JSF&OBの部屋
~ 「キリスト者の一致(5)」 ~キリストのからだ~
石井 和幸
『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです』(コリントⅠ 12:27)
今回は章の締め括り部分である一部を引用します。
『さらに、コリント人への手紙第一の12章で、使徒が言っているもう一つのことを忘れないようにしよう。すなわち、この本質的な一体性のゆえに、もし、一人の人が傷つくなら、すべての人がそれによって傷つくということである。「小指の具合が悪いだけ」と言うわけにはいかない。そうではない。小指の具合が悪ければ、あなたも具合が悪いのである。もし、そこに痛みがあれば、あなたも痛みを感じる。小指とあなた自身とを分離させることはできない。からだの一体性のゆえに、同じ血がすべての部分に流れている。このいのちの力が、からだ全体を生かしている。したがって、一人の人が傷つけば、そのことですべての人が傷つく。一人がほめられれば、すべての人がそのことを誇りとする。もし、正しく教会についての教理を理解していれば、競争心や敵がい心、自己満足や自己偏重というような思いは、全く起らないだろうし、実際それは愚かな考えである。このような思いを実際抱いているなら、自分たちが教会についての教理を理解してなかったことがはっきりしているにすぎない。そのような過ちを避けるには、教理を明確にすることである。』
・・・この文は、私に対する神からの強烈な語りかけとなっています。私自身、夫婦関係において、また家庭において、隣人の痛みを「自分の痛み」としているだろうか?
『そこで、目が手に向かって「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」ということもできません』(コリントⅠ 12:21)
私は、家庭のなかで痛みが生じているのに「見て見ぬふり」「自分は管轄外」という態度をとっている場面がありました。
『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに喜んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。』(Ⅰコリ12:22~25)
私は、家庭内で生じる諸問題に対し、ときに自分を棚に上げて隣人を責めることが多々ありました。自分では、「責めている」という自覚が正直あまり感じませんでした。けれども、年末年始の期間中神はいくつかの出来事を通して私に、隣人を愛することの足りなさを示されました。また今回の学びを通して、私自身数年前まで「どうして教会は自分を認めてくれないのだろう」という思いを抱いていたことを思い起こしました。ロイドジョンズは「過ちを避けるには、教理を明確にすること」と記していますが、私は講壇から語られるメッセージに生きているだろうか?牧会に本当の意味で寄り添い、従っているだろうか?という促しを覚えました。
『さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなた方は、その召しにふさわしく歩みなさい。』(エペソ4:1)
私は、「あなたは自分のなすべきこと、十字架を担い続けているのか?分かっていながら逃げていないだろうか?」という聖霊の語りかけに向き合い、神がともに戦い、道を備えてくださることを信じながら、小さき者でありますがキリストの体なる教会の器官として、愛をもって隣人に寄り添う者とさせていただきたく願っております。
(仙台聖泉キリスト教会 会員)