同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 王様と黒パン —


 「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」(伝道者の書 11:1)

 先月突然入院したことを書きましたが、そのときのことです。
 紙おむつをして寝たきりで始まりました。食事を食べるのにはしが持てませんので、看護師さんが「食べさせてあげましょうか」と言ってくれましたが、スプーンを指の間に挟むとなんとか持てたので自分で食べました。食べることはできましたが三日も便がでませんでした。
そんな時に、入院先の病院に付属看護学校があって、そこの学生さんの実習に患者と話しをするということがありました。
私に当たった学生さんと落ち着いて話す時間がとれました。中学校を卒業するまで電気がなかった田舎に育ったことからはじめて、学校のこと、どんな仕事をしてきたかなど、聞かれるままに話しました。そのなかで、私がクリスチャンであること、救われたいきさつどういうことが自分に起きたのか・・救いの証し・・をしました。毎日接している看護師さんたちは忙しく、そのような話をしている機会を持てませんでしたが、一度切りしか会わなかった看護学生さんにはそのチャンスがありました。
そのとき冒頭に掲げたみことばが思い浮かびました。
 その学生さんの質問に「食事はおいしいですか?」とありました。寝たきりで動かず、便もでない最中のことでしたから、食事をおいしく食べるとはいかなかったので、感じているまま「いまいちなんです」と答えました。後になって「王様と黒パン」の話を付け加えればよかった、次回話そうと思いましたが、看護学生さんたちの学習のスケジュールが変更され、そのチャンスはありませんでした。
 「王様と黒パン」は、トルストイの童話にあったと思います。(うろ覚えで確実ではありませんが。)トルストイは「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」などを書いたロシアの小説家です。童話も書いていて「靴屋のマルチン」がクリスチャンの間ではよく知られています。
「王様と黒パン」のあらすじですが、ある国の王様がおいしいものを食べたくて、家来たちに命じ、世界中のおいしいものを取り寄せさせます。しかし家来たちがどんな「珍味」を持ってきてもおいしいものがありませんでした。ある日、この王様は人民の様子をみてこようと貧民の服装をしてでかけました。すると農民が荷車に干し草をたくさん積んで、坂道を苦労しながら登っていくところに出会いました。それで後押しをして手伝いました。一度だけでなくそれは、長い時間繰り返されましたので、王様もそれに付き合って長い時間働きました。休憩時間になったときその農民は、持ってきていた「黒パン」を食べて、「あんたも食べろ」と王様にも分けてくれました。「黒パン」はライ麦のパンで黒いのです。金持ちは小麦のパンを食べますが、それは白いのです。もちろんライ麦のパンはまずく、小麦のパンはおいしいのです。
だが王様はその黒パンを食べて「なんとおいしいものだろう」と感じました。働いて空腹になったためです。
 学生さんとの会話「おいしいですか」には、用意されている食物だけでなく、食べる側の要因がありました。あとの入院生活全体からいえることは、大変よい食事が提供されました。素材の種類の多いこと、食が進まなくならないように味付けの工夫がされ全般においしく、ご飯は温かく、おかずも熱いものは熱く、冷たいものは冷たい状態で届きます。多数の入院患者にそれが行き渡るのは設備にも取り扱う人々にも工夫がいることでしょう。
更に一人一人の食事のカロリー計算がされていて、医師の指定した分量の食事となっていました。
 看護学生さんは「おいしいです」との回答を期待したことでしょう。「王様と黒パン」の話をつけ加えることができず残念でした。
「王様と黒パン」の話が、今自分におきたことと結びつくように、聖書のことばやできごとが、今の自分と結びつくといいですね。