同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 罪について(38)—

野澤 睦雄


「アマツヤは奮い立って、その民を率いて塩の谷に行き、セイルの者たち一万人を打った。ユダ族は一万人を生けどりにして、彼らを岩の頂上に連れて行き、その岩の頂上から、彼らを投げ落とした。彼らはひとり残らず砕かれてしまった。・・・ アマツヤは、エドム人を打ち殺して帰って来て後、セイルの者たちの神々を持ち帰り、これを自分の神々として立て、その前に伏し拝み、これに香をたいた。 そこで、主はアマツヤに向かって怒りを燃やし、彼のもとに預言者を遣わして、彼に仰せられた。「なぜ、あなたは、あなたの手からその民を救い出すこともできないような神々を求めたのか。」彼が王に語っているうちに、王は彼に言った。「私たちはあなたを王の議官に任じたのか。身のためを思ってやめなさい。なぜ、打ち殺されるようなことをするのか。」そこで、預言者はやめて言った。「私は神があなたを滅ぼそうと計画しておられるのを知りました。あなたがこれを行い、私の勧めを聞かなかったからです。」 そののち、ユダの王アマツヤは、よく考えたうえで、エフーの子エホアハズの子、イスラエルの王ヨアシュに、使者を送って言った。「さあ、勝敗を決めようではないか。」すると、イスラエルの王ヨアシュは、ユダの王アマツヤに使者を送って言った。「レバノンのあざみが、レバノンの杉に使者を送って、『あなたの娘を私の息子の嫁にくれないか』と言ったが、レバノンの野の獣が通り過ぎて、そのあざみを踏みにじった。あなたは、どうだ、自分はエドムを打ち破ったと言った。あなたの心は高ぶり、誇っている。今は、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、争いをしかけてわざわいを求め、あなたもユダも共に倒れようとするのか。」しかし、アマツヤは聞き入れなかった。それは、神から出たことで、彼らがエドムの神々を求めたので、彼らを敵の手に渡すためであった。そこで、イスラエルの王ヨアシュは攻め上った。それで彼とユダの王アマツヤは、ユダのベテ・シェメシュで対戦したが、ユダはイスラエルに打ち負かされ、おのおの自分の天幕に逃げ帰った。」(歴代誌25:14-22 )

2.各論
(5)高ぶり < 4 >
  信仰のことを話し合えるグループがあって、何とか自分たちの接触するひとを教会に招き、救いにつなげたいということが話題になります。自分たちの経験として、「若いうちでないと難しい、職業につくとそれがますます難しくなりますね。」ということが参加者の同意見になっています。経験を積むことによって、ひとはどこか「偉くなる」(ことば通りに「偉い」のではなく、そのニュアンスは微妙ですが)からでしょう。そしてキリスト教は無論のこと、こころのことに関心が無くなるようです。このことは、読書の皆さんも共通認識であることでしょう。
 さて今回は、人はこの世で成功する、その社会的な地位が上がったり、富を得たりすると「偉くなる」ことが普通で、そうでない人は希です。
 信仰生活を続けていく中で、「ああ、彼は偉くなってしまった。」と悲しんだことが何度かあります。
この「偉くなる」ことは「高ぶり」につながっています。

 引用した聖書箇所のアマツヤという人物は、イスラエルの王オムリの孫娘、アハブの妻イゼベルの娘アタルヤによって危うくダビデの血筋が根絶やしにされそうになったとき、助け出されて祭司エホヤダによって神殿にかくまわれて育ったヨアシュ王の子です。ヨアシュもまことに残念な人生の終わりを迎えたひとでした。イエス・キリストが、
「だから、神の知恵もこう言いました。『わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らは、そのうちのある者を殺し、ある者を迫害する。それは、アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまでの、世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。そうだ。わたしは言う。この時代はその責任を問われる。』」(ルカ 11:49-51)
と言われましたが、このザカリヤはヨアシュを匿い、王位に復権させた大祭司エホヤダの子です。エホヤダの死後、ヨアシュについてこう記されています。
「エホヤダが死んで後、ユダのつかさたちが来て、王を伏し拝んだ。それで、王は彼らの言うことを聞き入れた。彼らはその父祖の神、主の宮を捨て、アシェラと偶像に仕えたので、彼らのこの罪過のため、御怒りがユダとエルサレムの上に下った。主は、彼らを主に立ち返らせようと預言者たちを彼らの中に遣わし、預言者たちは彼らを戒めたが、彼らは耳を貸さなかった。神の霊が祭司エホヤダの子ゼカリヤを捕らえたので、彼は民よりも高い所に立って、彼らにこう言った。「神はこう仰せられる。『あなたがたは、なぜ、主の命令を犯して、繁栄を取り逃がすのか。』あなたがたが主を捨てたので、主もあなたがたを捨てられた。」ところが、彼らは彼に対して陰謀を企て、主の宮の庭で、王の命令により、彼を石で打ち殺した。ヨアシュ王は、ゼカリヤの父エホヤダが自分に尽くしてくれたまことを心に留めず、かえってその子を殺した。」(歴代誌Ⅱ 24:17-22)
このあとヨアシュはアラムの軍勢に打ち負かされ、重病の床で、謀反をおこした家来に殺されました。そして王家の墓に葬られませんでした。彼はダビデの家系に数えられないで、イエス・キリストの系図にも記されませんでした。
 ヨアシュの子がはじめに引用したみことばにあるアマツヤです。彼は国を整えて強国にすることに成功し、エドムを征服するために出兵しました。そのとき北王国イスラエルから傭兵を雇い入れようとしましたが、預言者(神の人とだけ記されています)が、神に遣わされてきて、イスラエルと一緒にいかないようにと命じたので、それに従いました。返されたイスラエルの兵士たちはユダの町々を荒らして返りました。
 そんなごたごたがありましたが、アマツヤはエドムに勝利をしました。そのできごとが引用したみことばです。
 そこからが問題でした。彼はエドムから奪い取ってきたエドム人の拝んでいる偶像を据えて、それを拝んだのです。
 みことばに書かれたある通り、神はまた預言者を遣わして、それをやめるように命じられましたが、聞き入れませんでした。そのあと、イスラエルの王に戦争をいどみ、イスラエルの王から指摘されていることが、引用したみことばの後半です。
「あなたはどうだ、自分はエドムを打ち破ったと言った。あなたの心は高ぶり、誇っている。今は、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、争いをしかけてわざわいを求め、あなたもユダも共に倒れようとするのか。」
イスラエルの王ヨアシュの指摘は当たっていました。ひとは何かに成功すると「高ぶるものだ」ということにぴったり当てはまる思いを持ち、そのように行動しました。その結果イスラエルに打ち負かされました。
結局彼も人々の謀反によって殺され、「ユダの町に先祖たちと一緒に葬られ」ましたが、王家の墓にではありませんでした。
その結果アマツヤも王の家系にかぞえられないで、キリストの系図に名が記されませんでした。
何かに成功することと高ぶりの関係、よく心にとめておきましょう。

(仙台聖泉キリスト教会員)