同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(42) —

野澤 睦雄


「神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。」(ヨハネ 9:31)

3.聖書が示す人間観・・・救いの必要、救いの内容を考察する基礎

 <祈り>
 冒頭のみことばは、前回も取りあげた、イエスに言われてシロアムの池に優希、目を洗って見えるようになった生まれつきの盲目の人の主張です。聖書はその主張を正しいとしています。
 ここにこういう人の祈りは聞かれないと言うことがあります。どういういのりは聞かれないと聖書に書かれていることを拾い上げてみましょう。

「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」(詩篇66:18)
このみことばは、文語訳聖書では「わが心に知れる不義あらば、主われにききたまふまじ。」となっています。
 自分の内に自分が知っている罪があるのに、それを悔い改めて捨てないでいる、あるいは積極的にそれを求めたり、楽しんだりしている、そういう人の祈りはきかれないということです。たとえ「イエス・キリストの御名によって祈ります。」と口で唱えても、神は「あなたを知らない」と言われるでしょう。

「耳をそむけておしえを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる。」(箴言 28:9)
このみことばも文語訳聖書では「おしえ」は「律法」と訳されています。
神の戒め、律法を守らないひとの祈りは聞かれないのです。旧約のことで、新約にいきる私たちのことではないと思いませんように。イエス・キリストは最後の晩餐の席で、「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ 13:34)と言われました。
この戒めを守らない人の祈りは聞いていただけません。

「寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶときに答えられない。」(箴言21:13)文語訳では、「耳を覆ひて貧者の呼ぶ声を聞かざる者はおのれ自ら呼ぶときもまた聞かれざるべし。」
ヨハネは言います。「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。」
 兄弟の貧困を知りながら、「反対側を通っていく」人の祈りは聞かれないのです。
祈りは救われた人に与えられている特権ですが、それを聞き届けていただくためにはこれまで述べてきたような条件があります。

(仙台聖泉キリスト教会員)