同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(2) —

野澤 睦雄


「見張り人はみな目が見えず、知ることがない。彼らはみな口のきけない犬、ほえることもできない。あえいで、横になり、眠りをむさぼる。」(イザヤ 56:10 )

1.救いに至る道

 ・必要の自覚

 人は、自分は幸せでないと気づいても、衣食足りているから私は満足すべきだ、健康だから満足すべきだ、まあ人並みの人生を送れている満足すべきだ、・・と自分に言い聞かせがちです。
 あるいは、何か没頭するものがあって、自分は幸福か?とか考えないこともあります。

 すでに救われているお互いは、自分の救いについてよく考察してみるとよいでしょう。
 以前、「友よ、歌おう」という讃美歌集がよく歌われた時がありました。その中の讃美歌のひとつに、一部分だけですが、

♪  むなしい心をいだいて
   あてなくさまようとき
   キリストの十字架のもとに
   わきでる泉をみた
     いのちの清水をのんで
     新しい力を得よう
     いのちの清水をのめば
     こころがみたされる

という歌詞がありました。
この歌のはじめの部分は、私が救われる直前の時の状況にぴったりなのです。
「ああ、虚しい」これが私の心の叫びでした。
しかし、そう思うようになる前の長い期間がありました。なんの屈託もなく、遊びに、勉強に、仕事に、毎日を過ごしていたのです。
「ああ、虚しい。」これは私の魂が覚醒された結果でした。
覚醒、目覚める、それは自分の心、魂が直面している真実に気づくことです。
なぜ「虚しい」と気づくことができたのかと考えます。その時私は大学1年生で、学生生活は順調でした。フォークダンスのサークルに入っていましたが、大学の2年生に進級する前に、教養部(1,2年生)だけのフォークダンスのサークルから、学部(3、4年生)の役員候補生が選ばれます。私はそのメンバーに選ばれませんでした。それが、私が立ち止まる機会となりました。神は私の両親の祈りに応えて、そのほんの小さなできごとを用いてくださったのだと思います。

 日曜日礼拝前の1時間、教会学校の時間に、齋藤兄姉と後から玉城兄が加わって、信仰書と同労者を読む時間を持っています。選んだ信仰書は先に紹介したパジェット・ウィルクスの「救霊の動力」であってこの学びでも、繰り返し読んでもう4回目です。私個人でも多数回読んだ本です。教会学校の成人科でも古い版で1回読み、新しい版で途中まで読み進んだところで、私の教師リタイヤになりました。そして齋藤兄姉からあれを読みたいといわれこの時間が始まりました。今でも読むごとに教えられます。
 齋藤兄姉も私も教会を離れた子どもがおり、救霊に関する一番の問題は彼らです。神の前にひれ伏して憐れみを求めますが、技術的な領域も欠かしてはならないと思っています。それを教えてくれるのがこの書です。何に引っかかりをもってくれるか?どうやったら心を開いてくれるか、何が切っ掛けとなり、覚醒させることができるか、試行錯誤が続きます。

 私たちは接触する方々への伝道に心を用いますが、やはり会話することから始まります。何を話題にし、どう切り込んだら「魂の必要を自覚してくれるか?」ということになりますが、まず実践することによって、技量を身につけていきましょう、と語り合っています。

 自分が救われた時もそうでしたが、救霊という立場に立ったなら、必要を自覚してもらうことが最初にきます。
イエスの話された「放蕩息子」では、このままでは飢え死にしそうだ、という生活の状況でした。
 今の世の人々はなかなか大変で、この放蕩息子のようになっても、覚醒に進まないで、世の中や周囲の人が悪いからだとし、矢を自分にける向けることをしません。そして簡単に死を選んでしまいます。
だからこそ、救霊のための知恵が必要であり、技量が必要です。

 それより更に前の段階に「心を開いて自分のこと、こころの内を話してくれる」間柄にならなければなりません。

「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」(テモテⅡ 4:1-5)

 眠りこけたりせず、小さなことにも気づくことができる、目を覚ました見張り人であることができますように。

(仙台聖泉キリスト教会員)