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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-127  —

山本 咲


サムエル記Ⅱ 21章

   21章から24章は付録のようにダビデの時代に起こった出来事が書かれている。この記録をどこに置いたらよいのかと編集者は考え、このところにまとめた。しかし、その時代背景はバラバラでいつ頃の出来事かわからない。もちろん聖書は神の霊感によって書かれたものであるため、そこに何らかの意図があることもまた考えていかなければならないだろう。
 聖書信仰として私たちはその所を大事にしている。だからこそ私たちはこの聖書から神の御意思を受け取っていかなければならない。もちろん、そこに聖言をどのように捉えていくかという違いはあるが、決して存在そのものを疑うものでもなく、誤りであるとするものではないのだ。
 さて話を戻し、このところに起こった3年の飢饉について捉えていきたく願う。この3年もの間、飢饉が続くというのは極めて危険な状況である。飢饉1年目は次の年で何とか挽回できる。しかし2年目になるとその時点で大きく民が疲弊してしまい、最悪の場合飢えて死んでしまう人が出てくる。そして3年目になってくると、死者が出ることは確実となるのだ。そのこともあり、ダビデは神の御心を伺い、サウルが行った盟約違反が事の原因であると知った。もともとこの盟約の始まりは、カナンを征服するイスラエルに滅ぼされることを恐れたギブオン人がヨシュアと長老たちをだまして結んだものである。それでも、たとえだまされたとしても神の前に約束した以上は守らなければならなかった。しかし、サウルは民が喜ぶことを選ぶばかりに神に伺いを立てることもなくこの盟約を破棄したのだ。そのサウルの過去の罪によって現在人々は飢饉に見舞われた。私たちはこのような時になぜと思いやすい。なぜ、サウルの時代にその飢饉が起こってこなかったのか、後世になぜこのような形でその罪の影響を受けなければならないのかと思う。
私たちはすでにイエス・キリストによって贖われ、大いなる憐れみのゆえに生かされているという事実がある。そのことを前提にして私たちは価値観、考え方を構築していかなければならない。それを抜きには考えられないのだ。それを前提にするならば、私たちが理不尽と思われるような出来事ですらも、神の御意思によって私たちの前に用意された出来事なのである。しかし、それを考える前に私たちは理不尽だと決めつけ心を乱すのである。そこに私たち信仰者の本来の考え方から離れてしまっている現実がある。一方的な憐れみで赦された私たちが、神がなさるその出来事に文句を言うことはできない。
 神の御心とは何だろうかと考えていく努力を私たちはしなければならない。そうすることによって、神の御心を探り求め、自らのものとして歩むことができるのである。
 現実にはもちろん理不尽なことが起こる。信仰者だからと言ってそのようなことが全部なくなるわけではない。私たちの間にもそのようなことがあり、神がなぜこのようなことをお許しになるのかと考える。そしてその時、私たちの感情も動かされるのだ。ときには神に対し文句ともとれるような言葉をこぼすような場合があったり、または訴えのように祈ることがあったりする。それも時に神がゆるされる。そして実際その訴えに神が動かされ働いてくださることもある。ただ、私たちはその根底にすべてのことが神の一方的な憐れみ、愛によって起こっていることを忘れてはならない。私たちを救おうとイエス・キリストをこの地上に送られたその事実は、私たちが神もその御子イエス・キリストも信じる前から与えられた恩寵である。ここに私たちのための神の赦しと、贖いと、償いがあるのだ。 ダビデは神のお扱いの中を生きた。そしてその神の民のために働き戦った。それなのにこのようなサウルの罪の被害を受けなければならなかった。また、出エジプト記に書かれているモーセは民をそこまで導いてきたのにもかかわらず、たった一つ「石に命じなさい」という神の言葉に背き「石をたたく」という行為に変えただけで、神の約束の地であるカナンに入ることができなかった。また、ダビデは人生を捧げ、神の働きを成していったにもかかわらず、彼が心から願った神殿を建てるということは許されなかった。
これらすべては一見理不尽に私たちの目に映り、怒ってしまいたくなる。しかし、先ほどまでに語ったことを考えるならば、それは正しいとは言えないだろう。また実際はその背後に神が御心として進めておられる摂理があることも忘れてはならない。サムエル記はこの出来語を書き留めながら、私たちの前にそのことを示そうとされた。抜くこともできた外伝的な内容であるが、ここに神の御心を見出すために、私たちの前に隠さず書かれているのである。


Q:今日の箇所で15節のところにダビデは疲れていたと書かれていますが、はっきりと書かれるぐらいに彼は心身ともに疲れ切っていたのだと私は捉えました。ただ、それでも彼がその後のペリシテとの戦いの指揮をとり、なお働いている姿がありました。これは彼に信仰によって維持されたモチベーションがあったからだと感じるのですが、先生はどのようにお考えでしょうか。

A:これはダビデのために戦っている勇士のことが述べられている箇所である。ダビデが戦いの人であったことは明らかである。しかし、同時に神の御心を行う者として、彼の存在が灯と象徴されていた。彼の信仰がまさしく灯だったのだ。だからこそ、勇士たちは彼が前線に出ることを望まず、ただ、その灯が消されることのない場所から、その神の御心を伝えることを望んだのである。
 ペリシテ人は彼らの前に立ちふさがり、その戦いは困難であった。実際初めにイスラエルに王がたてられた理由はこのペリシテ人たちと戦うためだった。彼らの中には指が多かったり、身長が高かったりと特別な人がいたことも書かれているが、これもこのペリシテ人がこの世的な強さで対峙しているということが強調されているのである。対して、ダビデ側の部下には決して特別な人が多くいたわけではない。それでも彼らは決して引かなかった。それは彼らが神への信仰の灯の存在を持ち続けていたからではないだろうか。ペリシテ人は神の敵であった。だからこそ、勇士たちも神の御心に従い、彼らを撃退するために勇敢に戦い続けたのである。
 ダビデが疲れていたという描写には彼があくまでも人であったことを表しているのではないだろうか。だからこそ彼を守り、彼の信仰を共に歩む人たちの存在が大切だったのだ。
 現代において、この時代の様な直接的な戦いということはない。しかし、私たちはこの世で生きる中にあって、戦いに赴く際に信仰を必要とし生きていかなければならないだろう。ダビデの存在が現在における伝道者やリーダーと同じだと考えるならば、信仰者は勇士と同じようになる必要がある。責任者一人が頑張っていても人間である以上限界がある。だからこそダビデを支え、神の前に共に戦い抜いた勇士たちがいたように、伝道者と共に生き、教会全体がこの神の戦いにおいて勝利を収めていくことが必要なのである。
 是非退くことなく、戦い続けてもらいたいと願う。



Q:21章のところで1節にサウルに血を流した罪がある。そこから捉えられることとは何でしょうか。主の御心を伺って、ダビデが信じて行動したというところがこのところの答えでよろしいでしょうか。

A:神に仕えると私たちはいうが、それはこれをしなさいと言われたことをその通りにしなければならないということである。これだからやる、これは意味が分からない、捉えられないからやらないということではなく、言われたままを行うということなのだ。それには私たちの常識を当てはめて、理不尽だと決めつけて避けることは誤りである。だからこそ、私たちは示されるままを行うことがまず必要なのである。
 私たちの贖いと生命を神が与えてくださっているのだから、そのことを信じて行うことが必要なのである。私たちにはすでにその報酬が払われている。贖いのために償われたイエス・キリストが私たちへの報酬なのだ。だからこそ贖われたものとして、このことを捉え、神の示される通りに自らを生かすことができるかということが重要なのである。  日々の中に理不尽を抱いたり、神の御意思が理解できないと神から離れたり、教会から離れたりする人たちがいる。しかし、それは誤ったとらえ方である。神のお考えがすべて完璧に理解できてから行うというのは信仰ではない。「私たちにそれがどうなるのかわからないが、神は私たちを愛し、正しき道に導かれる。だからその道を進もう」とするのが本来の信仰である。先ほど語ったように私たちの感じる理不尽ですら、私たちの主観でしかなく、違う方向から見れば、神の育成かもしれないし、実際はそんなに困難ではないかもしれない。またもしかしたら、その困難を超えた先に用意されている事ことこそが重要なのかもしれない。それを考えず、ただ一方的に一人の人間の主観で「これは理不尽だ」と思うことが本当に正しいと言い切れるだろうか。
 私たちは自分たちから離れてしまう人たちを必要以上に追いかけはしない。それは相手が私たちを捨てていってしまったことを悲しみつつも、それらの人々の「神を捨てる」という行為に対して一面の線引きをしているからである。もちろん、私たちは悔い改めて戻ってくるならば、それを必ず受け入れる。また、そのために祈りもする。しかし、神を知りながら御旨を捨てさるという選択をした人を無条件で受け入れることはできない。そこにキリストへの悔い改めがなければ、この関係の回復はなされないのだ。
 ダビデにとってこの出来事は自分の意志にそぐわないことであったし、理不尽とも思えるものであったが、彼はその勤めを果たしその罪を取り除いた。彼は役目をしっかりと自らの責任で行った。神は起こってくる出来事に対して今回のように責任を取らせている場合もあるが、反対側には神の与えてくださる褒賞や、報いというものを授けている場合もある。もちろんそれは一概に自分の思うようなものではないかもしれない。しかし、必ずその人にとって必要なものを必要な形で導いてくださるのである。
 あなたは信仰者としての経験はまだ短いが、十分にそのことを感じ始めていると私は思う。いくら信仰者としてのそれが長くとも、初期の段階から全く成長していないとするならば、短くとも豊かに信仰を築こうと生きている人の方が勝ることもあるのである。


Q:仕事や信仰生活の中で自らに課せられる責任が増えてきました。その中で起こってくるトラブルに対処をしていかなければならないこともあります。その対処の仕方は年々変わってきていると感じるのですが、年齢を重ねてくるとどのような違いがありますか。

A:年齢と共に現れてくる変化は多様性である。経験と共に対処する方法が増えていくのだ。ただ失敗をどう記憶していくか、その時にどのように対応していくかでその質が変わってくるため、気を付けていかなければならない。また、年齢を重ねていけば、責任や、重荷から自分を主体的に外してしまうことが簡単になる。経験を積んで、多くのことに取り組める年齢になるはずなのにもかかわらず、その先の責任を恐れて、他者にその務めを転嫁してしまうのだ。しかし、そのような時に自分の好きなようにしていてはいけない。むしろ、それまでに培った経験を活かしていけば多くの物事が円滑に回る。それは大きな利益を生む。にもかかわらず、本来手元に来る多大な利益を、責任から逃れてしまうことで、失ってしまうということが起こってくるのだ。これは仕事だけにとどまらず、宗教や家庭においても同じである。ただ、ここには大きな違いがある。お金で動いている世界はお金で報われるが、宗教の世界と家庭はお金だけでは動かない。仕事はどこかで辞められる。しかし、家庭は簡単に切り離せない。それは愛によって秩序正しく動いているからである。そして、愛するということも同様に失敗や経験、反省の繰り返しによってより大きな利益を生むことができる。そして、それはある程度年齢が過ぎた時、恩恵として与えられるのである。
 私は人生をそのようなものによって培うことを喜びとしている。そのために私は牧師の仕事以外に外に出て働くということを選択した。それは経済を潤沢にし、より効果的に運用するためだった。伝道師である私の妻は、この運用ということに賜物があった。彼女は経済を活用し、多くの人と関わりを持ち、教会の人を愛するために用いた。それは、私にとって良い選択だった。それによって教会と家庭が愛に満ちたものになったのは事実だからである。人に与えるものは必ず様々な形でそれが返ってくる。しかも、本人のみならず、その周りをも豊かにするものになるのだ。これが神の世界であり、聖書を通して神が教えるこの世の秩序、システムである。  形のない「愛」や「尊敬」で動いている関係は「愛」や「尊敬」無しでは動かない。なお変わらず若いうちに多くのことを経験し、あなたに与えられた責任を全うして行って欲しい。


Qリベカはヤコブに長子の権利が与えられることを神から示されたときに、なぜイサクに話さなかったのでしょうか。

A:イサクも知っていたとは思う。ただ、それでもヤコブはエサウのことを偏愛していたために、彼に長子の権利を与えたいと願ってしまったのだ。
 ラケルとレアはラケルの方が旦那であるヤコブに愛された。しかし、一方でレアは神に愛されたと聖言は語っている。それゆえに彼女はマクペラの洞穴というアブラハムから続く一族の墓に入ることができた。ヤコブに愛されていてもラケルはそこに入れなかった。神の愛と人の愛の方向が違うということもあり得るのだ。
 本来イサクはその偏愛ゆえにエサウに祝福を与えようとした。リベカはそのことに直面したときに、イサクに詰め寄ってそれがおかしいと訴えればよかったのかもしれない。胸倉をつかんで、そんなことでいいのですかと怒鳴っていれば変わったかもしれない。しかし、彼女はヤコブを焚きつけて騙してそれを得た。ただリベカはそれでも良しとした。呪いを受けようとも、ヤコブを愛するゆえにことを行ったのだ。
 正論で言えば、呪いを受けるほど子どもにのめりこんではいけない、それを正されなければならないという人もいるだろう。しかし、私は一方でそのような人の感情で物事が動くということも神がまた受容してくださっていることなのだと思うのである。年齢によって物事のとらえ方も変わる。私も年齢によって考え方やとらえ方も変化した。あなたも貴方の今までの人生を振り返りながら、その年齢にあった考え方でまず捉えていっていいと思う。  ヤコブのところにリベカは自らの死を察知して乳母を送った。それは呪いのゆえに彼に会わずに死ななければならなかったからである。しかし、それでもヤコブのことをリベカがどれだけ愛していたかということを伝えられる存在を彼のところに遣わしたのだ。彼女はそれによって彼に対する愛を全うすることを喜びとして、その生涯を終えたのである。


Q:列王記Ⅰ21章のところでアハブがナボテのブドウ畑を奪ってしまったということの罪に対して悔い改めを行ったとき、罪の代償を子どもの代に与えるということがなされましたが、私としては子どもが苦しむことの方が苦痛に感じます。

A:悔い改めをどのように遂行していくかということがここにかかっている。彼は悔い改めると言って実際に憐れみがなされたが、本当に彼の今後の生活が変わってくるかというとそうとは限らない。その場しのぎではないが、結局自らを変革することができなければ、その悔い改めは一時のものでしかないのだ。私はだからこそ、ここでもたらされた神の憐れみは、子世代への猶予であると捉えるのだ。あなたの言う通り、子どもの世代からすれば理不尽とも思えるかもしれない。しかし、彼の罪がこの場の悔い改めのみで果たされるものではなく、神の憐れみが大いに発揮されても、子どもの世代ではその代償が払われなければならないほどのものだったのだ。だからこそ、この悔い改め続ける猶予の間に、彼が変革することができ、その悔い改めを果たすことができたのなら、彼の子どもの世代の代償も贖われるかもしれないと捉えるのである。
先ほども語ったように悔い改めても繰り返すということは十分にある。アハブの悔い改めを彼のものとして神が受け入れられたことは事実である。
 私たちの教会は世代を重ねることで十分に経験を積み、その所に多くのことを蓄えている。神の御心に歩むことや、そのために何をするべきか、何を恐れるべきか、どのようにして戦っていくべきかなどと共有しながら、神の前に歩み続けている。例えば今この教会でいくつかの家庭の父親が子どもたちの養育、世話を熱心にしている。近郊のショッピングモールに行けばイクメンと呼ばれるような父親の姿も見るだろう。しかし、この教会内で見られる父親の姿は現代がそのように変わってきたから行われているものではなく、教会内で以前から行われていたことである。私自身、実際に子どもとの関わりを豊かに持つようにした。その当時、男親が子どもを背負っている姿は町中にほとんどなかった。しかし、私は子どもたちをおんぶ紐で背負ったし、ミルクやおむつも換えた。むしろ今になって社会の価値観が追い付いている。
 アハブの父オムリはフェニキアという力のある国と同盟を結ぶことで地位を確立し、多くの富を得た。しかし、一方で、それは悪影響を及ぼす異国の偶像バアルを自国に呼び込み、民が異邦の神々へ仕えるきっかけをつくった。また、オムリがアハブの結婚相手としたイゼベルがこのナボテの畑を権力と暴力によって自分のものとすることを進めるなどのことが起こったのだ。一見オムリは強国と繋がることで良い判断を下したようにとらえられた。しかし、それは神の御心ではなく、人が思い描く良い手段に過ぎない。そのために彼は真の神の力で国を確立するのではなく、人の力でことを治めようとし、見事失敗したのだ。私たちの目に見える良いことが実際に良いとは限らない。神の前に歩み、その御心に聞き従うことこそ、本当に価値があり、良いことなのである。


Q:列王記Ⅰ22章にミカヤがそれまでに答えた預言者たちと同じことを答えたのに、アハブはそれを否定しました。結局ミカヤは何を答えてもアハブが受け入れることはなかったということでよろしいのでしょうか。

A:その通りである。ミカヤは何を言っても拒絶されるということは確かにわかっていた。だからこそ、彼は少しでもアハブに語る内容によってインパクトを与えようとした。しかし、彼はそれでも変わらなかった。人間の愚かしさがここにある。ヨシャパテが他に預言者はいないのかと問うたのは、結局集められた人たちがアハブの意に沿うようなことしか言わないということを感じ取ったからである。ヨシャパテは本当に神の御心を語る人を求めていたのだ。しかし、それに対するアハブの回答は、彼らは自分の意にそぐわないことしか示さないから外したのである。彼の語る預言は行われていないという証言だが、実際は行われているのだ。それにもかかわらず彼は行われていないという。この場においてまともなことは行われていないことがはっきりと分かる。
アハブの現実はここに表されている。彼は確かに21章で悔い改めたが、結局その本質は変わらない。自分の意に沿うものを揃え、本当に神の御心を語るものは、自分の意にそぐわないからと排除し、自分が好き勝手出来るようにしているのだ。自分のわがままで行えばおかしくなるのは当たり前である。嫌なこと、気に入らないことを全部排除してしまえるからである。だからこそ、彼は王としての身なりをせずに戦いに出ていき、自分の命を守ろうとし、結局たまたま放たれた矢に当たって死を迎えなければならなかった。彼にとってその出来事はどのように捉えられたかはわからないが、確かに神からのわざわいであり、愚かしいものであった。人間の晩年はこのようになってしまいがちである。だからこそ、信仰が必要であり、自らを整えていくことが大切なのだ。あなたにはぜひ、賢いおばあちゃんになってもらいたい。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)