同労者

キリスト教—信徒の志す—

― Q&Aルーム ―

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-164 —
   -- 2025年1月 開催 --

山本 咲


列王記Ⅱ 12章

 エホヤダという祭司のもとに助けられた一連の事件、ユダの王族に起こった災いについて述べられている。祭司エホヤダはアタルヤから隠していた7歳の幼子を王として立て、その裁きを行った。これによって新しい時代がやってきたところである。ヨアシュは7歳という若さで王になり、40年の間その地を治めた。もちろん7歳という若さであったため、そのような長きにわたることとなった。ヨアシュ王については歴代誌Ⅱ24章を読むともっと詳しく書いてある。歴代誌は北王国イスラエルの王についてはほとんど書かれていない。エルサレムが滅ぼされて、バビロン捕囚から帰ってきた際に読まれた書物であるため、礼拝の方法や歴史が中心に書かれているのだ。だからこそ、北王国イスラエルのことは多く書かれていない。ユダ王国はダビデの子孫であることや、エルサレムの神殿とともに礼拝が守られるかどうかという問題を取り上げる際に重要な視点となった。またここにアタルヤの破滅的な行為が記されているのだ。だからこそ、歴代誌を読んでから列王記を読むと、そこに省かれている事柄がある。列王記に登場する王たちの歴史やそのからみ、その時の状況によって書かれているため、反面、書かれていない情報も多い。今日のところも情報が足らない状態で読むと何が起こっているのかが良くわからない。聖書は時に他のところと合わせて読むと、当時の状況をより詳しく知ることができる場合もある。もちろん聖書の全てにおいて整合性を取らなければならないということではない。このところを読み、その中で導かれたものを受け取っていくということにおいては情報が足らないから不十分なわけではない。その時々に必要なことが聖霊を通して語られる。聖書の横のつながりもまた、カバーし合い補われているのだ。現在は参考書などを通して結びつけることもある。今日のところは歴代誌を読んだ方が分かりやすいとこはあるが、このところで開かれた列王記では祭司エホヤダが生きている間は王としてヨアシュも責任を果たせた。しかし、彼が死ぬとその行動は神の御心から外れていくものとなったのである。決して彼は「エホヤダが死んだらこうしてやる」という思いはなかっただろうと考えられる。けれども、祭司エホヤダという人物と神を畏れて生きるかということを学び、エホヤダがいなくなった後も自分がどのように治めていくかという備えを行っていく必要があったのだ。人間が注意深くそのようなことを覚えてそこに神を見出しながら、神を畏れていく緊張感を信仰生活において持ち続ける必要があるのだ。私たちは量の信仰ではなく、良質な信仰を持つ必要がある。それはどういう意味か。例えば集会出席、献金額、奉仕量など目に見えるような基準を設け、このくらいしているからいいだろうと自分が合格点を越えたかのような思いを持つことを量的信仰と考えている。本来それらによって信仰が図られるものではない。この程度はいいでしょうと思うことには引き合いに出すだけの材料、他者の行いとの比較がある。しかし、良質な信仰とは神と私との関係の中で真実に歩み、罪や、不足を覚えるところはあるが、それもまた受け入れたうえで悔い改めや、訓練の中を歩ませていただき、改善へと至ることにある。どこまでも主に喜ばれることを望み、反対に悲しまれることを避ける姿勢と意志が重要なのである。ヨアシュはエホヤダという基準があったからこそ、良し悪しを計り生きることができた。しかし、その基準のみ生きていたからこそ、エホヤダが亡くなると曖昧な信仰になってしまったのである。この月一回の聖書を学ぶ会という集会はともすると優先順位としては他の集いより低めに考えられてしまいがちである。礼拝、祈祷会への参加が毎週行われる中で、聖書を学ぶ会は月一回火曜日とは決められているが、何週目かは決まっていない。気を抜くと忘れてしまうということも起こりそうなものである。しかし、多くの方がこのところに集い、その席をしめていることを心から感謝する。
ヨアシュという王はエホヤダがいなくなると、謀反の中で家来に殺される結末へと至る。そしてエホヤダは王の墓に葬られることとなったがヨアシュは王の墓に入ることを許されなかった。信仰者として私たち自身が本当に何を大切にするべきかを意識していく必要がある。環境や状況に左右されて行っているような身につかない信仰は綻びを生み出し、大切なものを手元からこぼしてしまうことにつながるのである。

Q:今日の8節のところで、お金を受け取らないことと、責任を担わないことに同意したと書かれていますが、その後はどうなったのですか。

A:ヨシャパテ後の時代に異邦の宗教によって神殿は荒らされ蔑ろにされた。そういう意味でも修復が必要であり、それに携わるのは祭司であるレビ人の役目だった。レビ人の生活はささげられるもので成り立っていたために、ここにきて急に修繕費用といわれてもその必要を賄うことができなかった。注解書や参考書に多く取り上げられているのは、レビ人たちが自らの生活を切り詰めてまで修繕に回すということはなかったのだ。そのことを聞いたエホヤダは献金箱を設置した。それによって民はいわゆる定期の献金以外に自由献金という形でその献金箱に納めるようになった。そこに納められたものは神殿の修繕を目的としているということも大きかっただろう。そして、それらは正しく仕事をする者たちの手に渡り、ことが行われていったのである。誰が良いとか誰が悪いとかそのようなことではなく、荒れた困難な時代のすぐ後でささげるということを行ったということが書いてあるのだ。しかし歴代誌を見ると、つかさたちがやってきて、ヨアシュを誘惑する出来事が書かれている。彼らは彼らでエホヤダに抑圧されていたことの解放を求めたのだ。そしてヨアシュはそれに乗っかった。結局のところ彼自身が信仰を確立していなかったゆえに、王としての立場をもてはやされるとそちらに傾いていってしまったのだ。時代や先導者の移り変わりの中で自分に都合の良いように、物事を出し入れして過ごしていた人々もいた。そのようなもの達がアタルヤの時代は優雅に過ごし、エホヤダの時には隠れてやり過ごし、そしてまた自分たちにとって都合がよい時になることを期待して、うまくことを動かそうとしたのである。これは世の常としてあることだ。だからこそ、召された王としてイスラエルの王族を継承していくことを考え、どのように信仰に生きるのかということに取り組んでいかなければならなかった。しかし、エホヤダに依存し続けたゆえに彼には一面無知や幼さ、自分中心さが抜けきらなかった。そして、次の時代が来て、エホヤダとは反対側の勢力が増してきたときにそちらに持っていかれてしまったのだ。その結果、アラムが攻めてきた際に神にささげられたはずのものである金銀を宝物蔵から取って貢ぐという対応を行ってしまったのだ。またエホヤダの子どもを殺すということも起こってくる。エホヤダも導ききれなかったという事実があるが7歳の少年を王として立て上げ、そのことを長く支え続けてきたことを考えれば十分ともいえる。神への畏れや信仰は最後にはその本人と神の間にのみ成立していくことがらである。

Q:創世記のカインとアベルについての記述を読みながら考えさせられたところがあります。アベルのように最善で最高のものを捧げるにはどのようにすればよいのでしょうか。

A:聖書は事例としてあげている。そしてこのところは最初の殺人につながった部分である。イエス・キリストは相手に直接していなくても、そう心に思った時点で罪であるということを述べている。だからこそ、私たちがそれをどのように聖別し、神の目が注がれていることを自覚して生きるかが重要である。これらのことの結果が神のアベルへの賞賛であり、カインが殺人を犯すということにつながることとなった。日々の中で私たちは誰かと比較し、自己嫌悪や優越性を抱くなど様々なことを行っている。だからこそ、霊的なことをおろそかにしているとこのようなことが私たちを取り巻き始め、罪を犯させようとする。だからこそ、私たちが努力をして自らを整えていく必要がある。カインはその結果を前に怒りを燃やすのではなく、何が悪かったのかと問題を見つめ直すことや、神に悔い改めていく心を持つことが重要だったのである。
最終的に神は憐れみの神であり、悔い改めを求めておられる。また、そのことによって生きることができたならそれは大切なものである。罪をごまかしたり、開き直ったり、放置したりということをしてはならない。神が私たちを創り、生かすために示し続けているそのご意志に従っていくのか、いかないのかそれが大きな分かれ目になるのである。殺人は怖いことだが、神はその罪すらも悔い改めるならば赦しを与えてくださることを私たちは理解しなければならない。神はそのことを心から喜んでくださるのである。それができないであたかも潔いように、「私はこの罪のゆえに滅びます」などと丁寧に言っても結局神に喜ばれることではなく、神から失われるものとなり滅びへと向かうのである。私たちはクリスチャンであり、信仰や神の存在、救いを知っている。しかし最終的にどの道程を選び、どこに行くのかというのはその時々に問われている。イエス・キリストの十字架は私たちの贖罪を果たすに十分であるが、私たちの方が赦しを求めなければ成立しない。だからこそ、いかにそこに自らを臨ませていけるかが重要になる。ただ、私たちと隣人の間には加害者、被害者という関係も含めなければならないが、罪を犯したことの悔い改めをする際にまず、神との関係を正しく行っていくことが必要なのだ。そのことを通して隣人との関係もまた神が担保してくださるものとなる。私たちはいのちの道を選び続けられるだろうか。それは、神との豊かな関係の中で築かれ続けるものになるのである。
また7節の最後のところに「罪は戸口のところで待ち伏せして・・あなたはそれを治めるべきである」と書かれている。自分の意思、行動、そのようなものを抑えていくべきことを知らなければならないのである。私たちはそれらの意思を支配していくことを求められている。しかし、人はそのようなものにいざなわれ、自分を勝手に許してしまうものになる。これは人に対する神からの大切なメッセージなのである。それを治められるようになるべきだと警鐘が鳴らされているのだ。私たちは治められない自分を十分に吟味し、その弱さを畏れていかなければならない。それを無視し蔑ろにしていると、いつの間にか知らず知らずのうちに罪に陥るものになってしまう。そして、そのようなものは私たちのそばにある。だからこそ緊張感を持って生きているからこそ、実際に入ってきたときに正しく対峙することができる。また悔い改めには手遅れや、いまさらということはない。神はどんな時でも私たちの心に示し続け、教えてくださるのである。だからこそ私はある人にとってはそんなことと思われるような悔い改めであっても、聞き、その中でもう一度共に取り組んでいく。たとえ罪を犯してしまった時も、「申し訳ありません」ということを繰り返し、自分の人生を歩んでいくことこそ本当に大切なことなのだと促し続ける。そのように悔い改めることを通して、神との関係を良好にしていくことが、聖書が伝える神の御心である。

Q:いまの話にも通じる部分ですが、「神がともにおられるのになぜ嘆き続けるのか」と語られたときがありました。自分に対してがっかりするときがあり、そこに神がともにおられるということを覚えていながらも、どうしようもないという思いに駆られました。どのようにして、考えていけばよいでしょうか。

A:嘆きながら、恥じていたり、色々な思いに駆られたりしている。しかし、それは多く対人への思いである。その思いが、相対する神への思いになると全く違うものになる。もちろん対人への思いを全く無くして良いというわけではないが、神への思いは吟味し、精査されたものでなければならない。大きな畏れをもってその罪への問題を考えていかなければならないのだ。お風呂につかりながらその日の疲れを流すように、「あーあの人にしてしまったのは問題だったな」と思っているようでは意味がない。それならば、礼拝に集ったときに悔い改めるか、きちんと牧師のもとへ行って悔い改めるということを行う必要がある。神に対するものと人に対する対応が同じであってはならない。イエス・キリストの苦悩、贖罪というものを考えるならば、全てが何でもよいというものであってはならないのだ。それらしく教会に行って信仰生活をしているが本当に神を畏れて生きているのかはよく吟味していかなければならない。恥じているのは世の人も同じだ。明日どのように生きようかと思いながら、結局自分勝手に生きているのである。だからこそ私たちにとって罪の問題と神に対する姿勢が重要なのである。

Q:マタイの福音書12章7節のところに「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。」と語られています。あわれみといけにえの意味をこの世に在ってどのようにとらえていけばよいでしょうか。

A:イエス・キリストご自身があわれみとし、犠牲、いけにえとしてきてくださったという意味合いが込められている。だからこそそれをどのように私たちのものとしていくかが重要である。イエス・キリストが何者であるか。人と相手を比べて、その良し悪しでは贖罪にはならない。どこまで行っても悔い改めて、神の前に立ちかえるかどうかということが重要なのだ。逆に相手の罪を知り、それと自分を比べて、私の罪は軽いというように思うことが命取りとなる。私たちは情報を互いに共有するためにその人の罪について語ることはある。しかし、それが悪口や陰口にはならない。それは、相手の救いを願ったり、時にはその罪を指摘したり、悔い改めに導けるようにするために語り合っているからである。もちろんそこには一面さんざん言ったのに治らないということも出てくる。話が色々なところに移っているが、イエス・キリストの真意ははじめに述べたが、あわれみということに尽きるのである。あわれみという言葉はキリスト教徒にとっては良いものだが、世の中においてはあわれんでほしくないという思いも出てくる。私たちが福音に携わるときには愛とあわれみが必要なのである。あわれみは私たちの生活の中で十分にいつくしんで行われるものである。私たちはそのような心を大切にしていく必要がある。あなたの年齢になると周りの心が透けて見えるだろう。しかし、そのような状況でも、相手のためにあえてしていくということが重要なのである。私は今なぜそれができるようになったかと思うが、それは今までそれらを丁寧にやってきたからだと思う。この年齢になって急にやるということはなかなか難しい。だからこそ、若い人たちにもなお取り組むことを教えていっていただきたい。

Q:今日取り上げられたところで3節に「高き所は取りのぞかなかった」ということが述べられていますが他の個所でも同じように述べられています。このところをどのように考えていく必要があるのかと思いました。神が悲しまれることは何かと分析していくことが重要なのかと思ったのですが、それでよろしいでしょうか。

A:ヨアシュ王が高き所を取り除かなかったという問題については確かにその通りである。私たちの教会は少なくともこのようなことを語れるように取り組んできた。それは一面ハードルの高さを感じさせるものとなっている。あなたの旦那さんはあなたとの結婚の際に大いに悩んだ。そして私のところに相談をしにきた。その時に「第二教会に私たちは通うようにします」と語っていた。それは、第一教会のハードルの高さを考え、第二教会にという思いがあったのだろう。しかし、実際は第二教会というところこそ福音宣教の最前線であり、誰かを導くためのところなのだ。第一教会は確かに神を畏れるがゆえに多くのことを追求し、厳しさも抱えている。それは簡単にできることではもちろんない。神の前に真実であることを追求し、互いを厳しくいさめながら出来上がってきた歴史がある。高き所は本来エルサレム神殿で礼拝するべきものを通いやすい近場の特定の所で行うことによって彼らにとって礼拝のハードルを下げる手段とされたものだった。だからこそ簡単に「ではみなさん高き所を取り除きますよ。」「はーい」と決められるものではない。それでも、時間をかけながら取り組んで行くか、諦めて放置するか。一つの信仰の指標として当時の預言者はそれをその時代、召された王の治世の信仰として標榜しているのである。
この聖書を学ぶ会も多くの人が集っているが、それはこの集会を皆さんが慕い求めているからである。神の言葉を聞くこと、日常の問題と照らし合わせながら、神が何を求めておられるかを探っていくことを願っているからだと思われる。大切なものを見極めていく私たち一人ひとりの価値観は常に問われ続けている。なおこのことにも取り組んでほしい。

Q:7歳でヨアシュが王になり40年間納めました。ヨアシュはアタルヤのことをエホヤダから聞いていたと思いますが、そのようなことについてはどう考えていたと思われますか。

A:ヨアシュが7歳の時にクーデターが起こり、アタルヤが殺された。彼はエホヤダの話を聞き、反面教師的に教わっていただろうと思われる。しかし、彼の問題や考え方があり、その自由意志の中で行動したが、それが上手くなされなかった。ここの神殿修復の問題にも、正しく対処はしている。しかし、この反面教師というものは自分にも起こるかもしれないということを考えて用いていかなければならない。私は反面教師で多くのことを学んだ。だからこそ自分が犯した罪を語り、愚かしいところまで行ったこと、憐れみを受けたことを伝えている。しかし、それでも繰り返されることもある。ヨアシュもそうだったのだろう。だからこそ、このような物語は家族でよく話をしていく必要がある。夫婦間での話や子どもとの話など豊かにしていく必要があるのだ。それによって相手の興味関心を探ることもできる。先日家族で旅行に行ったときに私が運転をしていて、眠くならないように娘が隣で話題を振ってくれた。私の興味を持ちそうな話題を探って振ってくる。しかし、そう簡単には私も乗っていかない。すると手を変え品を変えという風に話題を変えてきた。しばらくしてその中で一つ話を膨らませていくことに彼女は成功したが、その話題自体彼女があまり興味を持たなかったのだろう。私の目は覚めたが、彼女の方が眠そうにしていた。そこから私は彼女の興味がそこにないことを知った。そのようにして、人の興味関心がどこにあるのかということを良くリサーチしておくとよい。そうすると大切な情報共有、真理の一致など右から左へ流してしまうのではなく、本当に有効な形で大切な話をすることができるのだ。飛躍するが、そして神を畏れるという大切な真理が信仰と共に継承されていくのである。

Q先ほど話された中で信仰の質を上げるということが語られていましたが、その質が上がっていること、下がっていることはどのようにしてわかるのでしょうか。誰かが指摘してくれるのでしょうか。

A:誰かの評価を基準にしていると結局量的なものになる。もちろん誰かに指摘されて意識するというものもあるが、実際は自分で意志して上を目指し続けるということにある。不意にはっとして出た言葉に偽りがあったり、言うべき言葉ではなかったと思うということがある。自らの霊が時に揺すぶられているのである。意識がそこに集中し何かが求められていることに気付く時がある。当然、神に喜ばれることを目指すことにこそ意味があると示されているのだ。だからこそ神を畏れるということがどのようなことかと考えていくとよい。そこに聖霊の促しと福音の導きが与えられている。誰かに聞かれたときにどのように答えるべきかと考えておく必要がある。人間の質や育ちも関わっていることだが、それ以上に神の語りかけに応える心はイエス・キリストの贖いによって与えられた救いの尊さへの感謝である。それを持ち続けていることが何より大切なのである。

Q:先日礼拝でニコデモのところが取り上げられました。イエス・キリストはニコデモに変革を求められたと思うのですが、それを具体的に教えてください。

A:ニコデモはイエス・キリストに処方箋をもらって薬を飲むように、主からのアプローチで自分の身に変化が起こると思っていた。しかし、イエス・キリストは生まれ変わることの必要性を示された。彼はエリート中のエリートと呼ばれるほどの人だったがしかし、彼の中に永遠のいのちへの確信はなかったのだ。だからこそ、夜中にこっそりとイエス・キリストのもとへ行ったのである。彼は隠れてことを行ったのだ。本当に永遠のいのちを得るためには彼は変わる必要があった。イエス・キリストを贖い主と信じてその弟子として生まれ変わる必要があったのだ。その後の歩みは聖書には書かれていない。しかし結果として、彼はイエス・キリストの葬りの際に30kgもの香油を持って現れた。それこそ彼の答えだったのだ。イエス・キリストは彼に対しヨハネの福音書3章16節の聖言を語られている。それは聖書の中で最も有名な聖言である言っても過言ではない。聖書を一言で表すならばとこの聖言が取り上げられるほどである。それはこのニコデモに語られた。この聖言によって多くの人が救われた。その始まりはこのニコデモにあったのだ。しかし、ニコデモも私たちも同じだが、最終的には自らの救いのためにキリストの前に出て、頭を垂れて謙ってその救いに寄りすがるかどうかに掛かっている。

Q:創世記19章のロトの記事で娘を差し出そうとするのですが、どうしてこのような展開になってしまうのかと思うのですが。

A:実際のところからすると、その行動に信仰の不十分さが現れている。いくら神の人を守ろうと考えていても娘をないがしろにしてよいものではない。愛するものを生贄にするような違う宗教的な考え方があるからこそ、このような行動になってしまった。その違和感は当然である。さきほどの高き所と同じだ。神を畏れて本当に事を進めていくことこそ信仰なのである。しかし、彼の中にはそのような信仰はなかった。ロトとアブラハムがそれぞれ場所を分けたときに彼は平地を選んだ。ソドムとゴモラが腐敗した人々の地であったことを知っていたにもかかわらず、自分は大丈夫だと思いこみその土地を選んだ。その結果信仰の不十分さが表されている。子どもたちを守ろうと思うならば、危ないところからは遠ざけておかなければならない。「僕はおちないよ」という言葉を信じて崖のぎりぎりを歩いているのをただ見ていれば、もしかしたら落ちてしまうかもしれないのだ。それならば初めからがけっぷちから離しておけばよい。私たちは家庭集会の中でそのことの大切さを教えている。リスクを管理し、信仰生活を守ることはとても大切だ。そしてそのために具体的にどのように取り組んでいくかは多く知恵を必要とする。だからこそ、先を歩んだ方々から学び、時に反面教師も用いながら選択をしていく必要があるのだ。この聖書を学ぶ会もそのような場として聖言と信仰生活を結び付けていくものとして活かし、神に喜ばれる良質な信仰を持つものとなるために取り組んでいきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)