巻頭言
— 信仰の継承-孫育て —
石井 行雄
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。」(伝道者の書 12:1)
数年前から私も七十代に入ったこともあり、高齢化社会の象徴で、クリスチャン医師日野原重明の本を何冊か読みました。その中で目に止まったことは仕事を最後まで続けること、老いても新しいことに挑戦することが書かれていました。また三浦綾子読書会に数年前から参加している私と同じ年代の男性は、獣医師として研の畜産関係の仕事に長年携わってきましたが、退職後法律事務所に通って学んだり、果敢に新しいことに挑戦しています。三浦綾子読書会に参加することもその一つだと思います。
会が終わって家に帰ってから考えました。「仕事はしているけれど、自分にとって新しいことに挑戦するとは何だろう、ボランティア活動だろうか?家庭菜園だろうか?」
しばらくしてふっと思いました「なあんだ、探すことはないんだ、二年前からやっているんだ、そうだ孫育てなんだ。」
新しい家を建て、妻と息子夫婦、孫三人と同居し、私は建設機械リース会社に勤め、妻は半日ビルの清掃、息子はIT関係の仕事、男の子二人は保育所に通っています。息子の嫁は子育て中ですが、四月から仕事を始めることになっています。
孫と関わる時間が多くなり、忙しく、充実した毎日を過ごしています。
孫と遊ぶ時間が多いのですが、讃美歌を合唱することもあり、加えて最近は聖書を開いて聖句を暗唱することも始められました。教えるだけでなく教えられることも多くあります。また孫と関わりながらも時々私の若い頃を思いめぐらすこともあります。
クリスチャンの家庭に生まれ、育った家は教会の隣りで、環境には恵まれたのですが、その歩みは遅く、順調ではありませんでした。中学、高校は運動クラブの活動が忙しく、教会から離れてしまいました。クラブ活動が終わり再び教会に通い始めたのは高校三年の八月で、十二月に洗礼を受けました。洗礼を受けるように勧められた時、山本先生の話されたことの一つは「大学に入ると多くの誘惑があるのでそれを避けるために洗礼をうけなさい」ということでした。幸いにも大学に入って大人になったという開放感などからくる誘惑から守られ、また教会に通うことによって、イエス・キリストの贖罪、愛のすばらしさがわかり、罪を示されたのですが、悔い改めて救いを受けることはありませんでした。救われたのは就職をして一年後です。大学生活は多くの自由な時間があり、旅行に行ったりと、良い時ではあったのですが、救われておらず、信仰らしいものもなく、従って周りに福音を伝えることもありませんでした。迷いの中にあったのです。イエス・キリストを信じ伝道するようになったのは救われてからです。
教会は長年幼子を大切にし、育成に熱心に取り組んできました。目指すのは救いと信仰の継承です。
昨年、小、中学生から祈祷会で友達を教会に導いた証詞を聞いたことは感謝であり、励ましであり、私にとって驚きでもありました。そこは自分も若いときに救われていればイエス・キリストの福音を伝え、より充実した時がもてたに違いないという思いがあるのです。
孫に望むこと、それは教会と共に生き、救われて、四代続いた石井家の信仰の継承者となることです。このために私達も労し祈っていきたいと思います。