同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 主が遣わされたところで —

石井 和幸


「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる」(ゼカ リヤ書 4:6)
  「偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。」(マタイ 7:5)

 私は、4月から1日4時間ほど児童福祉施設で運転士兼用務員として働いております。用務員としての仕事内容は、施設の整備や用具の修繕などで、同僚の運転士と2名で業務にあたります。私にとってこの「用務員」という仕事が、今までの自分を見つめ直す機会となっています。
 その仕事は、言わば私が今まで家業に於いて、従業員に対し「指示・お願い」をしていた仕事であります。家業においては、「これは私の仕事ではないから」と判断し他の人に指示していた業務…それが福祉施設では逆に指示されて、「これは私の仕事ではありません」とは基本的に言えない立場になっているのです。加えて私は派遣会社から施設に派遣されている立場なので、喜んで「用務員」としての仕事を引き受けるべき立場に置かれています。今までの経験が活かされる業務もあれば、逆に不得手なこともあります。特に園芸に関しては未経験で、施設長や同僚と相談しながら業務にあたっています。そして、決められた予算内と時間内で業務を完了しなければならない点も、(私が従業員に指示していたことだよなぁ…)と実感しています。
 児童福祉施設に勤務してもう一つ教えられていることは、「幼い一人の人格とその家庭」の未来のために、スタッフが総出で常に観察を行い、対策を実行している点です。もちろん様々な役割分担がありますが、必要な場合はスタッフ全員で情報を共有し、意見交換がなされるときもあります。これらの環境に毎日身を置かせていただくなかで、私自身今までいかに安易に「それは私の仕事ではない」と宣言してきたかを思わされました。もちろん、対象となる事柄について自分よりも賜物がある人に仕事や奉仕を委ねることは大切な選択でありますが、私の場合は、仕事が自分の手から離れた瞬間に、その事柄に対し無関心、無意識になっていたことが多かったと気づかされました。
 今、私たちの教会では特に祈祷会にて、多くの兄姉がとりなしの祈りを捧げています。直接に携わっていないことであっても、「教会の祈祷課題」として、主が必ず結実を与えてくださることを信じ、その祈りの手を上げ続けておられる兄姉の姿に私も学ばされています。なお私も主が未来に対して良き道を備えてくださることを信じつつ、祈り手として遜って歩んでいきたく思っております。

(仙台聖泉キリスト教会会員)