同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 「罪」は「的外れ」でいいですか? —


「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ 6:23)

 玉川直重というひとが書いた「新約聖書ギリシャ語独習」に以下の文が載せられています。

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   ギリシャ人と罪
 「ユダヤ人は徴を請い、ギリシャ人は智恵を求む」(コリントⅠ 1:27)とパウロが云った、かのギリシャ人には罪の観念なるものが無かった。もしあったとすればそれは我らキリスト信者のいわゆる罪とは全く縁の遠いものであった。このことを最もよく語る(示している)のは彼らの用いていた「ハマルタノ-」(罪を犯す)という語である。
 元来「ハマルタノー」は、「ア」(否定)と「メロス」(部分)から成った語であって、<関与せぬ>、<理想に副(そ)わぬ><標準に達せぬ>などの根本義(根本的意味)があった。しかし、ギリシャ人は普通これを投げ槍に的を<外す>、人に会い<損なう>、事をし<損ず>等の意味に用いた。従って彼らの「ハマルティア」(罪)は、これ以上のことではなかった。我らがかの「天路歴程」において見るが如き罪の苦しみなどはギリシャ人には到底不可解のことであったのである。
 もちろん彼らにも神々があり、また神々に対する罪が無いではなかった。しかしそれは供物する事によって償う事のできるものと信じていた程度の「ハマルティア」であって、我らから見れば「誤り」位に過ぎなかったものである。このギリシャ人の「ハマルティア」の根本義を採り入れ、更にこれを充実して「罪の払う価は死なり」という峻厳なる意味としたのはキリストの宗教である。」
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 ギリシャ語の元の意味に従って「罪は的外れです」というと「罪は過失です」と言っていることになりそうに感じます。

「罪」、その本質は「自分を神とする」ことであり、真の神に対する「反逆」であって、供物ではなく「十字架の血潮」をもって贖なわれなければならないものです。
 もしその贖いに与らなければ、「死」(永遠の滅び)という代償を払うことになります。

 ギリシャ語の元の意味でなく、聖書に取り入れられた「ハマルタノー」を追求しましょう。