同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

~ 聖書の学びから得る祝福 ~

森田 忍

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」 (ピリピ 4:4)

私は年に一度、聖書研究会の担当させていただいております。今年はピリピ書4章から学びを行い、聖書の御言葉に触れさせていただく機会が導かれ感謝しております。
4章の学びの中で特に私の心を捉えた部分があります。それはパウロの福音宣教に協力し模範的な教会とされていたピリピの教会ですが、二人の信者(ユウオデヤとスントケ)は対立の関係にあった箇所です。対立の原因はキリストによる愛の誤解だと言われています。キリストによる一方的な愛を受けて救われた者が、いつの間にか自らが愛の実践者だと思ってしまい、それが自分本位への愛へと変わっていってしまう恐れが記されていました。
そこからの自分本位の愛は相手をその愛の枠に入れようとし、枠に入らない者は受け入れず、非難する姿があり、それが対立の原因であると記されておりました。
聖書研究会の担当を終えて、この箇所が強く印象に残り、私の頭から中々離れない日々が続きました。それと同時に自らの傾向性を示されるような感覚になり、ピリピの教会の信者二人の姿と自らの姿が似ているように思えてきました。

仕事での自分の姿です。私は今の職場に勤務して15年ほど経ちます。今では所属する部署の半分以上が年下の社員で私も現場では指示を出して仕事を進めていく立場になりました。年齢も離れると仕事における考え方、価値観の違いなど、話をしてみると多くの違いを感じます。私は、教会と家庭を大事にすることの為に、ここまで歩みが導かれていると思っています。その導きは多くの実践と取り組みを必要とされました。しかし、形成された価値観は自らを生かし助ける物であると同時に、その価値観で人を測ってしまう自らの傾向性を考えさせられました。それが先ほどの姿だと思います。
実際に職場でも人の悪い部分ばかりに目が向いてしまい易く、そういう人なんだと決めつけてしまう自らがいました。

このピリピ書4章の学びの中で記されていることは、キリストの十字架によって、罪赦された者たちが集う場所が教会であり、集う隣人を赦し認めることができることを願う、と記されていました。
神は私に今ある自らの傾向性を示してくださり、学びを通して変わることを願われていると感じました。私も、仕事の中でその姿を示していくことに課題を憶えますが、聖書研究会の学びを通して、教えて下さった神に感謝しつつ歩み取り組んでいきたく願います。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)