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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-156 —
   -- 2024年5月 開催 --

山本 咲


列王記Ⅱ 4章

 列王記Ⅱにはエリシャの物語が多く書かれている。今日読んだところには4つの出来事が書かれている。油のツボから油がわき出たこと、シュネムの女との関係の中で起こってくる一連の出来事、毒の入ったかまから悪いものがなくなったこと。給食を行った際に多くの人が満たされたことである。エリシャもエリヤの後を継ぎ、北王国イスラエルという地で預言者として豊かに働きをなした。この二人は同じ預言者という働きをなしているが、その働き方は大きく異なる。時代背景が違うということもあるが、エリヤの時代はアハブ王と異端の神に対して戦い、神の御業を表すということが主な働きであったため、そのような姿が聖書に述べられている。対して、エリシャは王との関りよりも、庶民と呼ばれるような人々との関りが多く述べられている。またそこには預言者のともがらと呼ばれる神の人とそば近くあった者たちの姿や、イスラエルの神を信じるということを通して、神の人であるエリシャの近くに生きようとした人物もいた。またシュネムの女のように霊的な感性を通してエリシャが特別な人物であると見抜き、自らの家にエリシャが泊まれるような設備を整えることでそのつながりを大切にした者たちもいた。様々な形でその時代に神の御業がなされていく。シュネムの女は裕福であったことが描かれているが、そこには不足があった。すべてが満たされてなにも問題ないように見えやすい彼女だったが、与えられた子どもの死を通して、絶望を味わうことになる。私たちは神を信じることを通して、神の特別な計らいと守り、恵みを期待する。それ自体は悪いことではない。この章の初めに書かれた預言者のともがらが死んでしまい、子どもたちが借金のためにとられそうになっていることなど、神を信じたからと言ってすべてのことが完全に良い状況へとなっているわけではない。このような出来事は私たちのそば近くにあることなのだ。ただ、そこから私たちがどのように受け入れて、対処していくかが大切なのである。彼らは起こってくる事柄に信仰をもって挑んでいった。それが実を結んでいくのである。もちろんこの章のようにすべての物事が大逆転によって良い方へ行くとは限らない。それでも、信仰生活の中でこのような事柄を通して、私たちは神の御業を見させていくことができ、神がどのように私たちをお扱いになるかを知ることができるのである。何度も語るように、私たちは自分の信仰生活が安定の中にあることを当然であるように思ったり、それを求め、期待してしまったりする。しかし、それは神を信じるということの上で、偏った考え方であると言わざるを得ない。やはり聖書が示すようにどのような中にあっても神を信じ、導きを求めていくことや、神が何をなさるかを探り、見ていく必要があるのだ。
預言者のともがらの妻がエリシャに訴えているところが描かれている。預言者のともがらであれば、祝福されていることを私たちは思い描く。しかし、ここでは、借財もあった様子が語られている。神の語られる一つ一つのことを守り行うならば、私たちは自らを整えていくことができる。だからこそ、それによる世の中にあっての様々な状況を乗り越えていくことができるのである。借財がある理由を細かく探ることは聖言の真意から外れている。ただ、そのような状況になることや、重ねて借金をそのままに死ななければならなかった事実があることは確かである。ただ、ここから見ていく必要があるのは、その妻が「ご存じのようにあなたのしもべは、主を恐れておりました」と証しするだけのものをもっているということだ。主を恐れていたにもかかわらずこのような結果になったのはなぜなのか、夫が悪かったのか、いやそうではないだろう。なぜなら彼にはその信仰を証しする妻の存在がある。彼が真実に生きていなければ、このようなことは起こりえない。ではなぜこのようなことが起こるのか、それは盲目に生まれついたものの話と同じように、神の御力があらわされる必要があったのだ。この油を注ぐ作業の中に二人の子どももこの出来事を見ていた。それで十分に子どもたちは父親の信仰が本物であり、それに応えてくださる神の御力を見ることができたのである。この出来事ののち妻は器にいっぱいになった油をどうすべきかエリシャに尋ねにいっている。エリシャに聞かなくてもよいと思われるような、見て分かる出来事だった。しかし、彼女は勝手に売ってそれをお金に換えるのではなく、一度エリシャにすべての事を告げ、どうするべきかと預言者を通した神の采配を受けてことを進めているのだ。それは神の権威の前に従順に歩む者たちの姿なのである。これによってこの出来事はまさしく神の御力を表すものとなった。ただ、神は御力を表すためにご自分ですべてを動かされたのではない。そこには、確かに神を信じるものを介しておられるのである。だからこそ、私たちは神の御業を最後まで全うしていくために神のご意思を聞き続けていく必要がある。そうでなければ、どこかでその祝福を取り違えてしまうことや、知らず知らずのうちに自らの思いで事を実現させようと動いてしまうこともあるのだ。先日の礼拝でも、ヨシュア記からエリコでの分捕り物は神の前に初穂として聖別される必要があったが、その先のアイの戦いで得たものはイスラエルの民が手にすることができたということが語られていた。分捕り物を手にするのは戦って勝った者たちに与えられる当然の権利であると思われる。しかし、それが神の手が働かれた神の戦いである以上、そこで得られたものには神の許可というものを待つことが必要なのである。それこそ、神への畏れであり、その姿勢が求められているのである。現在は経済を含め、多くのものが与えられ、祝されているからこそ、私たちがどのようにして感謝を表現し、そこに自らを臨ませるかということが重要なのである。

Q:ことが起こってしまう前に気づけない自分の姿を感じます。何か不測の事態が起こって初めて自分の足りなさや、失敗に気づくのです。今回聖書の個所を読んでいて、なぜ、預言者のともがらはそこまで負債を抱えてしまったのかということや、エリシャが奴隷に取ろうとしている人に直接交渉しにいかず、あくまで油を売った金で返済をするということで終えようとしているということが、なぜなのかと気になります。エリシャの背後におられる神を信じ、その一つ一つのステップを踏んでいくことが大切だったととらえてよろしいでしょうか。

A:負債を抱えたのはなぜかということを追求していくと、あなたが初めに語ったように原因追及のような話になってしまう。なぜ、そのような負債を抱える前に気づけなかったのかということに目が行くのだ。逆に立派な人だったからこそ借金を抱えてしまったのだというサブストーリーのようにしてしまえば、今私たちが抱える現実には当てはまらなくなっていってしまう。つまり、私たちには起こらない非現実的なものとして映ってしまうのだ。それではこの聖言が私たちに語ろうとしていることを受け取ることはできない。この聖言は何を語ろうとしているか。それは、私たちにこの「預言者のともがらの家族」のような出来事が起こってきた際にどのように信仰に生きるかということである。悪霊につかれた子どもの母親がイエス・キリストの前に来たときに「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです」と語られた。それに対し、彼女は「主よ。そのとおりです。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と答えることができた。この信仰にイエス・キリストは「あなたの信仰はりっぱです。その願い通りになるように」と言われた。イエス・キリストがあなたの信仰は立派ですと語ったのは百人隊長とこの女性だけである。それが救いに至るために必要なことなのである。このような時に神は差別されるのですねと帰ってしまうということがあってはいけないのである。借金を抱えてしまったという結果はある。それがある額を超えたからこそ子どもが奴隷として取られてしまうというところにまでなろうとしている。しかし、着目するのはそうではなく、その出来事の先に信仰によってどのような決断をするかである。神の恵みや祝福は、信仰によって歩む道の先にある。しかし、人はどうしてもどうやったら失敗しないのか、改善できるのか、ネットを検索するのか、その立ち回りを知ろうとする。しかし、本来歩むべきはそうではなく、神の御業を見させていただこうと、信仰に立つということである。究極の言い方をすると、預言者のともがらが借金をして死ななければならないということが神のみこころだった。しかし、その終わりを前に自分を振り返りながら、彼がどのような思いを持っていたかはわからない。しかし、そこで彼が嘆き悲しみ、神への信仰を失っていたならば妻のこのような言葉につながることはない。そして、子どもたちも決してその道に歩むことはなかっただろう。しかし、彼が最後まで信仰に生きることをやめなかったからこそ、彼の妻はエリシャのもとへその信仰に歩んだ姿を現し、神の御力が働かれることを待つことができたのである。そして彼らが得られたものは何か、子どもたちの信仰である。父親と母親の信仰を受け継ぎ、子どもたちは神を信じ、その道を歩むことができる。それを考えれば、借金もなく、順風満帆のように見えても、子どもが信仰に歩むことはできなかったという状況よりもはるかに良いのである。そのような考え方を私たちが聖書を読んだときに結び付けられるかが大切である。同時に、ほかの個所も取り上げながら、複合的にどのような選択をするべきかをとらえていくことが大切なのである。
先月取り上げたヨラムは結局勝利へと導かれることがなかったという事実が述べられていた。それは、私たちの信仰も事実によってあらわされることが述べられている。事前に失敗しないように気づければよいということよりも大切にするべきは神の国とその義を第一にすることである。そうではなく、失敗を防ごうと奔走するのはまさしく何を食べようか、何を着ようか、ということにつながっているのだ。そしてこのようなことは初めに語ったように誰にでも起こりうるのである。だからこそ、私たちが大切にすべき行動の原点は、神の国とその義を第一に求めることなのだ。そうではなく、自分のことを大切にする、つまりはどうやって人々の賞賛を得ようか、成功者になっていこうかということに目が留まってしまうのである。だからこそ、私たちが今日の個所から取り上げるべきは、大切な状況でどのように信仰によってことを動かしていくかということである。

Q:今日取り上げられたところの8節を読んで気づかされたのですが、シュネムの女は最初からエリシャのことを神の人だと気付いたのではなく、関わっていくうちにそのことを知っていったと思わせられました。なぜ、シュネムの女はエリシャと出会ったときに関わろうとしたのでしょうか。

A:当時は情報やコミュニケーションは人間が持ってくるものだった。テレビもラジオも携帯もない時代である。その中では新しい情報はそこを通りかかる人が持ってくるのである。老牧師は食事に呼んだ人とのお話を大切にしていたが、同じように彼らも食事の際に会話をすることで情報を得ていたのである。
アブラハムが3人の人を引き留め食事をしたことも含め、そのようなことが当時は大切だったのである。また、ラハブがイスラエルの情報を持っていたのも、彼女が遊女であるゆえに多くの人と関わる機会があり、それらの人たちから情報を得ていた故だったのだ。現在は多くの情報を手にすることができるようになった。もちろんそれは逆に情報があふれているゆえにその内容を精査するということが大切になっているが、この時代は特に情報を動かすことに価値が上がっているのだ。戦争の時に情報がすべてを左右していた。その情報ひとつで戦況が大きく変化するからである。情報戦という言葉があるように、情報によっては人の考えを左右することができるほどの力があるのだ。だからこそ、彼らも旅人たちをもてなすとともに、そこから様々な情報を得ていたのである。少し飛躍するようだが、私たち信仰者は霊を通して神とのコミュニケーションをとることができる。それによって私たちは物事を信仰とともに動かしていくことができるのである。それは一見他者には意味のないような行動であり、むしろ無駄なものに捉えられるかもしれない。しかし、霊を通して神とのコミュニケーションが図れる私たちは他者にはできない行動ができ、それによってことをなせるのである。だからこそ、関心をもって情報の駆け引きや取引ができるかということも重要なのである。だからこそ、シュネムの女がエリシャに特別な感覚を持ったということは神の導きだったのである。
シュネムの女は、イエス・キリストが来られたということを聞いて「ダビデの子イエス様私を救い出してください」と叫び続けた者と合わせて考えることができる。彼女は子どもを与えられ、心から喜んだ。しかし、その愛する子を失い、絶望を味わうことになる。そしてその悲しさのあまり「私は子どもを望んだでしょうか」と語るまでになっている。彼女は裕福だったがゆえにそこにある程度の満足感を得ていた。しかし、どうしても埋められない何かを持っていたのだ。そして、その中で懸命に生きていた。もちろんエリシャを通し、神によって子どもが与えられるということまで考えていたわけではないだろうが、それでもエリシャと関わる中で彼になにか特別なものを感じ、だからこそ、彼が来た時にはその身をゆだねられるようにと部屋まで用意したのである。それを行えるだけの裕福さが彼女にはあった。そして、それを実行するだけの信仰と知恵があったのだ。そのようなものに基づいて動いているからこそ、彼女はエリシャとの距離感を心得ていた。神の人とそれを信じて教えを得ようとする一人の女性という距離感を取っている。直接顔を合わせて話すのではなく、ゲハジを通してことを進めているすがたが描かれているのだ。聖書がこのあたりを詳しく描く理由を見逃してはならない。彼女がエリシャにこのような対応をするのはまさしく神を畏れ、信仰によってことをなしているということの表れなのだ。
シュネムの女の夫の姿を見ると、彼がいかに無関心だったかがわかる。体調が悪い子どもを僕に預けている姿や、彼女がエリシャのもとに行こうとしているところをみて、なんで行くんだ?というような勘の悪さがある。彼は子どもが死んだことすら気づけていないのだ。この勘の悪さというか、疎いということで得られない情報があるのだ。情報の中には直接話すだけでなく、その人の所作や空気感によって得られるものが多くある。それを見逃してしまうと、重要なことを取り逃すということにつながるのである。しかし、それは何から起こってくるのか。無関心である。愛は相手への関心を引き起こす。愛が希薄化することで重要なことを見逃してしまうのである。それによって夫婦ですらコミュニケーションを取れずに、結果お互いを認められない、愛せないということが起こってくる。だからこそ、愛をもって関わり合い、互いを心から尊敬できる関係を築き上げる必要があるのだ。
夫婦の片方が勝手に生き始めると得られる情報は著しく落ち、結果、効率も悪くなりどんどんと祝福から遠ざかっていく。もちろんそれは夫婦だけの問題ではない。誰が私たちの前に神の人としてくるかはわからない。自分の周りの人々に自らの心をオープンにして、期待をもって生きているかが大切である。靴屋のマルチンという絵本があるが、どのような時に神が私たちのもとに来るかはわからないのだ。だからこそ相手に対し、どのように遜っていくかが重要であった。シュネムの女はその様に、エリシャを神の人としてもてなすことを通して、神への信仰を表し続けた。それによってあきらめていた息子を得ることができたのである。

Q:シュネムの女のところを読んで、最初理解できなかったのは、自分の心の内を明かしていないのに物事が彼女の望んでいるように動いていくことでした。彼女は子どもが与えられることを願っていたけれども、13節では「私は私の民の中で、しあわせに暮らしております。」と答えています。この言葉はへりくだったからこそ出た言葉だったのでしょうか。

A:シュネムの女の言葉に込められた状況、それはいわゆる互いの交わりが保たれた状態、つまり私たちが教会の中で幸せに生きているということと同じような状況であった。そして、彼女自身はそれで一面満足していた。彼女の心からの言葉だった。決して見返りが欲しいからエリシャを迎えているのではないということの表れでもあった。それを聞いたエリシャはそこで「そうか」と話を終わらせることもできた。しかし、そうはせず、ゲハジにシュネムの女が何を求めているのかと尋ねている。そして子どものことを聞くと神に祈るとか、訪ね求めるということなく、「来年の今頃あなたには子どもが与えられている」ということを告げている。ここに神とエリシャの関係が描き出されている。彼は彼女に何かをしたいという思いを持っていた。それは、彼自身がシュネムの女とのかかわりの中で、彼女の欲求を聞くようにと神から促されているように感じていたからである。そして、その願いを神に祈り、このことがなった時、彼は願いを聞き入れてくださった神への感謝と同時に、彼女の願いをかなえられた喜び、そして神の御心に沿った願いを自らが持つことができたのだという思いを抱いただろう。ただ、それだけで終わらなかった。この子どもは一度取られることになる。エリシャは彼女がその足元に縋ってきたときに何も知らされていなかった。そこでエリシャも、神が何をなさろうとしているのか、自分は何をするべきなのかということを考え続けている。この一連の出来事によってシュネムの女だけではなく、エリシャもまた、神や人との交わりを通して成長が与えられているのである。
説教者は忙しいという言葉で日々の営みを簡単にコントロールしてしまうと神からの影響を受けることができない。会堂と書斎のみに行動範囲を狭めてしまえば、交わりの範囲も狭まり、その力を働かせるところが無くなってしまうのだ。 先日、急遽日曜日の夕方にバスケットをしようと何人かで集まり交わりを持った。もともとは私の食卓で昼食をとったある兄弟が3人で夕方にバスケットをやる予定だと聞いた際に、若い先生方もやりたいと言っていた言葉をきいて、私が急遽ほかにやりたい人はいないかと募ったのである。別にほかの人に声をかけなくてもよかったが、あえて私はそれを企画した。それは、そこで得られる交わりを考えたからであった。結果として、予想よりも多くの人が集まり、子どもたちも楽しんでよき時間が持てた。そのような交わりの時間を大切にしていく必要がある。そこに神の御旨はあり、そこに神の息吹に触れる人々が与えられるのである。

Q:聖書日課をしていて、レビ記、民数記で毎回行き詰まってしまいます。私はどうしても読んでいる箇所を理解しようと儀式の情景を想像してしまうのですが、それで時には情景を思い描きすぎて、気持ち悪くなってしまうこともあります。母は難しいところはまず字面を追いかけるだけでも良いのではというのですが、どうしたらよいのでしょうか。

A:民数記は民を数えて、そこに色々なことが結びついていく。レビ記は福音書と結び付けて考えていくとよい。イエス・キリストは十戒を無きものにしてよいとは言っていない。むしろ、十戒の本当の意味を捉え実行していくことが望まれている。聖書日課に関して、究極的に言うとあとはあなたの性分をどうしていくかが大切だと考える。究極的な言い方だが、聖書日課は無理に読まなくても私は良いと思う。もちろん開き直ってしまってもよくない。聖書日課が先ほど取り上げたようにただ、こなすものになっていたり、あなたの欲求を満たすものになっているのなら、それは、先ほど述べた、食べるもの、着るものに悩むのと同じである。聖書日課が神の国とその義へとつながらないなら、それは必要のないものになってしまう。ではなぜ聖書日課を読むのか。そこに神がおられ、そこで神の言葉と出会い、交わりを持つことによって信仰を強めたり、信仰生活をどのように歩むべきかと考えていったりするのである。そのようなことを通して、神の近くに在ろうとするためである。物事をなす中で「こうあるべきだ」ということを守って生きている人にとってそれを破るということは難しい。なぜならその人の固定概念を壊すほどの価値を逆の状況に見出していかなければならないからである。私はそのようなことを注意していかなければいけないと思う。なぜならそのような安定材料を持っているうちは、安心できる。満足できてしまう。それによって自分で自分の安心を得ているのだ。貯金通帳の額面を見て満足するように私はこれくらい聖書日課をきちんとやっていますと言っているようでは本来必要な形でなされていない。必要なのは、それを行う理由がどこにあるのかということである。意味が分からず読めないなら、流し読みしたって良い。あなたが意味を理解して読むということにこだわっているそのこだわりが本当に必要なものなのか、あなたの気質的なものによるものなのかも考えてみる必要がある。それでただ、あなたの気質的なものによるなら、それにこだわる理由はないのだ。そうでなければそれはただの自己満足で終わることになる。
霊的な営みは個人の大切なものであり、自分自身が御旨と共に整えられていくことができる大切な時である。神が語ってくださる言葉を聞き逃してしまわないために、悩んで迷うよりも神の前に心を自由にし解放すべきである。

Q:伝道者の書11章1、2節のところでなぜ私の受ける分を「7人か、8人に分けておけ」ということになるのでしょうか。2、3人ではなく、4、5人ではなくさらに多いというところで印象的に多いと感じました。

A:確かに多いと感じるかもしれない。ただ、信頼を置き、互いに尊重しあえる人物をその程度の人数身近に置いておくと、何かが起こってきたときに道が開けていくのである。それは信仰の有無にかかわるかどうかというところを考えてしまうかもしれないが、それだけでなく、不思議な距離感と相手との関係の中でことが進められていくということが起こってくるのだ。ただ、そこに信仰が関わっていないとは考えない方がよい。私たちの行動の背後にはやはり神への信仰があり、そこから生まれてくる関係性があるのだ。
私はスポーツジムに通い多くの人と関りを持っている。私の関わっている人は世の中的に成功者が多い。その中にあって私は牧師として少し違った立場だが、彼らは私を邪険にすることなく、むしろ、尊敬し、尊重しあう相手として関わっている。彼らは色々な逸話を語ってくれる。そこで面白い話をきくこともある。先日は天皇が崩御した際の話を聞いた。天皇が崩御した際には「旗竿の先にある竿球を黒布で覆い、旗竿の上部に黒布を付けるものとする」という国旗掲揚の方法がある。当時、どのように竿球を布で覆うかという話になった際に、話をしてくれた彼は、部下に黒のストッキングを買いに行かせ、それを5、6重にして黒くしたそうだ。そして、その方法は今もその部下に受け継がれ、部下が上に立つようになった時、そのまた部下に同じように黒のストッキングを買いに行かせたらしい。その人は引退したもののいまだにその部下に信頼されている。そして、私はそのつてを使って、教会内の兄弟とその方との間に仕事面でつながりを持つようなことも起こってきた。不思議なようだが、それは私たちに与えられた神の祝福であると思う。私たちの恵みはただ、その場にあって終わらせてしまうのではなく、豊かに分け与えるべきである。それが多くの人とのつながりを作り、さらに、つながりを増し加えさせるものになる。そしてそれは神により豊かな祝福を産むものとなっていくのである。主イエスの福音は勿論、十字架の救いであるがそこに結びつくきっかけはどこにあるかわからないのである。遜って福音に生きようとする日常の全てに神の不思議な祝福が導かれているのである。
今月もよき学びの時がもたれましたことを感謝し、なお歩み続けていきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)