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~ 東日本大震災を振り返って ~

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齊藤 恵一

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇 103:1-2)

 2021年に入り思うのは2011年3月の東日本大震災からもう10年が経つのだと時間の経つのが早いなと感じます。今回東日本大震災を振り返ろうと思います。
私は当時大学4年生で多賀城で卒業研究の最中でした。卒業研究は生分解性プラスチックの強化複合材の開発でした。孟宗竹の繊維を取り出して試験を繰り返すため、取り出す作業に時間がかかり、なかなか研究が進まず3月11日まで研究室に通い詰めでした。
その中であの大地震が起こり、この世の終わりかと思いました。私の近くに液体窒素の入ったボンベが2本ありそれがぐらぐら揺れ、ガスボンベと勘違いしてかとても焦りました。そして地震だけでなく大雪が降ってきたのを覚えています。
当時を振り返ると本当に被災された方は大変だっただろうなと思います。そして大地震後私も帰ろうと思ったのですが、構内放送で津波が来る恐れがあるから残っている学生は留まるようにとの指示がありました。そこで私は一人研究室に留まっていましたが、辺りもシンと静まり返って不気味でした。携帯電話で母親に連絡しても繋がらない状況でした。そしてしばらくすると、構内放送で津波が来ているとの放送が流れ構内に残っている学生は自宅に帰らずに礼拝堂で待機し、そこが避難所にもなるとのことで支援活動を手伝ってくださいとありました。
学校内に自家発電があったことで電気は止まらず、ストーブも礼拝堂に各場所から集まってきました。春休み中という事もあり、先生や学生はほとんどいませんでした。私も含め構内に残っていた学校関係者は50人ほどだったと思います。私と一緒に残っていた友達も電車で帰るということで地震の前に帰って行ったのですが、安否がとても心配でした。電話をしても繋がらなかったのでもしかしたら・・・。と思ったのですが、数年後の同窓会に顔を出していたと別の友達から聞き安心しました。
いついつに自衛隊の人が来ると連絡があったのですが予定より大幅に遅れ、夜遅くに自衛隊の人たちがやっと礼拝堂にやってきて毛布やパックのおかゆを持ってきてくれました。その後続々と被災された方たちが別の自衛隊の人に連れられて礼拝堂に入ってきました。私は彼らに避難場所への案内とおかゆの提供をしていました。
とにかくずぶ濡れで命からがら逃げてきた人たちが寒さのあまり体を震えさせていたのが印象的でした。礼拝堂はあっという間に沢山の人でいっぱいになり、休む間も無く毛布の配布やおかゆ製造をしていました。
礼拝堂は就寝時間になると消灯になり、真っ暗闇になるのですが、すすり泣く声やうめき声が続き、私も眠れずエントランスに大きいストーブがあったのでそこで椅子に座ってまどろんでいました。 その間も自衛隊の人に連れられて被災された方が濡れた格好で運ばれてきました。こんな深夜まで、しかもこの寒さを濡れた体で歩いているのはとても辛かっただろうなと思い、とにかくおいしいおかゆを作ろうと心がけていました。
そしてふっと先週お世話になった、シーサイドバイブルチャペルの方々は大丈夫だったかと思い、翌朝朝食を食べて津波の影響を多大に受けた蒲生地区へ行くことに決めました。なぜかというと朝方でも自衛隊の人に連れられて被災者が運ばれてきていたので、もしシーサイドバイブルチャペルが被災されていたとしてもまだ間に合うかもしれないと思って行くことを決めました。
当時私は原付バイクで通っていましたので、いつもの通学路で45号線に出るための橋を渡ろうと思ったのですが、渡った先からは別世界のように変わり果てていました。洪水のようになっており、建屋2階部分くらいまで水が来ていました。車はぷかぷか浮いていて、流木や泥などで水も濁っていました。橋の上でご婦人が泣いていて、どうしたんですかと聞くと家に家族を残してきたからどうなったかわからなくて・・・。」と心配そうに言っていました。だけど私は「戻るのは危ないので避難所に行った方がいいですよ。」と言ってその場を去って、蒲生地区まで行く迂回ルートを探しました。今考えれば自分が一番危ない事をしていたなと思いますが・・・。
~続く~

(仙台聖泉キリスト教会 会員)