同労者

キリスト教—信徒の志す—

回心物語

— ジョン・ニュートン <恵みによって救われた奴隷船の船長> —


<本コラムは「野の声|木田惠嗣のホームページ:40人の美しい回心物語:
("40 FASCINATING Conversion STORIES" compiled by SAMUEL FISK (Kregel Publications)の中から、適宜選んで、毎週の週報に連載翻訳したものです。)から許可をえて転載。

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     ジョン・ニュートンに起きたドラマチックな人生の変化は、長い年月にわたって、そこに起きた変化の大きさが驚きであると共に、福音の救いの力の典型的な例として、広く認められてきた。  “アメイジング・グレイス”のように世界中で非常に愛されている賛美歌が、英国において、11歳の時(既に彼のは母は死んでいた)、船乗りとして無法者の生活を始めた男によって書かれたと、誰が想像出来るだろうか。彼は、自分の船を放棄した罪で、水兵強制徴募隊に捕らえられ、英国海軍の軍艦で働かされたが、逃亡し、再び捕らえられ、重罪犯として、公衆の面前でむち打たれ、階級を下げられ、アフリカで捨てられた。そこで、引き渡され、黒人たちの間で、奴隷として扱われた。入牢し、二度、奇跡的に死を免れ、その後、“嘆かわしい淫らな放蕩”生活を送り、長い年月にわたって、反宗教的な感情を持ち、神を冒涜して生きていた;しかし、後に、広く知られた讃美歌「アメイジング・グレイス(おどろくばかりの/聖歌229番)」を作詞することができるような人物になったのです。
     最初の神との出会いの体験の後、ニュートンは、外面的には何の希望もない、数年間の霊的苦闘を経た。しかし、ついに、自分の人生を神の言葉に仕えるために明け渡した。彼は、ギリシャ語、ヘブル語、シリア語を学んだ;いくつかの非常に評判になった作品を書いた。その中には、‘Safely Through Another Week'(「なぬかやすけく」聖歌95番)のように、非常に有名な讃美歌がある。事実、ダッフルの英国讃美歌には、ニュートンの作詞した32の讃美歌が載っている(ダッフルの標準的作品は、ニュートンの物語に、8ページ余りをささげている。)
     ニュートンは、詩人ウィリアム・クーパーと親しい友人となり、彼と共同で、有名な「オルニー讃美歌」を生み出した。かつて、奴隷売買のために船を指揮していたが、ニュートンは、そのような邪悪な貿易に反対する文章を熱心に書き、英国の偉大な奴隷解放者となったウィリアム・ウィルバーフォースを奮起させた。
     何年も、乱れた放蕩の生活を送った後、その間、何度も、受けるに値しない神の恵みを経験したけれども、最終的に、彼の良心を呼び覚まし、彼の生活を変えるきっかけになったのは、海上で嵐に遭遇した事であったと彼自身振り返っている。私たちは、リチャード・セシルが書き記し、ニュートン自身が改訂を加えた本から、その物語(ここでは、詳細については、省略して紹介する)を引用しよう。
     「熱帯地方を航海する間に、船は、修理できないほどひどく破損し、とても嵐には耐えられない状態であった;帆も綱も、同様にひどく擦り切れており、そのような状況では、もっと悪い事が起きるのではないだろうかと、皆が一様に予感した。」
     「私の良心は、再び、私に不利な証言をした。そこで、私は、私自身の選択の結果やってくるものを甘んじて受けようと結論した。私は、これらの反省を、何人かの者たちの空しい会話に加わる事によって、唐突に打ち切った。しかし、今や、神の時が来た。余りにも予期せずにやってきた罪の自覚は、厳粛な摂理のわざによって、私に深く刻み付けられた。」
     「その晩、私は、いつものように、何事もなく無事に、床に就いたが、船に乗っている私たちを襲った猛烈な海水の力によって熟睡から覚まされた。非常に大量の海水が流れ込んできて、キャビン一杯になり、私は、水の中に寝ていた。デッキから、船が沈みかけていると叫び警告する声が続いた。海水がどんどん入って来た。その波は、船体上部の横木を一方に引き剥がしてしまい、数分の間に、船は、面影もない残骸と化した。あらゆる状況から、乗船していた私たちのうちの一人でも、助かるという事は、驚異的な奇跡としか思えなかった。」
     「私たちは、浸入してくる水を止めるために、私たちのほとんどの衣服と寝具を使い果たし(熱帯地方をつい最近通り過ぎてきた私たちにとって、その気候は、非常に寒かったけれども)、その上から、板切れを釘で打ち付けた。私は、必死で水をポンプで汲み出し、私自身と仲間を励ますよう努めた。私は、その中に一人に、この災難も、あと何日かすれば、ワイン・グラスを片手に語り合う、酒の肴になるさと話し掛けた。しかし、彼は、私と同様の心を頑なにした罪人であったのに、涙ながらにこう言った『いや、今となっては、もう遅い。』」
    「私は、ポンプのところへ戻らざるをえなかった。そして、そこに昼までいた。通り抜ける波のほとんど全てが、私の頭の上を越えていったが、私たちは、自分のからだをロープでしっかりと固定し、波に押し流されないようにした。事実、私は、その度に、船が海の中に沈んでしまって、もう二度と浮かび上がって来ないのではないかと思った。私は、今、死を恐れるが、私が、長いこと逆らって来た聖書が、もし本当に真理であったら、最悪のことが起きるだろう。しかし、私は、未だに信じることをためらっており、絶望とやりきれない気持ちの混ざった、重苦しい空気の中で、ほんの少しの時間しか残されていなかった。もし、キリスト教が正しいならば、私は赦され得ないであろうと思った。それで、願う時にはほとんどいつも、その最悪を知りたいと思っていた。」
    「3月10日は、私にとって、たくさんのことを思い出す日です。それを経験したことがなかったので、まったく見過ごしていた:その日、主は、高きところより使いを送り、私を深い水の中から救ってくださった。私はポンプのところにずっといた。そして、その時にはもうこれ以上することがなかった。私は自分のベッドのところへ行き、横になった。私がもう一度、起き上がることができるかどうかもわからなかったし、ほとんど考えもしなかった。一時間ほどして、私は呼ばれた。水をくみ上げることもできなかったので、私は舵のところへ行って、夜中ずっと船の舵を取っていた。ここで、暇な時間ができて、内省するのにちょうど良い機会が与えられた。私は、自分の以前の信仰告白について、人生の大きな変化、召し、私の経験した警告と救いについて考え始めた:私のみだらな話し方、特に福音の歴史を常に不敬虔なあざけりの主題としてきた前代未聞のあつかましさについて考えた。私は考えた、聖書の前提を受け入れるとしよう、すると、私のような罪人はかつてなかったし、また、あってはならないものである;そして、わたくしの罪はあまりにもひどいので、赦されることはできないと結論した。私は、恐れとじれったさの中で、私に課せられた運命を待った。」
    「夕方、船が水から解放されたと聞いた時、希望の薄光が射し込んだ;我々への好意を示す神の御手を見たと思った:私は祈り始めた。私は、何度も何度もあざけってきたイエスについて考え始めた;わたくしは彼の死を思い出した:彼自身の罪のためではない死、むしろ、私が思い出したのは、彼を信頼すべきである悩みの中にある人々のための死であった。主はその時、私に、神の義と、罪深い魂との間を取り持つ、ある手段がどうしても必要である、ということを示すことを由とされた。私はかすかな希望を見出した。しかし、他のすべての面では、私は、底知れない暗黒の絶望に取り巻かれていた。
    「私たちは、貯蔵品の樽がすべて、船の激しいゆれのために、粉々に砕かれてしまっているのを発見した。帆も、ほとんど吹き飛ばされていた。このように、私たちの心には、希望と恐れが交互に満ちた。私の暇な時間は、主に、聖書を読むこと、黙想すること、そして主に、憐れみと導きを求める祈りに費やされた。」
    「私たちの状況は、他の船によって救助されるという希望が一切剥奪されたような状態であった。塩漬けのタラ半分が、12人の乗組員の一日分の生活の糧であった。パンはないし、ほとんど衣類もなく、しかも非常に寒い気候であった。船が水の上に浮かび続けるために、水をポンプで汲み出す絶え間のない労働をしなければならなかった。苛酷な労働と、少ない食料のため、私たちは、たちまち消耗し、一人の男がその困苦の中で死んだ。私たちも飢えて死ぬか、あるいは、お互いに食料を切りつめるかどちらかという恐ろしい見通ししかなかった。疲労が重なって非常に気難しくなった船長は、まるで災難の唯一の原因が私にあり、私が甲板から投げ込まれるなら、そして、それ以外には、死を免れる道がないと確信しているかのように(参照;ヨナ)、ひっきりなしに私を叱った。こんな事 を繰り返し繰り返し聞くうちに、特に、私の良心が、彼のことばに賛同すると、一層、不安が募った;私は、心の中で、神の力ある御腕によって探し出され、罪を咎められていると思った。」
    「このような状態が、陸地が見えると呼ばれるまで続いた。次の日、私たちは、その島に碇を下ろした。この頃、私は、神が存在し、祈りを聞き答えてくださると知り始めた。私は、他の人々と同じように、飢えと寒さと疲労で緊張し、沈没と餓死を恐れていた;しかし、その他に、私は、まったく私自身のものである心の痛みを感じていた。この時まで、私は、どんな叱責の後も、いつも、前より一層うなじを硬くした。」
    「書物に関しては、私は、一冊の新約聖書を持っていた。それを丹念に調べるうちに、私はいくつかの部分に感動した。特に、ルカ15章の放蕩息子の事例は、私自身のよい例として、これほどふさわしいものはほかにないと思った;これは、帰ってくる罪人に対する主の慈しみ深さを例証する目的の物語に他ならない。私は、更に祈りつづけた;救いから遠く離れていた私に、主が干渉してくださったことを知った。」
    「アイルランドに到着する前に、私は、内心に、福音の真理の十分な確信を得た。ついでながら、私は、イエス・キリストの従順と苦しみによって与えられる罪の赦しのうちには、神の恵みばかりでなく、神の義も示され、宣言されていることを知った。私は、全能の救い主を必要とする立場に立たされ、新約聖書に記されたそのようなお方を発見した。
    主は、ここまで、すばらしいことをしてくださった:私は、本当に、受けるに値しない恵 みを受けたのだと感動した。このように、どう見ても、私は新しい人となった。」
    この文章を閉じるに当たって、ニュートン自身が書き、実際に、彼の墓に刻まれた、幾度となく引用された墓碑銘を記すのがふさわしいであろう:「ジョン・ニュートン・牧師・かつて、不信仰な放蕩者であり、アフリカにおいて奴隷のしもべであったが、われらの主なる救い主、イエス・キリストの豊かな恵みによって、滅びを免れ、回復させられ、赦され、信仰を述べ伝えるために任命され、死に至るまでずっと忠実に仕えた。」