同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(12) —

野澤 睦雄


「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」(ルカ 11:28)

1.救いに至る道

 ・救われた人の実例

 <不信者の親に育てられたひと>で救いの恵みに与った男性の例をご紹介します。
この人は仙台聖泉キリスト教会の男性ではただ一人の一世信者です。

 仙台聖泉キリスト教会も勿論一世信者で始まりました。1951年に教会が始められましたが、最初の伝道会で多くの人々が救われ、67人が受洗してスタートしたと聞いています。牧師も一世信者で、2世信者は婦人伝道師をしている牧師夫人だけでした。1961年に私がこの教会に来たときこの教会ではじめての男性二世信者でした。その時私は信じてはいるし、洗礼も受け他の教会の会員となっていましたが救われていませんでした。私が救われたのは1962年です。初代の信者の皆さんは、献身して伝道者になったひと、他の教会に行った人、信仰を止めてしまった人いろいろですが、この教会で信仰を全うして天に帰った人々がおり、彼等の息子、娘、孫、ひ孫たちが教会の中心になっています。

 取りあげている兄弟について若い人々が、彼はどのようにして救われたのか証を聞きたいといったことがありました。
それで、本人から聞いた救いの証を記しますが、大筋以下の通りです。

 彼は太平洋戦争敗戦の年、1945年に激戦地の沖縄で生まれました。彼の父は、男は殺されると思ったのか確かな事情は分かりませんが、台湾に逃れ、戦争のどさくさが収まると日本に戻りましたが、仙台に行ってしまい、彼は母親に育てられました。彼の母は心を病んでいるひとで、親戚に助けてもらい、洗濯などの仕事をさせてもらってやっと生活していました。ですから経済もままにならないし、行動にも問題があって大きくなるにつれて母親に文句を言った記憶があります。
 小学生のとき、キリスト教の集会に誘われて行ったことがあり、そこでパンフレットなどをもらったりして、「キリスト教はよいものだ」と思いました。それが彼を救いに導く糸口になりました。
中学を卒業したとき父が迎えにきて、母と姉と一緒に仙台に移り住みましたが、母は途中ではぐれてしまいました。母は3年位経った時に、生きていることがわかり一緒に住むようになりました。彼の父は大工の棟梁(大工の親方)をしていて、彼を大工見習いとして使いました。ところが仕事は、あれを持ってこい、ここを押さえていろ、・・というようなことばかりで、暫く経つと「これでは仕事を覚えることなどできはしない。」と思い始めました。そのため職安(職業安定所、いまはハローワーク)に行って東京での仕事を探し、父のもとを去って東京にいきました。東京での仕事は、鉄工場で鋳物工場でした。仕事をしながらも、なにか資格を身につけられないものか、と模索していました。

 そんな中で小学生だった時の記憶から、キリスト教の教会にいってみようと思い立ちました。行ってみたのが東京の深川にあるインマヌエル深川教会でした。そのとき教会で御用をしていたのは、婦人伝道師の方でした。
 どこに住んでいるのか、仕事は何をしているのか、なぜ教会に来たのかなど当然たずねられましたが、いい加減なことを言って本当のことを言わないで帰りました。
そのあと、「ああ、嘘を言ってきてしまった」と心に責められるものを覚えました。それで、次に行ったとき、「前回は、嘘を言いました。本当はこうです。」とありのまま先生に告げました。
神はそれを彼の悔い改めと認められました。彼はそこでキリストを信じ救われました。
しばらくして、また仙台に戻ってくることにしました。仙台に戻る前に雑談で、「もし仙台に行った時は、インマヌエル仙台教会(今の仙台聖泉キリスト教会)に行って見なさい。りっぱな先生だから。」と言われました。
それで戻るとすぐにこの教会に来ましたが、その時の先生は山本光明牧師でした。教会の集会に出席し続けるうちに、神も、キリストも、罪も、救いもどういうことか少しずつ分かってきました。

不信者の中から救われてきた兄弟ですから、その信仰の歩みについて触れておきます、仕事は前と同じ、父のもとで大工の仕事をしましたが、当時は休みが月に2回、日曜日にあるだけでした。それで休みのときだけ集会に出ていましたら、先生から「集会に全部でなさい」と言われました。教会の集会は、日曜日午前の礼拝、夜の伝道会、木曜日夜の祈祷会です。彼は「仕事があるから無理です。」とは言いませんでした。父親に「教会の集会のときは休ませてくれ」と交渉し、集会に全部でられるようになりました。
日曜日や木曜日の夜の集会にでるために、他の人達が働いているのに、先に帰るのは心理的に辛いものですが、先生の勧めを大切にしてそれを続けました。集会出席を守る、このことを大切にし、彼は今に至るまでしっかり守り続けています。

 時が経って、父が亡くなるとき、その前の晩に父を救うことができたこと、結婚のこと、母を教会に連れてきて、信仰をもって天に送ることができたこと、こどもたちのことその信仰のありかたに、兄弟は大変謙遜で忠実に先生のことばを守り続けました。

  彼が集会を守ったことについて、つけくわえます。父が亡くなって大工の仕事がなくなったので、先生にもすすめられ、独立して仕事ができる技術を身につけるために襖店に勤め、襖貼りの仕事を覚えました。
さらに内装クロス貼りの仕事も覚えたいと思いました。それで私の家内の紹介で建物の内装をする会社に勤めました。そこで覚えた内装の技術は、後で教会の内装を補修するなどに役にたちました。しかしその会社も、日曜日は休み、木曜日は残業なしで帰すという約束で勤めたのですが、仕事が忙しくなり、「今回だけは日曜日に出張にいってくれ」ということがおきてきました。彼は「集会に全部でなさい」といった山本光明先生のことばをしっかり守り、すぐにその会社を辞め転職しました。

レカブの子ヨナダブの子孫がヨナダブの言葉を守り続けたことを神が喜ばれたように(エレミヤ書35章)先生のことばを忠実に守り続けた兄弟を神が喜んでおられると信じます。

(仙台聖泉キリスト教会員)