同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて —

野澤 睦雄


「主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」 (マタイ 1:21-22 )

イエス・キリストが地上に人となっておいでになった目的は、人を<その人の罪>から救うためです。罪についての考察をしばらく続けてきましたが、それを休んで今度は「救い」について考察したいと思います。

 キリスト教と言えば、イエス・キリストの名前と「救い」ということばが広く行き渡っていることはご存じの通りです。私たちは自分が「救われている」ことを知っています。 テレビをつければありとあらゆる情報がそこにあり、さらにインターネットの情報がパソコンやスマートフォン、タブレットなどに繋がっています。科学技術に、スポーツに、音楽に、芸術に、政治に、経済に、といったありとあらゆる分野で活躍している人々とその成果を見ます。イエス・キリストの救いはそれらすべてにまさる素晴らしいものであるのに、どのようにしたらそれを理解してもらうことができるだろうか?と思案します。今はどれだけ多くの教会と宣教団体があり、聖書があり伝える手段があることでしょうか。
 歩き、船に乗って目的地にゆき、直接ひとびとに説教することによって、ローマ帝国に立ち向かったパウロはなんとすごい人であったことでしょう。使徒の働きをみると多くのひとが一度に救われたというような事例はごく希なことであって、一人のひとが一人のひとを救うということでキリスト教は伝わってきました。人に伝えるためには自分が受けた救いはどのようなものであるか、知っていることが必要です。
 救いとはなんであるか、自分がそれを受ける立場と、人に伝える立場の両方に立ってそれを把握したいと思います。その助けとなるものとして、繰り返し読者の皆さんにご紹介してきた本、パジェット・ウィルクスの「救霊の動力」を読むことをお勧めします。救いについて書かれた日本で刊行された著書で、この本の右に出るものはないと思います。昔のことだからうまくいったのだなどと思いませんように。ひとのこころは昔も今も変わっていません。その内容はいまも変わりなく通用します。人を救いたいと思いながらこの本の内容を知らないことは大きな損失です。
 導かれるままにですが、次回から神が人を救われる道を探求しましょう。

(仙台聖泉キリスト教会員)