同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 小さな積み重ねの大切さ —

茂永 頼子

「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。」(ヨハネⅠ 4:7)

私は中学生のときから、祈祷会や火曜日の集会の前に牧師先生の食卓で夕食をいただくことが習慣になっています。
私にとってはその時間がとても大切なものとなっています。
盡子先生はいつも美味しい食事とデザートまで欠かさず用意して、温かく迎えてくださいます。
私は、はらこ飯やイチジクの甘露煮が大好物で、食卓に出たときはお土産まで持たせてくださいます。そのため母は「山本家でいただくからいいでしょ」と我が家では作ってくれなくなりました。
それだけ、山本家での食事が私の生活の一部になっています。中学、高校の頃は授業のほかに課外授業があったのですが、祈祷会がある木曜日には夕食に間に合うよう終わった途端に教室を飛び出していました。
友人からは「頼子ちゃんっていつも早く帰るよね」と言われたこともありましたが、それでも山本家での夕食の時間を獲得し続けたことは私の成長に必要不可欠だったと思います。週に1~2回、1時間あるかないかの時間ではありますが、ここまでの歩みを振り返ると、その交わりの積み重ねが先生方と同じ価値観を構築する上でとても大切だったように思います。
私は食事前に食器の準備などをお手伝いしながら盡子先生とお話しするのですが、盡子先生は私が若いとかは関係なく、教会や家庭の大切な話をしてくださいます。
食卓では、面と向かって聖書の話や信仰の話がなされる訳ではありませんが、言葉の端々に大切なことが語られています。
特に、嘉納先生が発せられる言葉には私の心の中に残り続けるものがあります。先生方は、教育者と教会員という関係にはとどまらず、神の家族として私のことを娘、あるいは妹として扱い、愛を注ぎ続けてくださっています。
今年の3月に光明先生が天に召されましたが、最後の1ヶ月くらいの間も私は変わらず山本家で食事をさせていただいていました。
その間、光明先生が弱っていかれる姿と介助をされる先生方の姿を見たときに、私は何ともいえない悲しさを感じましたがそれ以上に最後まで信仰者として歩み続けるとはどういうことか、家族がそのことをどのように支えていったら良いのかを学ばせていただけたことに感謝しました。
 私は今月で20歳を迎えます。教会の中で愛され、日々成長している小さな子供たちの姿を見るときに、私自身もそのように教会の先生方や兄弟姉妹に関わっていただいてきたんだと感慨深い気持ちになります。嘉納先生は随分前に食卓の中で「私はいまも成長し続けている」とおっしゃっていました。
私より40年も多く生きておられる嘉納先生がそうおっしゃるのだから、神の似姿に変えていただくその日まで信仰者は走り続けなければならないと思わされました。
これから先、どのような歩みが待っているかは分かりませんが、なお神に期待しながら信仰者人生を歩ませていただきたく願います。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)