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キリスト教—信徒の志す—

Q&Aルーム

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-117  —

山本 咲


サムエル記Ⅱ 11章

 この章ではバテ・シェバとの罪の問題が取り上げられている。1節には部下やヨアブを送り出し、彼自身は王宮にいたことが書かれている。本来彼は神を謗ったアモン人を裁くために戦いに出ていかなければならなかった。今までの彼ならば、怒り、戦いに出ていたはずだった。しかし、彼は王宮にいた。そして彼は罪の中に陥っていくことになる。罪が彼をどんどんとおとしめていった。聖書は人の罪深さ、愚かしさ、その恐ろしさとそれにとらわれ苦しむ人間の姿を語る。そしてだからこそ神を信じ、イエス・キリストの救いの中に生き続けることが必要であることを記し、そこに本当の幸福があることを私たちに伝えている。ダビデという人物は信仰者として素晴らしい営みをし、神と豊かに交わりを持っていた。それにもかかわらず、彼は過ちを犯し、神と多くの人々に失望をもたらした。聖書はその事実を隠すのではなく詳細に記し、読む者たちに警鐘を鳴らしているのである。私たちはこのことから信仰者にも訪れる危機、むしろ信仰者であるからこそ陥ってしまう罪に気を付けていかなければならない。私たちはこの世で生きるとき多くの罪の誘惑に出会う。キリストも誘惑を受けられ勝利された。聖書にはこの事実が述べられている。罪に対する警鐘も、聖言によって打ち勝つことができることもあらかじめ私たちの前には示されている。だからこそ私たちは罪に対峙し、このような問題に巻き込まれてしまわないように日々考え生きていかなければならない。聖書はただ歴史を語っているのではない。語られている出来事を私たちの生活に結び付け、日々をどのように生きていくべきか祈り、考え、取り組んでいくために与えられた神の恵みなのである。
話をもとのところまで戻していくが、ダビデは戦いに出かけていかなければならないのにもかかわらず王宮にいた。聖書には王たちが戦いに赴くべき時であったことが書かれている。もちろんダビデであるから必ず出ていかなければならないというわけではない。この時代であっても王の身を守るために、「前線に出ないでください」と言われるときもあっただろう。しかし、ダビデはまだその責任と現場から自らの身を外していい時期ではなかった。彼はまだ戦場に出て兵士を力付け、多くの者の前に神の戦いを指揮していかなければならなかった。それにもかかわらず彼は油断し、自らをこの問題から外してしまった。実際このような問題は人間に起こりやすい。もう行かなくてもいいだろう、なぜ私があえておこなわなければならないのかというような傲慢な考えが現れる。彼は自分で意志してこのようなことをしてしまった。私たちも注意していかなければならない。また2節にダビデは夕暮れ時に床から起き上がったということも語られている。彼は昼寝をしていたのである。もちろんダビデが昼寝をしてはいけないと言っているのではない。ただ、この兵士たちが戦っている状況下で行うべきことではなかった。いかにも緊張感が欠けている姿の現れがここに記され、更にそこから罪を犯す要因が産まれたのである。
この後ダビデは罪を犯し、そのゆえにバテ・シェバがみごもった。それが分かると彼は一瞬の油断で起こした罪が明らかにされ大ごとになるだろうことを恐れ、隠蔽しようと動き出す。しかしダビデの悪知恵、浅知恵によって生み出されることはことごとく失敗に終わる。そしてついには大切な部下、ウリヤを死に至らしめることになる。しかもその時に彼が手を組んだのはヨアブであった。ヨアブという男は神を恐れるものではなく、むしろ自身の知恵と力によって生き、自分の利益を追い求めるような人物であった。そのヨアブに借りを作ってまで彼はこのことを成そうとしたのである。いかにおかしくなっていたのかがわかるだろう。そして彼は自分の計画がうまくいかないことに加え、ウリヤの行動や言動がすべて彼を罪に定めるようなものであることを心から疎ましく思っていただろう。本来ならばダビデは神の民の王としてウリヤの信仰の在り方に感謝と喜びをもつべきであった。しかし、彼は喜ぶどころか嫌悪し、無関心になり、価値を見出すことができなかったのである。ここに彼が隠蔽しようとするあまりに主の御心から離れてしまった事実が表されている。罪を犯し、そこから悔い改めずにいることは私たちをさらなる罪へと導き、どんどんと神から遠ざけてしまうものになるのである。だからこそ、私たちは罪を犯さないように緊張感をもって生活しなければならない。罪を犯してしまう理由はいくらでもあふれているが、だからと言って罪を犯していいわけではもちろんない。油断せず、日々の霊的営みを豊かに持つことで、神の御心からいつの間にか理由をつけて離れていくことのないように気を付けていかなければならないのである。


Q:以前ラジオを聞いていた時に「自分が神のために働く」という感覚を抱くものは多いが、「神と共に働く」という感覚を抱く人が日本には少ないということを宣教師の人が語っていたのですがどう思われますか。

A:日々の霊的な営みの深さとそのような中に生き続けられる人々がどれだけいるかという違いが日本とアメリカにはあると私は感じている。「神のために働く」のと「神と共に働く」ということの違いは霊的深みの違いであり、霊的感覚の違いである。これは自然に当たり前にあるものではなく、そのような感覚がその人格の中に養われてこそ、植え付けられていくものである。これは大きな違いである。私たちの群れが大切にしているのは、そのようなところであり、私もクリスチャン三代目だが、世代を重ねることで植え付けられる信仰の深み、違いは多くあると感じている。しかしこの日本にはそもそもクリスチャンが少なく、クリスチャン生活を豊かに持つことで称賛される土壌もなければ、それを分かち合い共感することや、話し合う環境もない。そもそも価値を見出すもの自体が少ない。だからこそ日本では淡白なキリスト教の営みで、どっちつかずの状況でも本人の「私はクリスチャンです」という宣言のみでまかり通ってしまうのである。私たちは教会という場で、そのようなことを徹底し、緊張感をもって霊的生活を守ろうとしている。それは一種独特のもので、周りから見れば一見やりすぎともいわれることもあるだろう。しかし周りが緊張感をもっておこなっていれば自然とその輪にいるものは同じように緊張感を持って取り組むようになるのである。野球で例えてみよう。毎年甲子園に出場する野球チームと、1、2回戦で敗退してしまうようなチームとではチーム内の空気が違う。常勝チームにはその地位にいるだけの状況ができているのである。一つの練習をとっても、そんな小さいところまで気にするのかということを彼らは必死に取り組んで会得していく。だからこそ、ほかから頭一つ抜きんでている。私たちの教会においても同じような環境が成り立つ。もちろんすべてできない人を切り捨てて良いというわけではないし、そのような人たちを置いていくわけではない。しかし、多くの人がその中で緊張感をもって生活したり、子どもたちを育んだりして、信仰者としてどのように神の前に生きるか、その御心を追い求めて霊的営みを持ち続けるのである。貴方のお父さんの葬儀の時、あなたの子どもたちはまだ幼く、幼稚園に通うような年齢だった。しかし、彼らはその所で静かに過ごすことができ賛美を歌うこともできた。それは日ごろから礼拝や祈祷会など静かに過ごし、その場に自分の身を置いていたからである。あなたの子どもたちは豊かにあなたの父親の信仰を証したのである。
私自身の話だが、私は「牧師の子どもは遊びの場であっても自分の遊びのみに集中してはいけない」と育てられた。周りを見て奉仕するように教えられたのである。そして私もそのように子どもに教えた。自分も楽しみつつ、周りを楽しませ必要なら時には相手を優先し、譲ること、助け合い、教え、共に生きることができるように。それは私の中で生き続け、なお、それによって私は多くの人と交わり、楽しみを分かち合うことができている。私は牧師として神の働きを成すように育てられた。そして実際そのようになった。それはもちろん私の信仰であり、意志である。しかし、両親は神の働きを成すものとなれるようにと私を霊的営みの中に置いた。だからこそ、私は牧師として必要な多くの要素、霊的感覚を持つことができたのである。
キリスト教は憐れみの宗教であり、恵みの宗教である。私たちが悔い改めるなら、主の憐れみの愛の中に生きていくことができる。では、誰でもできるかというとそうでもない。この日本においてその中に生き続けていくためには、それこそ、プロスポーツ選手を生み出すような難しい世界を生き抜いていかなければならない。しかし、教会の中に生き続けることはその霊的生活を守ることにつながる。この日本という限りなく信仰者にとって困難な環境であっても、互いに尊敬を持ち、神の聖言に生き、歩みながらそこに実る神の祝福を喜び、力付けられ共に歩ませていただきたく願う。


Q:ここ数か月ダビデのことを教えていただいていましたが、サウルが緊張感を失ったところから神の元に戻れず、退けられたということと、ダビデも同じようにしながらも、神に悔い改め立ち返ったために神の元に戻ることができたのだと思いますが、教会学校の中でダビデがそのようにできたのにはナタンの影響が大きいと語られました。サウルにはそのような人がいなかったのでしょうか。

A:ダビデが神のもとに立ち返られたことに対しては様々なことが考えられる。神の憐れみともいえるが、それではサウルにはなかったのかともいえるだろう。しかし、サウルにはヨナタンがいた。 人は自分のなしたことに対してさばきがあるという事実。しかし、そこに神の憐れみと、聖霊が働かれる。教会学校で語られたようにナタンの影響は確かに大きいだろう。その点で語ろうとするならば、ナタンは命を懸けてダビデを悔い改めへと導いたといえる。ダビデの周りには多くの人が集まった。それほどに彼に魅力があったということもあるし、彼自身が彼らと密接に関わりを持っていたからこそ多くの人に愛されていたのだろう。
またこのバテ・シェバとの問題について考えていくとき、注目したいのはウリヤがどれだけこの罪に関して知っていたかということ。これは聖書に書かれていない。だからこそ読者それぞれがどのように捉えるかということになるが、私はウリヤがこの問題に関してすべてを知っていたと考えている。だからこそ彼は自分の姿を通して、ダビデに罪を示し、悔い改めを求めたのではと考える。そしてこれが本当の愛である。愛する者はその罪を覆い隠してはいけない。悔い改めを迫ることが本来最も必要なのである。相手を愛したいという思いは時に一緒になって罪を覆い隠す手伝いをしてしまったり、見て見ぬふりをしてしまったりという行動を招く。同じ愛したいという思いであっても真逆の行動がなされる。しかし、その人を罪に定めないということは神の前からその人を遠ざけてしまう行為である。キリストの十字架を共に負っていくためには私たちは相手の罪を見逃していてはいけない。愛する者のために悔い改めを迫らなければならないのである。それは信仰者として大切なものである。伴侶であり、子どもであり、家族をまず私たちは愛し、その十字架を背負い、罪を示していかなければならない。ナタンはだからこそ、命を懸けてそれを行った。もちろん、彼は神の言葉を伝えるものとして、その使命を果たさなければ罪に定められることになる。だからこそ、愛と使命をもって行動したのである。貴方が会社で周りの人たちを取りまとめる中、どこに神の御心があるのだろうかと思ってしまうこともあるだろう。しかし、神を信じてあなたが御心に歩み、真実に生きるなら、それが神の望まれることなのである。


Q:マタイの福音書13章11節に「あなた方には天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。」とイエス・キリストが弟子たちに語っておられるところがあるのですが、聞こうとしてイエス・キリストのもとに尋ねに行くならば知ることを許されたのではないかと思うのですが、その捉え方であっていますか。

A:その通りだと私も思う。私たちは「罪に対する」裁きを意識することはあるが、「神の示しに自分の心を置くか」ということに裁きがあることを忘れがちである。これは恐れていかなければならない。無知に気を付けることを礼拝でも語っているが、示されていることを知ろうとしなかったこと、受け取ろうとしなかったことは罪に定められる。もちろん私たちが知らなかったということに関して、本当に知らなかった、示されてもいなかったのなら、神は罪に定めない。ただ、私たちは何らかの形で神から必ず示されている。にもかかわらず、そこに価値を見出さなかったり、蔑ろにしてしまったりして受けずにいる人がいるのである。私たちを分ける重要なものがそこにあるのだ。 このことを考えるとき子どもたちに何を教えなければならないかというと、神の導きを捉えて生きていく方法である。導きは決してわかりやすい形で来るわけではない。しかし、罪の悔い改めを含め、神が私たちの周りの人間を通し語ることや、聖言によって語られるときもある。それを逃さないようにしなければならない。また、それら一つ一つを振り返りながら神が働かれていることを数え感謝することが大切である。それによって私たちはどのように神が語られるか、働かれるか、その導きや御心はなにかと探ることができるのである。もちろん神の憐れみによって聖霊がそのように働かれるということはあるが、神の言葉を蔑ろにしているような生き方では逃してしまうこともある。聖言の中には持っているものはさらに与えられ、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうということが語られている。このことを恐れていかなければならない。なお霊的営みを大切に持ち続けてほしい。


Q:先ほどの常勝校という話にとても興味をひかれたのですが、スポーツの世界ではやはり、そこまで突き詰めるのかということまでこだわってやっている姿を見ていて、私もこの信仰生活の中でそこまでやっていかなければならないなと感じています。私も取り組んでみた時に、それが良い結果でも悪い結果でも本気でそうしたときには受け入れられて、妥協したと感じるときにはその曖昧さが次につながらないことを覚えます。

A:そうだと思う。意志して物事を行っていると成り行きに任せて生きているのとでは大きく違う。人は一人でいる時にはあまり違いが出ない。しかし、結婚することを通して周りの人格が増え、貴方も多くのことに対し意志する必要が生じた。そしてそれによってあなたの前に結果として様々なことがあらわれてきたからこそ、そのように感じるのだろう。あなたは奥さんとずいぶん取り組んだと思う。簡単に横に流せるような奥さんでもなかったし、油断をしていると逆にあなたが押されてしまうような相手だった。しかしだからこそ、貴方も実力をつけることができ、同時に多く経験することができたのではないかと思う。嫌なことや困難なことは多くあったかもしれないが、そこで貴方の実になる多くの経験ができたのではないかと私は感じる。相手をわきにどかして、どうにかしようとする人は相手から得られる多くの経験を逃すことになる。手ごわければ手ごわいほど大変かもしれないが大きな収穫を得る。老牧師が長く生きておられることは私にとってどれほどの利益となっているか。私にとっては手ごわい相手であるが同時に、多くの経験を得られる大切な人物である。私は今、本当に神が私のためにこの人を長く生かしてくださったと感謝を抱くほどなのである。


Q:礼拝のメッセージの中で傍観的信仰者ということが語られていたのですが、やはり今日語られたように緊張感をもって自らの働きを歩むこともそれにつながるのでしょうか。

A:先日のメッセージでは、「神は世の人々に対し憤っておられるという事実とそこから贖われた私たちは仲介者として生きることが必要である」ということを語った。人によっては自分が救われたからと言ってそこで終わってしまうような信仰者がいる。私はそれを傍観的信仰者と語った。私たちが自分を神の示される場に置き続けられるか、それとも、自分の好きなところ、居心地のいいところ楽なところに逃げてしまうのか、ということもまた重要で気を付けていかなければならないのである。
マタイの福音書の25章にあるタラントのたとえ話の中で「あなたはわずかな物に忠実だったから」と語っておられる。イエス・キリストはこれが重要なことであることを示しておられる。ここにある「わずかな物」とは、注意を払うべきものであり、その物に見出す価値の話なのである。私たちは気を付けないとこのわずかな物を見逃してしまう。誰もが気づくことではない。しかし、主人と同じ価値観、注意力をもって重要視している点を知っていれば、このことに気付くことができるのである。だからこそ、私たちは神を愛し、愛しているからこそ、同じ価値観を持ち、注意してそのわずかな物を見失わないように、損なわないようにしなければならない。そのような神を愛しているからこそ現れる愛の行動を神は喜んでおられるのである。
イエス・キリストのたとえ話の中に自分が一万タラント許してもらったのにもかかわらず、たった百デナリを許せないという人の姿が語られているところがある(マタイ18章24節~)が、ここで語られていることは「私たちは受けた愛に対して愛を返せるか」ということである。私が大切にしているのは「神が私たちの犯した罪を赦し、忘れてくださったのだから、私たちも相手を赦し、その罪を忘れるべきだ」という考え方である。それは必死になっても行わなければならないと私は思う。そして神に対する愛があれば、私たちはそれを赦せるのである。「これが赦せない」と持ち続けることは神が悲しまれることであり、憤られることなのである。だからこそ、緊張しこれらを信仰生活の中で整えていかなければならない。
また先ほども語ったが傍観者になることにも注意していかなければならない。というのはこれが愛に対し愛を返すことなくただ周りに無関心で生きてしまうことだからである。無関心であればすべてのことは過ぎてしまう。同じ価値観を持つこともなければ、主人の大切にしているものすらも簡単に見過ごしてしまうものになる。それは相手を愛することではない。愛しているならば無意識でも相手のことを考え相手がしてほしいことを探し行動するだろう。それが欠けることが無関心である。それは行き過ぎれば相手が目の前で泣き悲しんでいても気が付かないようなものになってしまう。神の喜び、嘆き、憤りに気付かないそのようなものにならないように、しかし、神を愛することができるならば私たちはそれゆえに多くの者も愛することができるようになるのである。ダビデが多くのものを愛し、それゆえにもう一度神の前に立ち返り歩むことができたように、私たちも神の愛の中で多くのものを愛し、共に生きることができるのである。

(仙台聖泉キリスト教会会員)