同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 幸せな入院生活 —


 「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」 (ヨハネ 8:1-6)

 昨年、2023年9月28日に自宅の玄関前で転び、額と右手の甲を打ちました。全身手首までは動くのですが、右手が動かなくなり力が入りませんでした。また自分で立って歩けませんでした。
救急車で運ばれ、12月25日まで入院しました。首はもとより全身どこも痛くはないのですが、医者の判断は頸椎損傷ということで首を固定しベッドも60度以上立てないようにという指示でした。そして、寝たきりの入院生活がはじまりました。
入院直前まで、長い間医者にかかったことのない生活をしていたのに、突然寝たきりになりましたが、気落ちせず、感謝に溢れる思いをもって過ごしました。
 入院中、家族や教会の先生方をはじめ教会員の皆さんの助けと心遣いをいただきました。また病院の看護師さんたちと手伝いのスタッフたち、リハビリの理学療法士の方々、大変よく扱ってくださいました。皆さんにやってもらうことひとつひとつが感謝の対象になりました。それで「ありがとうございました。」が口から絶えませんでした。このように感謝すべきことがたくさんあるのに自分の不足に思いがいって気落ちし、感謝できないのが世の常でしょう。
 三浦綾子読書会で、信者でない参加者の皆さんに「必要」を自覚してもらう手段として、「幸せ」について話を持ち出してみました。しかし、これは大変難しいテーマであることを自分で理解しただけで、インパクトを与えることはできませんでした。今回の入院で、「幸せ」は「感謝」と結びついていることを理解しました。感謝のゆえに幸せな入院生活をすることを許されました。
 入院したとき「聖潔」が心にあるというすっきりした思いがありました。
私が潔めの恵みに与ったのは25歳の時で、もう50年以上、もう3年で60年になりますが、その時以来今にいたるまでいつも「キリストの平和」(コロサイ 3:15)、「イエスの平安」(ヨハネ 14:27)が心にあり、いらいらするということはありませんでしたが、今回「聖潔」の要素として「感謝」というもう一つの切り口を与えていただきました。
聖潔の要素には「愛」が筆頭にでてきます。それは自分が働く側にいますが、感謝は自分が受ける側にいることが多いでしょう。