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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-104  —

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山本 咲


サムエル記Ⅰ 29章


 ダビデがペリシテ人のアキシュのもとに身を寄せて、ペリシテ人の地にいたころの話である。これまで、ダビデが様々なことを通し、彼が生き延びてきたということを取り上げてきた。神の選びは勿論だが、彼自身に賜物があったということは言うまでもない。彼はその中で、このような苦しみを通ることで神からの訓練を受けなければならなかった。神はダビデに厳しい扱いの中を生き抜くことをお求めになった。それはダビデが神を信じて現実を生き抜いていくことを身につける必要があったのである。私たちはダビデの話を読ませていただくとき、私たち自身も神を信じるということと現実を生きるということをどのように結び付けていくか、知識、理解だけで宗教を生きていないかを考えていかなければならない。神という方は見えないし、その声は聞こえない。そのような中で信仰していくということはどのようにして行われていくだろうか。具体的に何を生活の中で行っていくだろうか。それは私たちの信仰生活において一つの点ではなく、長く続けて線のように行われていくものである。そのような行動によって私たちは自らの信仰を表すことができるのである。ダビデの歴史的状況、信仰的行動はこのようなサムエル記の記事からわかる。また心情は詩篇から読み取ることができる。彼の信仰や神への祈り、その身の内に抱えていた思いを詩篇から読みつつ、彼が神を信じ、畏れながら期待しつつ、現実を生きていたか、行動したかということをサムエル記から考えてもらいたい。ダビデはアキシュの所に逃げるという行動をとった。神を信じてイスラエル国内を逃げ続けるのではなく、ペリシテ人の中へ身を置くことで自らを守ったのである。もちろんリスクはあった。しかし、ダビデはアキシュという人物を見極め、彼の好意を得つつ、欺くことができるかと画策し、その有能さでそこを生き抜いたのである。実際にはアキシュと共にイスラエルと戦うというところまで来たが、取り上げた個所に書いてあるように、周りの首長によって戦いから逃れることができた。これもただダビデが黙って何もしなかったのではなく、裏で働いたことでこのような状況が起こったと考えれば、この箇所も捉えられると感じる。この箇所に直接的に神が干渉された記述はない。沈黙される神の姿がある。神を信じるということをどのように行っていくか、それがどのように導かれるか。ダビデのこのような行動に神はすぐさま罰を下される方ではない。むしろ先ほども語ったように沈黙しておられた。だからこそ一面ダビデもこのような中で自らを是認していくようになる。私たちもこのようなことに気を付けていかなければならない。神はそのままでいいとされる方ではなく、その道からもう一度戻るように示されるのである。それにもかかわらず私たちは時に、神の語り掛けに対して「致し方ない」という言葉を用いて、自分の思いに任せた道に歩みを進めていってしまうのである。だからこそ私たちはそのようなことを避け、恐れていかなければならない。そしてやはり主の手の中に陥るということを私たちは選び取らせていただきたく願う。


Qアキシュは前書にガテの王と書かれていたのですが、ガテがペリシテの首都みたいなもので、王としてそこにアキシュがいたのでしょうか。ペリシテはどのようになっていたのですか。

A:ペリシテは5つの町があり、その町の領主が集まってペリシテになっている。アキシュはその一人でそのほかに4人の領主がいる。それが連合軍を組んでイスラエルと戦うという状況である。ダビデの動きに対する解説は様々なものがあるが、私は注解書を通して聖書を読み解くと同時に自分たちの年齢、経験に合わせて聖書を読むということが良いと思う。そのようにすることによって考え方をより自らの成長に当てはめていくことができるからである。例えば若い時には、ダビデを純粋に捉え、ダビデがどうしようもなくて逃げ込んだ先にアキシュという人がたまたまいて、そのように事が進み、「ああ神が助けてくださったんだ」という捉え方でもよい。しかし年齢を重ねるとただ単純に事が進んだわけではないことも考えられるようになる。賢く、人望があるから上り詰めるのではなく、裏で様々なことをして初めてそこに事がなるという考え方に変わる。ペリシテへの逃亡もただたまたま逃げた先がうまくいったのではなく、考えた末にそこに至ったことが分かるのである。イスラエルの領内でサウルに追われ続けることは困難なことであった。それはイスラエルの民がダビデ派なのかサウル派なのかが分からないからである。後半のところでダビデはユダの荒野をさまよっている。自分の部族の領内にもかかわらず、サウルから逃れるために右往左往しているのである。それも誰が味方かわからないからなのである。私たちはサウルが失格者であったことを知っている。しかし、当時のイスラエルの民は彼の信仰と神に仕える姿勢ではなく自らの願いに応えてくれる王であるかどうかがその選択の基準であった。当時の人々にサウルは人気だった。だからこそ、ダビデはイスラエルの領内にいることを恐れたのである。だから彼はペリシテに逃れ、アキシュを手玉に取ることを選んだ。しかし彼にとってはそのほうが易いことだった。彼はその方面でアキシュという人物を選んだのではないだろうか。だからこそ私たちは神を恐れて信じている信仰者としてことの線引きをしていないと、生きるゆえに自らのやりやすい方法を用いてことを動かしてしまう。それによって確かに事は動くかもしれないが、心苦しかったり、何らかの問題をそこに残したりすることになりうるのである。それでも、私たちは時にもはや自分をもだまして、自らの危機的状況をかえようとするのである。そしてそのまま教会では信仰者として日々生きているように見せ、しかしその内側は、自らを是にしてしたいようにすべてをしているという状況なのである。それは決して信仰ではない。ましてやそんな方法を用いていることを一番に知るのは彼の身内である。ダビデもそのような一面を持っていたし、それを知っていた人もいた。そしてそれを不真実だと思っていただろう。ダビデも今後変わっていくように、私たちも注意し、このようなことが思い当たるならば、変えていかなければならない。それによって私たちは身近なものの信仰も守ることにつながるのである。


Q:聖書研究会基礎科の中でギデオンを学んだのですが、設問の中に「ギデオンの持つ能力は何だったでしょうか」ということが書かれていました。彼の能力とは何だと先生は思いますか。

A:前後が分からないため、設問にあっているかはわからないが、彼の中に「現状を変えるために何かを行うべきだ」という考えがあったことは確かである。もちろんできるかどうかは別問題であったが、その彼の心の動きに力を与えてくださったのが神であった。神は彼のその考えに私が助力しようと働かれたのである。もちろん彼もただその言葉をすぐ信じて行動することはできなかった。だからこそ、しるしを求めているところがある。しかしひとたびしるしが行われ、神がともにおられる確信が持てた時にはどのような状況であっても、例えば、300人という少ない人数で戦いに出て行っていったときにも、彼は「やめる」とは言わなかった。そして戦いに出ていって確かに勝ち取っていったのである。彼の中にはそれほどまでにイスラエルを救いたい、この状況を打破したいという思いがあったのである。イスラエルの民には神がついておられるのにもかかわらず、なぜこのような状況に陥っているのかという率直な思いと、彼のイスラエルを救いたいという思いに神が力を与えてくださっていたのである。彼の能力はイスラエルに対する愛、純粋な愛を持っていたことだと思う。純粋さは様々な問題を乗り越え、達成されたときにはじめて証明される。神はギデオンの中にイスラエルへの純粋な愛を見出された。だからこそ、彼を選ばれたのである。あなたも家族愛があるなら、どんなに足らない部分があろうとも、時と共に神がそこに力を与えてくださり、養われていくのである。


Q:先日のメッセージの中で、自分のことを相手に語る力が大切ということが語られたと思うのですが、もう少し詳しく知りたかったのですが。

A:相手との関係を作り上げるうえで、相手を捉えることも大切であるが、相手に自らを示すことが大切であるということを語ったのである。人格の交流にそのようなことが必要なのである。私がどの話の流れでそれを取り上げたのか正確にはわからないが、ヤコブのことに焦点を当てて語ってきたことから考えるならば、ヤコブという人物がどれだけ霊的なことにこだわったか、それを周りに示してきたかということにつながると思う。ヤコブ自身は、その人生のなかで霊的経験を大切に扱った人物であった。逆に言うならば神以外のことは端折って生きていた人物であるともいえる。聖書の記述の中で彼は多く霊的経験が取り上げられている。始めのほうにラバンの下で羊をどのように増やしたかということを取り上げたぐらいで、後はペヌエルやシェケムでの問題が彼の書物の多くを占めている。彼は神の問題のみ強調して取り上げている。彼にとって霊的なことが特に重視されているのである。霊的なことに関心があるからこそ、霊的でいられる。もちろんほかのことをしてはいけないというわけではない。しかし、私たちの人生を形作り、信仰者として語り、締めくくっていくには霊的な事柄が注視されていくか中心に置いて考えられているかが大切なのである。彼の素晴らしいところはその命の終わりの時まで霊性にこだわり続けたことである。ヤコブはヨセフの息子のマナセとエフライムに祝福を与える際、本来右手が兄、左手が弟であるにもかかわらず、マナセが長子であるのに、あえて手をクロスしたということがのちに取り上げられているが、それも彼にとっての霊的な問題だったのである。それほどヤコブは霊的な経験や、神からの祝福にこだわったのである。また彼は息子たちに預言と祝福の言葉を残している。そこからわかるのは彼がいかに自分の人生を霊的に形成し、意志をもってそれを与えるだけの力が備わっていたかということである。彼はそうして相続地やお金というものではない目に見えない財産を自らの子どもたちに残したのである。私たちもどのようにして人生を霊的に維持し続けるか。自らを表すときに、お金や、単純な人柄ではなく、神にかかわる事柄に対応していく霊性というものを表すことができるか。それによって私たちは自らの人生を形作っていくことが大切であるということを語ったのである。私たちも子どもたちにどのようなことを継承していくか。お祈りしていればいいか、聖書を読んでいるところを見せればいいか。なんにせよ、霊的にその人生を送ることが大切なのである。しかし、人間は生きるということに夢中になってしまう。そうするとただ日々を送るので精一杯で、その苦しみや、困難さなど、世の中と同じようなものになってしまうのである。家庭の価値観が金銭で動いている家だと、金銭を稼ぐ父親が一番高い位に置かれており、逆に金銭を稼がない子どもが下の位にいるということで位や、家族関係が出来上がってしまう。しかし、それは子どもが金銭を稼がない間はいいが、自分で稼ぐようになれば、あっという間に立場も逆転し、離れていってしまうのである。だからこそ、私たちが日々神を恐れることや、その信仰を表すこと、神と対峙していくことで霊性というものが養われ、家庭の価値観が霊性によってはかられるようになる。だからこそ霊性を養っていくことが大切なのである。


Q:年相応の読み方ということを先ほど語られていたのですが、私は先ほどの「ダビデがペリシテの地に逃げた出来事」をダビデが油注がれたことを信じ、その中で生きるために、ペリシテに逃れることを素で行っていったのではないかと思うのですが、それも個人の読み方ですか。

A:そのとおりである。だからこそ、その読み方を自らの信仰生活に活かしていけるかなのである。もちろん一足飛びにそこまで行けるものではない。初めは純粋さを捉え、そこに率直に正直に、人の言葉に耳を貸し、そのすべてが行われたときに基礎が出来上がるのである。それに沿って自らを立てあげていくのである。しかし、この信仰とは空想話ではない。私たちが現場で実際にどのように行っていくかでまるっきり変わってしまうのである。 私たちの教会では小さいうちから教会内で育っているため、お互いの欠点や、弱点、偏りもわかっている。だからこそ、逆に自分の苦手なところをどのように改善していくか、その取り組みが重要になっていくのである。もちろん、それによって他者が断罪していいということではないが、そこを知っているからこそ、人それぞれの取り組みへの姿勢から、相手の信仰への姿勢が分かってくるのである。家庭では、なおその部分が重要になる。より近くで見るだけでなく、判断もシビアになってくるからである。しかし、そこで信頼や、尊敬を得られたなら、どれだけ多くのものを残すことができるだろうか。それが私たち信仰者として神を表す際に必要なことである。なお取り組んでいきたく願う。


Q:先日の成人科で暗唱成句をしたほうがいいということが語られ、私もそのほうがいいと感じました。またその時に子どもたちにも何らかの取り組みをしていったほうがいいと思ったのですが、どのように教えていったらよいのでしょうか。

A:いろいろな方法があるが、御言葉だけにこだわる必要はない。私たちの生活の中で神がいることをどのように表していくか、そこにどれだけ注意を払っていけるかが大切なのである。先日ある姉妹の2歳の娘との交わりを書いた連絡帳が、その子の保育園で話題になっているということが私の耳に入った。その内容は「忙しく、大変だった一日の終わりに娘と歩いていたら虹が出ていたので、姉妹は娘に神様からのご褒美だねと声をかけた。」ということだった。保育園では苦しい時はその姉妹の連絡帳を読めばいいといわれるほどそこに彼女の信仰が表れているのだと聞いた。私はこの姉妹の話を彼女本人や、教会の関係者から聞いたわけではない。その保育園に臨時講師で通っている牧師先生が教会の関係で行っているゴスペルグループのコンサートで使用する機材を借りたいということで助けを求めたのが私の知り合いだったのだ。そしてその人を介して私たちの教会に依頼がきた。その先生と話している時に話題として出てきたのが姉妹の連絡帳の話だったのである。 話を戻すが、それほどまでにその姉妹は生活の中に神の存在をちりばめている。「神様がこうしてくださった」や「神様はこういう風に言ってるよ」というようなコミュニケーション1つとっても子どもたちの中に神やイエスキリストを教えていける方法なのである。ここには母親の霊性によって現れる。その霊性を持てるかどうかが大切なのである。また言うならば、この母親の霊性を担保するのが父親の仕事である。例えば時間がなく聖書を読むことがなかなかできないなら、「お父さん、今日の聖書日課で印象に残ったところは何?」と聞き、そこで父親の霊性を通して読まれた神の言葉が母親に与えられるのである。それによって母親の霊性も保つことができるのである。成句を丸々暗記するということではなく、その語られた内容によってどれだけ自らを生き永らえさせる力を与えていただくかということが大切なのである。親がどれだけ心からそれらを大切にし、良さを理解してその中に生きているかが子どもたちに必要性として伝わる。だからこそ、子どもにも「讃美歌を聞きなさい。ほかの曲はダメ」というのではなく、讃美歌によってどれだけ私たちの心に力を与えるかということを自らが実感しつつ、子どもたちの前に示すことが大切なのである。親にとって礼拝に出ることやそれにかかわる、様々なことが苦行になれば、子どもにとっても苦行になってしまうのである。同時に大切なのは子どもたちの持ってくる外からの様々な問題をどのように対処していくのかということである。私の娘たちは小学校の帰り道に銀杏の葉を何枚も拾ってきて、それを花束のようにして母親にプレゼントしていた。それを受け取った彼女は「神様がきれいなものを作ってくださって私たちに見せてくださっているのね。持って帰ってきてくれてありがとう。」と言っていた。これもちょっとしたコミュニケーションである。このような日ごろからの言葉が大切なのであるし、子どもが持ってきた世の中と信仰者の生き方との中に生まれる疑問に動揺せずに答えていくことが必要なのである。私の娘は銀杏だけでなく、死んだハトを持って帰ってきたこともあった。私が幼稚園に迎えに行った時だったが、幼稚園内でカラスに襲われて死んでいたらしい。彼女は幼稚園では埋められないから、それを持って帰って埋めたいと私に言ってきたのだ。母親が迎えに行っていたら、「きゃー」と悲鳴を上げて、断っていたかもしれないが、私だったので、私も動揺せずに、新聞でくるんでもらった死骸を持って帰ってきてともに家の裏手に埋めた。子どもたちは何をするかわからないが、それらに親がどうこたえていくか、なお取り組んでいってほしいと思う。


Q:先日の礼拝の中で、人と自分を比べて相手によって自分をよしとしてはいけないということが語られましたが、私も心の中で人と比べて自分をよしとしてしまったことがあって、語られたことを考えれば、ヤコブのように相手に謝罪をしなければならないのだと思ったのですが、そこからどのように心の営みをしていけばよろしいのでしょうか。

A:ヤコブは心の問題ではとどまらなかった。彼はエサウの祝福をだまして奪い取ったという事実がある。これは心の問題ではなく、事実として残ってしまったのである。だからこそエサウと会見をしなければならなかったのである。神はヤコブと対照的にエサウを置いている。私は彼が恐ろしい。エサウは400人という人間を率いて現れた。そこには多くの財が払われている。一人1日1万と考えても、400人を10日束縛するとして4000万もの財を投じている。そこまでしても彼はヤコブに何らかのことをしようと出向いてきたのだと考えられる。なぜならあらかじめヤコブが情報をエサウに送っており、彼にはヤコブに対峙する準備を行うことができたからである。彼にはそれだけの力があった。まるで私たち信仰者と対峙する世の中の人々のようである。エサウは神を知らないわけではない。その中で彼は考え、神に仕えないという道を選んだのである。エサウには、ヤコブは結局神頼みで、力も何もないだろうという思いがあったのだろう。というのも、自分には野に出て、獲物を捕り、料理して父のもとに出すだけの力があったのに対し、ヤコブは母親の力を借りて行ったことで、一切自分で行ったことがないと思われているからである。だからこそ、どっちが上だとか、力があるとか、をこのところに表すということが重要だったのではなく、ヤコブがこの会見の場で謝罪の心を表し、罪を悔い改めるということで自らの姿を現すことが必要だったのである。それによって彼は自らが神を信じ、真実に歩む信仰者であることを表し、同時に自らが人と神の前に抱えていた罪を悔い改めたことで、他者や神との関係を回復していくことが大切だったのである。私たちも同じである。ただ自らの罪をその場しのぎでごまかし、ばれないように放置するか。それとも、自らの非を認め、罪を相手に言い表し、許しを請うかが大切なのである。自分が誤って花瓶を割ったのにもかかわらず、うまく隠してしまおうとするなら、あとで見つかったとき、結局その罪に重ねて隠蔽の罪を犯していることになる。しかし、そこで「私が割りましたすみません。弁償します」とでもいえば、もしかしたら「大丈夫、大丈夫。ここに置いておいた私も悪いし、そんなにいいものでもないから」とそれで済むかもしれないし、それでは気が済まないからと、違う花瓶を買って花を活けて用意するなら、それによってあなたの犯した過ちですら、そこからの歩みによって良い印象に変わるのである。隠蔽することで得られるものは少ない。にもかかわらずそのような行いがいかに私たちの心を苦しめ、生き辛くするか注意していかなければならない。むしろ私たちの過ちからの生き方が、信仰者としての私たちを明確に表すのである。私たちは信仰者として、逃げ道に行くのではなく、神を信じ、神がそばにいて、私たちのそのような弱さをも知り、力を与え、支えてくださることに感謝し、真実を貫いていきたく願う。そのような私たちの姿が、見る人々に疑問と共に、神の姿を現すきっかけになっていくのである。若いうちからそのようなことを考えていくことが大切である。それによって私たちの人格は形成されていく。そのような歩みが結婚した相手にも、育てる子どもにも大きく影響する。私たちが神を信じて真実に歩むとき、神が与えてくださる祝福の中に歩むことができるのである。どうぞそのようなものになっていって欲しく願う。

(仙台聖泉キリスト教会会員)