同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 幸福の泉 —


「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」(イザヤ書 12:3)

 「幸福」について考えることは、キリスト教を信じる上で大切な働きをします。学生あるいはその年齢くらいのときは、幸福という事を考えます。一度卒業して、社会人となると、目の前の仕事、昇進、社会生活の様々のことにこころを奪われて、幸福というテーマは考えなくなます。その結果、学生のときに教会の門をたたき、救われるひとは多くいますが、卒業した後に救われるひとは激減します。
私も学生のときは、友人を教会に誘うことがよくできましたが、社会人になった後は、当時の仲間を教会に誘うことは極めて困難になりました。
 教会に来て救いの恵みに与りますと、それまで「神無く、キリスト無く」虚しい人生を歩んでいたことが分かりますから、救いの恵みにある幸福を感じます。
 教会に来て救われると、万々歳でずーっと幸福な人生を生きることができるのか、というといまひとつ考えるべきことがあります。

 世の人の求める幸福は、自分の外にあって、何かを獲得することです。
時々テレビの番組で、「幸福か?」と問われて、次のような回答がでてきます。
・健康に生きている
・好きな仕事をしている
・平和な家庭がある
・経済的必要が満たされている
・・・等々
で幸せです、と。
これらの事柄は、やはり自分の外にあるものを獲得することに幸福を求めていることになります。

 ところがそれによって幸福が得られないことを、カール・ブッセの詩がよく表していて、上田敏の訳詩が日本で有名になり国語の教科書にも載っています。

 山のあなたの 空遠く
 幸(さいはひ) 住むとひとのいふ
 噫(ああ)我ひとと 尋(と)めゆきて
 涙さしぐみ かへりきぬ
 山のあなたに なほ遠く
 幸(さいはひ) 住むとひとのいふ

山の遠い向こう側に、幸福があるとひとがいうので、他の人と一緒に探しに行った。
そして目に涙をためて(原詩は目を泣きはらして)帰ってきた。(そこに行ってみたら)更にずっと向こうに幸福があると人がいっている。
 この世のものを獲得してもやっぱり幸福でなく、更に次のものを求め続けることを言い当てていて、多くの人々の共感を呼んだのでした。

 幸福は「いのちの泉」が自分のなかにあることにあります。
サマリヤの女にイエスはこう言われました。
「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ 4:14)
ですからイエスの与えて下さるもので満足していれば、幸せであり続けることができることでしょう。

 しかし、信じて救われた後になお、世のものを得て幸福になろうとすることがあります。私がその実例です。
私は、自分の気に入った人を配偶者としてえることを求めました。
私のもとめていたものは、「水をためることのできない、こわれた水ため」でした。
「わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」(エレミヤ書 2:13)
「イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主を捨てたからだ。」(エレミヤ書 17:13)
 主を捨てたつもりはなく、ひたすら「神よ。この人を私に下さい。」と願ったものでした。しかし、世のもので幸福であろうとすることは、いのちの泉である主を捨てることでした。

「幸福な人生への信仰生活の秘訣」 (H.W.スミス著、森渓川訳)を、読むことをおすすめしたことがありましたが、引用されている聖書は文語で、なれない方には読みにくかっただろうと思います。内容を一口に言えば、幸福な人生は潔めに与かり、潔めの人生を生きることにあることが語られています。潔めの入り口の教理の問題だけでなく、潔めに至る前に横たわっている様々な困難、潔めの歩みの中における様々な困難があり、それらの困難を克服して潔めに生きることにこそ「幸福な人生」があることが述べられています。潔めの生活における実際面を主題として取り扱っていて、潔めに生きることに大いに参考になります。

 神の憐れみによって、私は世のものをもって幸いになろうとすることを捨て、潔めの恵みに与り、この「幸福な人生」に戻ってくることができました。

「祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ 7:37-39)