同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— ひとり子の栄光 —

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」 (ヨハネ 1:14)
「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。」(ヨハネⅠ 1:1-2)

 イエス・キリストは私たちを「罪から救うために」この世においでになりました。どこから?天の父なる神のみもとからです。イエスがこの世においでになったのは、父なる神の主導によるものですが、イエスはそれを喜んで実行されたのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ 3:16)とそのことが記されています。
「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 御子を信じる者はさばかれない。」(ヨハネ 3:17-18)
ここに「神がさばかれる」ことが書かれていますが、それは「罪を犯す人は、神にさばかれ、滅びる」ということです。
 けれども「御子を信じる者はさばかれない。」と一緒に書かれていますが、旧約聖書には一貫して「正しい(義しい)人はさばかれない」とされています。しかし、人間は生涯を通して「罪なく」過ごすことはできません。ですから、旧約の律法によって今の私たちのように救われることはなかったのです。
 御子を「信じる者」はさばかれない、新約の時代が到来したのです。
 今、神は信じる者に「罪の赦し」と「新生のいのち」をお与えになります。
「バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」(マルコ 1:4)
「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」」(マタイ 4:17)
「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ 3:3)
「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。」(ヨハネⅠ 2:12)
 これが救いであり福音と呼ばれているものです。そして「イエス・キリストを信じる」ことが神のさばきを逃れる唯一の道です。もちろん救いの恵みを受けたひとは、罪を犯してはなりません。もし罪に陥ったなら直ちに悔い改めて救いに帰らせていただかなければなりません。

 さて、救いの恵みに与った私たちは、何を見るでしょう。
ヨハネは福音書で、「栄光を見た」といい、晩年になって書いた手紙に、「聞いた、見た、じっと見、手で触った」といいます。
 今の私たちはみ父の栄光であるイエスを直接見ることはできませんし、聞くことも、手で触ることもできません。けれども聖書と聖霊によってこころの内にイエスの栄光を見、その声を聞くことができます。
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(ヨハネ 14:16-17)
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。 御霊はわたしの栄光を現します。」(ヨハネ 16:13-14)

ですから、私たちは、
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」 (ヘブル 12:2)

聖霊の助けにより、こころの目もってイエスをしっかりと見、目を離さないようにと命令されています。文語聖書では「信仰の導師(導き手)これを全うする者なるイエス」と訳されています。

 クリスマスのこの時、私たちの信仰の創始者、その導き手、そして完成にいたらせてくださるイエスとその栄光をしっかりと見ようではありませんか。