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キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— きよい心を考察する —


 「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。」(マタイ 5:8)
 このみことばの「きよい」はどの聖書を見ても、「きよい」「清い」と訳されています。
「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」(テサロニケⅠ 4:3)
では「聖」が、用いられています。こちらの意味は、聖別されるすなわち神のものとされて、聖霊と一体になることによって神の聖性が与えられることです。

 では「心がきよい」とはどういうことかというと、その逆である「心が汚れている」ということを考えると分かります。
「口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです。」(マタイ 15:18-19)
人を汚すものが出てくる心は「汚れた心」です。それは「原罪、罪の根、古い人」などの名で呼ばれているものが内で働いている心です。それが聖絶された・・キリストと共に死んだ・・心が「きよいこころ」です。
 神の聖が与えられる前に、古い人は死ななければなりません。古い人が死んだ心に聖霊が満ちてくださり、聖なる人になれるのです。

 神はいろいろな事例を用いて旧約聖書の中に、「きよくなること」と「聖なるものになること」を教えられました。たとえば、ツァラアトという病気は、この「原罪、古い人」すなわち「汚れた心」を象徴しています。それを「型」と呼んでいます。ですからそれから直るとき、癒やされたことを「きよめられた」というのです。
 皆さんのよくご存じのことですが、シリヤ人ナアマンは、「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。」(列王記Ⅱ 5:3)と言った、イスラエルから連れてきた奴隷の娘のことばを信じて、ツァラアトを癒やしてもらいに預言者エリシャのところにいきました。しかし自分の思い描いていたのと違った対応をエリシャがしたので怒って帰りかけました。幸い彼には助言をしてくれるしもべたちがいて、彼はその助言を聞き入れることができました。
エリシャは彼に「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」(列王記Ⅱ 5:10)と言ったのです。

 イエスはこの事例を取り上げられました。
「預言者エリシャのときに、イスラエルには、ツァラアトに冒された人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」(ルカ 4:27)
 今自分のこころが汚れていると自覚している人は、ナアマンがヨルダン川に行って身を洗いなさいと言われたように、「イエスの血によって洗いなさい。」と言われています。
「すべてのものは血によってきよめられる」(ヘブル 9:22) 
のです。

 ヨルダン川で身を洗うなどいやだ、といったん言ったナアマンでした。それをつらぬいたら、きよくなることはできませんでした。
「身を洗う」のですから彼は裸になってヨルダン川の水に浸かり、体を洗ったことでしょう。私たちがイエスの血によって心を洗って頂くためには、自分の心を覆っているものをすべて捨てて「ありのままの姿」で神の前に立たなければなりません。このことが非常に大切で、心の内を隠すものや飾るものを捨てずに、清めて頂くことはできません。
 ナアマンのしもべが彼に言った助言は、「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」でした。
 イエスの血によって心を洗うなどいやだ、 漸進的に聖化されるのだと主張しませんように。
漸進的聖化を求めるひとは、「むずかしい」ことをやっているのです。
漸進的聖化に拘って、イエスの血できよめていただこうとしない方々をみて、「シリヤ人ナアマンだけがきよめられました」と言われたイエスのことばのようだと悲しく思うのです。
 日本福音主義神学会の論文に、「聖化をへたに強調すると、律法主義や自己義認に陥いる」と述べた方がいましたが、これはペンテコステすなわち聖霊の満たしを経験したことのない方の意見です。そしてその意見は漸進的に聖化に与ろうとする人々にあてはまります。もし、神の奇跡のみ業によって、こころをきよくしていただかないなら、熱心に聖化を求めるということは、自分の行いをひたすら自分で正していくほかないからです。それは当然、律法主義に進みます。そして、ナアマンがヨルダン川にいかなかった場合のように、自分で少しずつきよくなっていくと思っているしかないからです。

イエスにツァラアトをきよめてもらった人について、マタイ、マルコ、ルカの三人ともそれを記録しています。
「さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。 イエスは、彼にこう命じられた。「だれにも話してはいけない。ただ祭司のところに行って、自分を見せなさい。そして人々へのあかしのため、モーセが命じたように、あなたのきよめの供え物をしなさい。」」(ルカ 5:12-14)
私たちがきよくなることは、イエス・キリストのみ心です。

 もう一度繰り返します。
こころがきよいとは、私たちの内にある「古い人」が死ぬことです。
それはただ、イエスの血によってのみ実現できることで、神が実際に私たちの心にそれを実行してくださること以外にありません。きよいこころを求める道を誤ってはいけません。
 きよいこころを持たせて頂くことと、神の「聖」に与ることは同時の経験で、分離されることはありません。救われたとき、「義認」と「新生」は同時に与えられ、聖化の経験の時には「古い人の死」と「聖霊の満たし」は同時に与えられます。同時ではあるけれども、まず古い人の死があって、そのこころが聖霊に満たされます。
 神は人に「きよい心」を与えようと思っておられます。自分もそれが欲しいと思わないのですか。
ダビデのように。(詩篇51:1-12)
  神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、
  あなたの豊かなあわれみによって、
  私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
  どうか私の咎を、私から全く洗い去り、
  私の罪から、私をきよめてください。
  ・・・
  ああ、私は咎ある者として生まれ、
  罪ある者として母は私をみごもりました。
  ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。
  それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。
  ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。
     (ヒソプをもって=血の注ぎによって)
  そうすれば、私はきよくなりましょう。
  私を洗ってください。
  そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。
  私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。
  そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、
  喜ぶことでしょう。
  御顔を私の罪から隠し、
  私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。

  神よ。私にきよい心を造り、
  ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
  私をあなたの御前から、投げ捨てず、
  あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
  あなたの救いの喜びを、私に返し、
  喜んで仕える霊が、私をささえますように。