同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 天国と時間 —


「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。」(ダニエル書 12:2)
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ 3:16)
「我は、・・・からだの甦りを・・・信ず。」(使徒信条)

 イースターの時ですから、天国について考えたいと思います。
 私たちは天国に入れて頂くことと永遠のいのちを約束されています。つまり天国は永遠の世界です。ですから天国というと一緒に永遠を考えることに導かれます。
 天国についてこういう説教をしている方がいました。「天国では、神が時間を取り去ってしまう。」と。つまり天国には時間がないというのでした。「神が時間を取り去られる」ということは聖書のどこにも書かれていません。「天国は永遠の世界である。」では「永遠とはなんぞや?」と考え、「永遠とは時間のない世界である」と結論することは「哲学」の世界です。それを「神学」の領域に持ち込んだものです。
 もうひとつ、天国でのからだの問題についてこう主張する人がいました。「天国ではすべてのひとが33歳のからだになる。」と。それを書き物で読んだことがあります。これは時間のない世界の延長で、時間がないから変わっていかないのです。33歳がどこから考え出されたかといいますと、イエス・キリストが33歳で復活されたことから推測したのです。しかし「天国では人は変わっていかない」ことを裏付けることができる聖書の記事はどこにもありません。
 以上のようなことを、天国についてどういうことが聖書に書かれているか興味をもっていただく糸口にしたいと思います。
 まず時間の問題についてですが、天国の時代はイエス・キリストのご再臨と千年王国ではじまります。千年王国は明らかに今の地上の生活の延長上にあり、千年という時があるつまり「時間」のある世界です。
 それについで、やがて新しい天と新しい地の時代がきて(イザヤ書 65:17)、それは永遠に続きます(イザヤ書 66:22)。この新しい天と新しい地の到来の前に、以前の地は過ぎ去ると書かれていますが(黙示録21:1)、それは私たちが救いの恵みに与ったとき、新しくされたことと同じような変化であると思えばよいでしょう。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリントⅡ 5:17)つまり今の地がなくなってしまうのではないということです。
 黙示録には新しい天と新しい地に関する記述としてこう書かれています。
「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」(黙示 22:1-2)このいのちの木はエデンのいのちの木(3:22)と同じものでそれを食べると永遠に生きることができるでしょう。
「毎月」ということは、今と同じように時が進むことでなくてなんでしょう。聖書には時間が無くなると書いてないことは明らかです。
 私たちは復活の時、霊だけが復活するのではなく「からだ」をもって復活します。皆さんは毎週礼拝時に、冒頭に引用した使徒信条を自分の信仰告白として述べていることでしょう。それは「霊」と「からだ」の区別をして「からだ」は「肉体」という意味で述べているのです。復活されたときのイエスの姿は、私たちの復活の時の姿を暗示していると考えてよいでしょう。しかしそれは成長せずにいつまでもその姿でいることを示してはいません。イエスが弟子たちに現れた記事にこう書かれています。
「これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。」(ルカ 24:36-43)
復活のからだには「肉や骨があり」今の世と同じように食べることができることを示されました。
 以下は推測に過ぎませんが、からだがあり時があるなら、時が進むのと共に成長する、成人になったら年を重ねる・・今のように「年をとる」=「弱い老人になっていく」のではないことでしょうが・・と考える方が自然です。天国に迎えられた嬰児はいつまでも嬰児のままであるとは考えられません。つまり天国のからだも成長する、従って、嬰児もやがて大人になり年を重ねると考えることがもっとも妥当です。
 天国においても「霊的」に成長し続けると主張されてきましたが、「霊と魂とからだ」は一体であって、すべてが成長し続けると考えればよいでしょう。
 イエスはこう言われました。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。・・」(ヨハネ 14:2)天国には住まいがあると。先に引用した黙示録には、いのちの水の川の岸にいのちの木があってその実が諸国の民をいやす、と書かれていて、「天から降ってくる都、エルサレム」の外の世界も暗示されています。
 天国では私たちの見る目が変わって、ラザロのおでき(ルカ 16:20)は、イエスの手と脇腹の傷跡のように見えることでしょう。聖書を読むと共に、以上のような視点から天国を再考するとよいと思います。