巻頭言
— 霊的な目 —
山田 大
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ 8:34b)
今年年頭より一本杉の集会の形態を改め、概ね月一回の長谷川先生による「三浦綾子文学講演礼拝」以外は毎回バイブルクラスによる聖日礼拝とすることになり、昨年まで一本杉のレギュラープログラムだったSunday KidsとMom’s Breakの集会はサテライト・ノアで行われることになりました。
凡そ4年前に一本杉の集会が始まって以来、バイブルクラスではヨハネの福音書を1章からずっと学んで来ています。1回に数節ずつ、ゆっくりとした学びで、今年は7章の途中から始まり、9月後半の現在9章が終わるところまで来ています。その中で、特に印象に残ることは、ユダヤ教の律法を重んじる層の人々----律法学者やパリサイ人と呼ばれる人々----とキリストとの論争の部分です。確かにキリストの語られる言葉は難解な部分も多くありますが、ユダヤ人たちはその言葉を文字通りにしか受け取ろうとせず、霊的な部分、目に見えない部分に全く思いが行き届かないのです。まさにキリストが「耳のある者は聞きなさい」と仰った通り、キリストの教えは、信じようとする心を持って、心を開いて耳を傾けなければ、その真の意味合いを理解することが出来ないことがよくわかる部分であると思います。
昨年秋、娘の懐妊と、同時に双子であることが知らされました。私たち夫婦の喜びと同時に驚きは非常に大きいものでした。先月号で娘も投稿しておりましたが、今回の娘の場合はMD双胎という、一方の胎児にだけ発育が偏る、つまりもう一方の胎児は生存が難しくなるリスクのあるケースであることがわかりました。それ以来、ことあるごとに私たち家族の祈りは、娘自身の母体のことに合わせ「子供たちが二人とも守られますように」「子供たちが二人とも・・」と必ず「二人とも」という言葉が伴う必死なものになりました。
毎週の検診の後には、必ず娘の夫の岩本兄が二人の推定体重を知らせてくれました。初めの頃は順調な数値が続いていましたが、大きくなるにつれて二人の体重に多少の差が現れることがあり、私自身は内心一喜一憂することがありました。最後の出産4日前の検診では、推定2700gと2400gとのことで、すぐに出産しても大丈夫な大きさになっているということに感謝すると共に、このぐらいの差は仕方がないのだろうと自分を納得させていました。しかし出産後、岩本兄から、それまでの推定値ではなく、二人の体重の実測値が知らされ、2559gと2544gと聞いた時、差がわずか15gということに私は涙が出そうになりました。(神のなさることはなんと美しいのだろう)、心から御名を崇めました。出生後も二人は順調に生育し、まもなく4ヶ月になります。先日岩本兄が体重を測ったそうですが、二人とも7.7kgだったそうです。この結果を聞いて嘉納先生とお話しする機会があり、先生は「まるで神が『これはわたしの手の中にあることなのだ。あなた方は何を心配しているのか』と仰っておられるようですね」と語っておられました。私も委ねることを学んで行かなければ、と思わされました。神が生きて働いておられることを目の当たりにさせていただき、霊的な目を持って生きていくことの素晴らしさ、真の感動を味わう喜びを教えていただいています。
日々いかに霊的であるかということが自分に問いかけることです。本来信仰者である以上持ち続けていなければならない命題ですが、情けないことに一本杉の御用の回数が増えて来て切実になり始めました。自らを省みる時、勿論足りない者であることは間違いないことです。しかし思うことは、足りないことをサタンの付け入る隙にしてしまってはいけないということです。いかにしてこの小さき者を通して聖霊に働いていただいて、この与えられたところで実を結んでいけるか、それは冒頭の今年与えられた聖句のように、自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストの歩まれた道を歩んでいくことであると、日々思わされております。