同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 宗教経験と自分の神学 —


 ここに言う「宗教経験」はもちろんキリスト教に関する宗教経験で、神学はキリスト教の神学です。

 キリスト教の歴史に名の知れた、例えばルターのような人物も、世に知られていないというか、その人の周囲のひとびとしか知らないような先生方も皆「自分の神学」をお持ちです。そして信徒のひとりひとりも皆自分の神学をもっています。

 神学というとき、その基礎、出どころは聖書にあることはいうまでもありません。しかし、整理されて〇〇神学と呼ばれるものがあります。身近なところにはルーテル派、カルヴィン派、アルミニウス派、ウェスレー派などなどの神学があり、更にそれぞれがまた沢山の枝分かれしているのはご存じの通りです。皆聖書を出典としていると主張しているのに、どうしてこんなに多くの分かれた神学があるのかと不思議に思いませんか。

 その原因は、神学というものは、各自の理解が「宗教経験」の上に成り立っているためであると思います。
 ルターの神学の中心は、「信仰義認」ですが、信仰によって救われる経験、新生の恵みに与ったその経験が、彼にとって強烈な印象であったためです。ベイントンのルター伝「我ここに立つ」を、私は涙を持って読んだものでした。神は、行い、修行によって救われようと、とてつもない努力した彼を愛されて、信仰による救いに導かれたと信じます。

 一方、アンドリュー・マーレーはカルヴィン派の牙城とも言えるオランダ改革派の牧師ですが、その語ることに私は全く違和感を覚えません。私自身は自分の神学はウェスレーの神学と同じではないけれどもそれに近いと思っていますが。アンドリュー・マーレーの宗教経験の中心に、ペンテコステ、聖霊の満たし、第二の転機があり、彼の神学の根幹をなしているからです。それは「キリスト者の完全」ということばは使いませんが、ウェスレーの主張したキリスト者の完全と同じものです。

 そのように、各自の神学は自分の宗教経験に大いに影響されます。

「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ 3:3)
救われて新生の恵みに与ったことのないひとは、神の国の門外漢であって、キリスト教のことを何も知らないのです。かつてそういう人々と議論したことがありますが、「「救われました」と言うことは傲慢だ」と言われました。救われることを知らないでキリスト教だと思っているとはなんと哀れなことでしょう。

 同様に、聖霊の世界のことは、ペンテコステを経験した人でないと理解できないのです。

イエス・キリストは、
「イエスは・・・彼らに息を吹きかけて・・・「聖霊を受けなさい。・・」」
(ヨハネ 20:21-22)
と言われました。それを受けて弟子たちは、
「すると、みなが聖霊に満たされ、」
(使徒2:4)ました。

パウロはこう解説します。「生まれながらの人間(聖霊を受けていない人)は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。・・」(コリントⅠ 2:14-3:1)

  この「聖霊の満たし」は、「全き聖化」、「聖潔」、「きよめ」、「第二の転機」などとよばれていることそのものです。ですから、第二の転機を経験していないひとびとは御霊の世界の門外漢なのですから「聖潔」を論じない方が賢明です。

  私の場合は、いつも証ししているように、幼い時から、神がおられること、聖書は真実の神の書であること、イエス・キリストが救い主であることを信じていてそれから離れたことはありません。また救われる経験があることも知っていました。けれども、自分で信者になろうと思い、洗礼を受け、教会員になりましたが、救われていませんでした。それで救われるということはどういうことかよく分かるのです。救われる以前の私のような状態にあるひとを救われていると主張する人がいることを知って嘆いたことがあります。
 救われるとは、思想の問題ではなく、神が<実際に>私のこころに「罪の赦し」と「新生」を与えてくださることでした。
それから教会の働き、活動もたくさん行いました。知識も増えました。しかし今振返ってみると、その期間霊的には成長したように思えません。
 5年後にきよめの恵みに与りました。その変化は強烈で、救いの恵みの素晴らしさを忘れてしまうほどでした。それからは成長を続けることができたと思います。
 山本光明先生が「信仰には質と量があるんだよ」と語っておられたことが、私の信仰の理解につながりました。私は自分の信仰をよく省察して、私の信仰の質の変化は、救われた時と、きよめられた時の2回しかない、あとは量の変化であるということが分かりました。つまり成長は信仰の量の変化であって質の変化ではないとはっきり分かるのです。同じ事がパーカイザーの「キリスト教信仰の探求」に書かれていますが、後でそれを知りました。
 自分の神学に影響を与えたものは、山本先生の説教が最も大きかったと思います。そして先生には折に触れて教えていただきました。先生は「神を畏れること」と「権威」を重んじました。山本先生から学んだ重要な点に、信仰には建設ということがあり、教会、家庭、個人、隣人(その救い)などについて、よい手段を探し求め、祈りと信仰をもってそれを実行する、そこにその建設があります。それは「恩寵の手段」の拡張、敷衍です。教えて頂いたことを聞いて分かっただけでなく<実行すると>自分の宗教経験になります。

 誌面がなく書けませんが、山本岩次郎先生にも教えて頂きましたし、現在は山本嘉納先生に教えて頂いて宗教経験を積み重ねることを許されています。三代の先生がたに学べて幸いです。また聖書も読みましたし、信仰書も多く読みました。それで整理して語ることができるようになりました。

 書物からはR.A.トーレーの「聖書の教え」の影響を受けました。「・・と聖書に書いてあります」ということが重要で、どんな大家の見解でも参考に過ぎません。

 皆さんも「自分の神学」はどういうものか、考察してみるとよいのです。