同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— イエスの平安 —

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ 15:27)
「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」(コロサイ 3:15)

 同じことを何度も書いてきたと思いますがまた書きます。
 今年は5月31日がペンテコステです。イエスが復活された後の最初のペンテコステは、弟子たちにはじめて聖霊が注がれた日です。その日を境に新時代が到来しましした。

 主が最後の晩餐の時にされた説教の中心テーマは聖霊です。
「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨhネ 14:26)
「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」 (ヨハネ 15:26)
「わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ 16:7-8)
「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。」(ヨハネ 16:12-15)

 この主の説教を読むと、聖霊は知恵、知識、理解力、能力(力)を与えるお方、愛の品性を与えて、弟子たちにイエスの枝として実を結ばさせて下さるお方であることがわかります。

 私が心配していることは、皆さんの中の多くの方が、聖霊についてこう書いてあります、という知識を持つだけで、実際に弟子たちが受けたように聖霊を受けていないかも知れないということです。
自分にもそういう時がありました。
教会の集会には欠かさず出席し、聖書を読み、信仰書を読み、献金に励み、教会の活動に積極的参加し、大学で聖書研究会をし、教会の掃除をし、町に出てトラクト配布をしてくる、といった具合でした。そういう信者が自分の教会にいたら喜んでしまわれないでしょうか?
 そのようにしながら、こころに「平安」がないのでした。救いを失ったわけではありません。まちがいなく救われ、信じ続けていました。しかし、救いの恵みに与ったときの、感動、喜びもいつしかその感覚が薄れていました。そのこころの状態は、聖霊を頂いている今だから、はっきり分かることです。
 救われているんだから、平安だ、喜びだ、ハレルヤ!と叫ばれても、学生運動をやっているリーダーたちのアジ演説同様、進め、進め!と駆り立てるだけで、中身がないと感じてしまうのでした。
 日本の信者の中にひ弱な信仰の人々が多いのではないかということが、先の述べた危惧につながります。この平安のない状態の私の姿がそれです。
 教会の中で育った子どもたちのあるものは、救われないまま、教会を去ります。またあるものは、救われ、輝いた信仰生活を送っているように見える時を過ごしますが、教会からいなくなります。この後のグループが起きてくる理由がこの平安のない状態のまま信仰生活を続けているひとびとがいるからでしょう。
 子どもの時不信者の世界に育ったけれども、成人してから救われて教会に加えられた人々のなかにも、そのような状態止まりで、恵みに進んでいない方もおられるでしょう。

 私に聖霊が来て下さった日、それは解決しました。涙の谷を通らされる様なときもありましたが、「キリストの平和」は失われることがありませんでした。

 皆さんが、主の晩餐の説教を「絵に描いた餅」のままにせず、それを実際に経験させていただき、その幸いを味わうことができますように。 大切なことは、自分のこころをしっかりと見ることです。前回「ありのままの姿」でイエスの前に出ることの大切さについて書きましたが、「救われているのだから平安なはず」と決め込んで、自分のこころを素直に見つめないことがあってはなりません。救いの恵みに与る絶対的な条件である「ありのままの姿」でイエスの前に立つことは、聖霊の恵みをいただくための絶対的な条件でもあります。自分で自分の姿を受け入れないひとは、聖霊に与ることができません。
聖霊に満たされる経験をしていないなら、「私はまだ聖霊を受けておりません。神よ。私にもそれを下さい。」と叫ぶことが必要なのです。

「天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」(マタイ 11:12)