。そうでなければ、本当に子どもに必要な愛の育みができない。例えば母親は自然と子どもを近くにおいておく。しかし時にはそれも自らから離して、父親に預けていくことも必要である。父親は子どもが生まれたからと言って父親になるのではない。子どもと関わって愛着を持って初めて父親になるのである。母親がいつまでも子どもを囲っていては、父親の愛着は育たないし、それでは愛によって子どものために自らを明け渡していくなんてことはできない。だから母親は子どもとその父親を愛するなら、自らから子どもを離して父親に任せることが大切なのである。そしてそれこそが意識されたうえで行われる愛の明け渡しである。 またもう一つ大切にしたいのは明け渡しによって現れる私たちの心への聖霊の働きである。私たちがそのように神のもとに明け渡していくと、聖霊が自らの中で生きてくる。そしてそれは私たちの心に変革を及ぼすのである。「相手の言葉を素直に聞けるようになった」「今まで視界に入りもしなかったものが目にとまるようになった」そのようなことが私たちの中に生まれてくる。これが聖霊の働きなのである。このことを覚えておきたい。私たちが神に明け渡していくことで、聖霊が豊かに働かれ、神への姿勢だけではなく、自らの周りに対する姿勢や考え方にも影響を与えるのである。この変革は大きい。なぜなら、周りにいるものすべてにあなたの変化が表され、それによって、神の姿が表されるからである。あなたの変化によって人はあなたを変革させた神の力、信仰の力を知るのである。


Q:今回取り上げられたところでダビデがサウルを主の手に渡されたのにもかかわらず、殺さずに終えたということがありましたが、これも聖霊の働きによって起こされた変革によって導かれた選択だと思うのですが、このような選択をできるようになるにはどのようにすればいいのでしょうか。礼拝を聞き続け、祈り続けることで身につくものなのでしょうか。

A:神という方を自らの前にどのように置いているかが大切である。神が人格を持った方であるということを理解しておかなければならない。しかし人格という枠組みを絶対なる存在である神につけることはできない。それは神という方に限りを作ってしまうことになるからである。ではどのように捉えるべきなのだろうか。私たちはイエスキリストという人となられた神の姿、その方の人格を通して父なる神がどのような方であるか、父なる神の中にも人格があるということを捉えることができるのである。また聖霊についても述べるならば、私たちの意志と一緒になって働かれるのが聖霊なのである。それは神が私たちと一体になろうとしていることを、これによって捉えることができるのだ。
話を「選択」ということに戻していくが、選択を行う時に私たちの意思に働くのは聖霊の力である。それは先ほども語ったように私たちの心と一体になっている。そして私たちが神や聖霊の存在を意識するときに人間の持つ罪性を是正したり、逆に神の目にかなうことを行ったりすることができるようになるのである。若いうちは時間をかけながら、考えながら、様々なところを通り過ぎ、その中で経験が蓄積されていく。年を取ると逆にその経験によって多くのことを乗り越えることができる。だからこそ若いうちによく考え、神が自らの選択や、考えをどのように思われるかということに目を向ける時間としてこの時を持っていくことが大切なのである。それによって生まれる年をとったときの差は大きい。言葉一つとっても私たちの意志一つで変わる。何も考えずに言ってしまって後悔してもその言葉は取り消せない。またその言葉をどのタイミングで出すかということも大切になってくる。相手に言葉が届くタイミングを見て、ファイリングしている中から話をする必要がある。相手が切羽詰まっているときに相手のミスや、改善の必要な点を指摘するのではなく、相手に聞く余裕のある時そのような時を狙って行うなど、そのようなことも必要なのである。この若い時期に神のことや自らのことをよく考え、一つ一つの時間を大切にしていってほしいと願う。


Q:一年前の青年会で日常の中で信仰生活を考えたりすることも神とのコミュニケーションになっているということを話されたときがあるのですが、私はそのような時に環境が整っていないと考えていくことがなかなかできないのですが、どのようにしていったらいいのでしょうか。また祈るということにも困難を覚えるときがあるのですが、どのように祈ればよいのでしょうか。

A:祈りに関して言えば、まず他者の祈りを聞くということ、和するということが大切である。 礼拝などで、代表祈祷があるが、そのような時に、他者の祈りを聞いているかが大切なのだ。祈りに和することができないと、半分夢の中だったり、ほかのことを考えてしまったり、祈りはあっという間に流れていってしまう。だからこそまずは意識して聞いていくことが大切である。それを越えると、今度は自然と祈られていることに意識が向き始めるようになり、逆にほかのことを考えられなくなる。このことを習得していかなければならないのである。それは礼拝のメッセージでも同じである。どれだけ集中して聞くことができるかである。そして聞くことができればそれによって蓄えたものが、自らを構築していく材料になる。そうやって聞いているとこの教会独自の祈り方、共通する言葉の使い方なども見つかってくるだろう。それはこの「聞く」ことによって養われたものなのである。長く聞き続けたお祈りが、そのまま自らのお祈りの基礎となっていくのである。だからこそ祈りを習得したいと思うなら、自分も同じようにやるつもりになり集会での祈りを聞いていくことが大切なのである。この集会の初めにも祈られた短い祈りの中にも、集会に必要な祈るべきことがいくつのことがきちんと祈られている。私たちの周りにはよく聞くことで蓄積していくことができる材料が多くあるのである。だからこそ、よく聞き、「ああこのように祈るのか」というものを見つけ出し、蓄えていく必要があるのである。先ほど語った意思するということにつながるが、このようにしてお祈りやメッセージを捉えることもまた意思である。祈りやメッセージを通して、語られる言葉を捉え、その内容に沿って考えを巡らし、自らを形作っていく。そのように意思していかないと、結局は賛美一つでも口だけが動き、歌詞の内容を考えなかったり、メッセージを聞いていても違うことを考えていたりするのである。またそれらの意思することの裏には神の存在を意識するということがある。神を意識し、ここにおられると思うから私たちは心から祈り、賛美し、そのメッセージを聞こうとする。しかし、ひとたびその意識が離れれば、神の存在すらも意識せずに日々を歩んでしまう時がある。だからこそ注意していかなければならない。私たちも、人を意識していると挨拶できるが、その意識が疎かになったとたん、知り合いや上司が横を通ったのに気づかず、スルーしてしまうことも起こりうるのである。同じように、神に対しての意識が疎かになると、私たちは神からの語り掛けや、聖霊の言葉をスルーしてしまう。それでは、神との関係が中途半端なものになってしまったり、神の言葉を受け取れなかったり、捉えることができなかったりということが起こりうるのである。だからこそ、神の存在を意識しつつ、神から与えられるものを逃さないよう日々の歩みも意思しつつ、一歩一歩進んでいくことが大切なのである。


Q:日々仕事で人と接する際に相手に仕えることがいかに大切なのかとヒシヒシと感じています。35歳になるときに仕事を変え、そこから人事の仕事なったり、飛び込み営業のようなことをやったりもしました。しかし、その時も上司が言った営業方法を馬鹿の一つ覚えのように、同じ言葉で同じように相手に向けて語るなどして越えてきました。そこから今自分の会計事務所を立ち上げ、人と関わる中で、上に立つということはさほどのものではなく、相手のためにどれだけ仕えていけるかが大切なのだと日々感じています。30代の時に考えていた上に立つ者の姿では実際的にはないのですが、私は自分の経験してきたものを多く活かすことができ、いま相手に仕えることができているように感じました。それもすべて、これまでやり続けたこと、言われたことを忠実に行うことによって、身に付いたのだと感じています。確かに苦しく、困難ではありましたがだからこそ、それを乗り超えてきたからこそ、現在それらのことが実を結び、多く活かされて相手に仕えることができているのだと感じました。

A:あなたのその姿はダビデががむしゃらに培っていったものと似ている部分がある。神の助けがあったことや、あなた自身がその所に身を置くことを選び取っていったこと、信仰者として、従っていったということ、それらすべてが現在のあなたを作り上げ、そこに実りを迎え、実感することができるようになったのだろう。あなたの奥さんと結婚したことはそのなかでもあなたにとってよかったことだろう。彼女の懐の深さもその意味であなたを支え、時にはうまく手の上で転がしながら、一面あなたにとっては大変だったかもしれない日々だったが、その所を過ぎることができた。あなたが以前足のケガでほぼ一か月休職したこともあったが、その時も会社はあなたを捨てずに待っていてくれた。それも、会社内でほかの人は馬鹿にしていた社長の息子を「馬鹿にしないようにしなさい」と語ったとき本当にあなたは馬鹿にせずにいようという姿勢を見せた。そのことがあなたを会社が手放さないでいようと思った一つの要因となっただろう。またそれによってあなたはどんな相手でも馬鹿にせずに関わることができるようになった。それもあなたがどのようにするべきかと相談をするということもしたし、そこでこうしてみたらという提案に従っていたからこそ実ったのである。聞きに来ることはとても大切なことである。しかし、聞きに来てもそのことに従わなければ神の道は開かれないし、結局変革は与えられない。助言を聞きに行くこと、それに従って歩んでいくことで神の恵みは様々な形を通して与えられるようになるのである。

(仙台聖泉キリスト教会会員)