― Q&Aルーム ―
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質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-165 —
-- 2025年2月 開催 --
山本 咲
列王記Ⅱ 13章
今日開いたところでは北王国イスラエルに焦点が当てられている。アハブ家を滅ぼすために用いられたエフーという王そして、その後を受け継いだ者たちのことが記されている。
エフーは中途半端なところが多く、それゆえに真の改革を行うことはできず、彼の後を受け継いだ者たちは北に隣接するアラムにしいたげられなければならなかった。本来、国と国との争いには様々な方法がある。戦いで打ち滅ぼすこともあれば、和平を結んだり、関係を持って支配下に置いたりするということもある。今回の場合は後者であった。周りの者たちが彼らを滅ぼすのではなく、関係の存続を図った。しかし、それは苦しさを伴うものであった。神の目は北イスラエルや南ユダ王国、王や官僚、貴族、一般市民、奴隷、その一人一人に注がれていたのにもかかわらず、人々の行いは限りなく悪いものだった。それでも神はそこから顔を背けることなく、見続けてくださったのである。それはどれほどの憐れみだろうか。かのアハブ王ですら神の目が向けられていた。それほど神の愛が私たちにも注がれていることを聖書は伝えているのである。
エリヤとエリシャという有能な預言者がたてられた時代、それを聖書記者は書き記している。しかし、イスラエルはネバテの子ヤロブアムの罪から離れることがなく、ダンとベテルの偶像に礼拝を捧げているのである。それは民がイスラエルからユダへと移っていくのを避けたいという王の思惑があった。だからこそ、そう簡単に行うことができなかったのだ。また、民も、自らにとって都合の良いところで礼拝を捧げていたのである。私たちは愛する者たちを神に近づけていくことを望んでいる。しかし、私たちの都合で動こうとするとき、やむなくと理由をつけて神から離れてしまっているのだ。もちろん神はそのすべてをご存じである。そこには執行猶予がある。憐れみの御手が述べられていると同時に改善を望んでおられるのだ。しかし、結局中途半端な中、真理は知っているがそれを実行に移すことができないというのは罪である。私たちもイエス・キリストの救いを知っているならば、どのようにそれを明らかにし、その中で生きていくのかということを求められているのである。光明牧師が語り続けた憐れみに対する私たちの姿勢、徹底していくということを求めていく必要がある。
エリシャが床にいるのを承知で彼はそのもとに行った。しかし、本来どうするべきだったのかという真理を見出すことができなかった。彼は中途半端だった。それゆえに神の真意をくみ取ることができなかった。それでも3度打ったことでベンハダデに勝利していく。神は中途半端だったとしてもその約束を違えることはされなかった。そしてエリシャを通して予言が成就したことを13章は表しているのだ。ただ、13章はそれで終わらない。その最後にはエリシャの骨に触れた人物が生き返ったことが記されている。それはエリシャが死んでも働いているというエリシャ信仰を助長するということではなく、逆にエリシャは偉大なことを行ったが、それは彼が特別だったのではなく、エリシャを働かせていた神ご自身が働いておられたのであると示しているのだ。だからこそ死んだ後も神の御力が働いていたということがこの一連の出来事から読み取れるのである。記者たちはエリシャという預言者は偉大だったが、最終的には人の偉大さではなく神ご自身がそのことをしておられるのだということを表しているのだ。預言者が何を真理として継承し続けたかというと、神ご自身がいすらえるとともにいてくださり、ことを行ってくださるのだということである。そして、彼らはその神の御業を見て、記録し、残し続けたのである。しかし残念ながらこの後回復する時期もあるが、イスラエルは滅び、同じように、少し後になってユダも滅ぶのだ。私たちは歴史としてそのことをみるのではなく、いかに神の憐れみがそこにあるかということと、それでも人がそれを自らのものとすることができないということの悲しさを捉え、同時に気を付けていかなければならない。しかしそれでも主イエス・キリストが天より下って神の憐れみを示して、罪から解放してくださったことを忘れてはならない。だからこそ、人に過ぎないものではあるが、神の御業と聖言に仕えさせていただきながら神の真理のために働くものでありたく願う。
Q:先日の礼拝の中でヤコブのことが語られていて、彼の手元に11人の息子がすべて残っていたということを取り上げられました。それは神の憐れみの故でしょうか。
A:神の憐れみでしたと話してしまうとそこから話が進まなくなる。恵みということから目を離さないようにしましょうということは前提として、それが可能なだけの信仰がどのようにして与えられたかということを考えていきたい。私たちも信仰者としてどのように生きていくべきか。ヤコブはなぜ12人をその信仰のもとに置くことができたかと捉えていきたく願う。ヤコブは子どもたちに証拠として現実の富を示し続けていた。彼は兄エサウから逃れるために叔父のラバンのもとへと向かった。そしてそこで二人の妻を得るために14年間働くことになる。そもそも彼は妹ラケルとの結婚を望み7年間働いた。しかしラバンは彼をだまし、はじめに姉のレアと結婚させ、ラケルを求めるヤコブに更なる7年の働きを望んだのであった。それゆえ彼は14年もの年月をラバンのもとで働くことになる。そしてさらに彼のもとで働き、20年の時を経て、彼は故郷に帰ろうとした。そしてこれまでの働きの報酬としてぶち毛やまだら毛のヤギ、また黒毛の羊を求めた。するとラバンはヤコブの提案を了承しながらもその日のうちに自分の群れの中からヤコブの指定したものと合致するヤギと羊を自分の息子たちへと渡し、また、ヤコブとラバンの群れとの距離を離すという方法を取った。それでも神の祝福はヤコブに与えられ続けた。そしてハランから帰る際にも良い方向へと導かれたのだ。彼は怠惰に生きるということをしなかった。私は子どもたちに合理性を教えている。その中で彼女たちは得る豊かなものを知っている。だからこそ、私のもとから離れない。そしてその中で豊かに信仰を培っている。いい人だとか、立派な人だとかということではない。清く正しく美しくがクリスチャンだと世の中の人は思うかもしれない。しかし、そうではない。ただ、神の真理に基づいた生き方をする者たちをクリスチャンとするのである。
Q:兄たちがヨセフばかりえこひいきされているということに不満を持っていたことが書かれていますが、エジプトではそのことで報いを受けていると語っています。この心情はどのように読み取るべきでしょうか。
A:彼らはヤコブに対する愛情があった。ベニヤミンを連れて帰らなければ父を悲しませることになるというのはユダの言葉だったが全員がそのことに賛同し、勝ち取るためにはどのようにすればよいかと考えている。私たちのその最後の時本当に愛情をもって関わってもらえるかは大切なことである。光明牧師は佐渡に親戚一同を皆連れて旅行をした。そのためにほとんどその旅費を出した。私たちはそのことにあずかれたことを感謝した。光明牧師はそう簡単にお金を使う人ではなかった。しかし、必要ならば大いに投資する人物だった。それゆえに、偏りなくいきわたることができた。主を愛し生きた方であった。しかしその最後の時には差が出た。その葬りに立ち会えなかった人もいる。神は白黒つけられたのだ。祝福とか恵みというところで話を終わらせないで、その対象を分析する良い。そしてそのような話を夫婦で語り合う関係でいたい。
Q:マルコの福音書3章28節、29節に「汚れた霊につかれている」と聖霊と神を分けて述べられたのはどのような意味があるのでしょうか。
A:聖霊ご自身がいかに私たちを恵みに導くかということに重点がある。神は愛すべき対象であり、イエス・キリストは私たちの罪を担い、私たちを罪から救われた存在だ。そして聖霊は私たちを生かす存在である。だからこそ、その働きをとめてしまったら、回復する術がなくなってしまうのである。私たちを神に向かわせ、救いに導かれる根源にあるのが聖霊なのだ。その手を振り払ったらもう神に立ち返ることができないのだ。この聖言は神、キリスト、聖霊という三位一体の地位を語るのではなく、その役割の違いを述べているのである。私たちを「神に立ち返りなさい」と語られるのが聖霊なのだ。内住されるかたの意思を無視してはもう立ち返ることはできない。だからこそ何があっても聖霊を捨てるということが無いようにしなければならない。
また父なる神、子なる神、聖霊なる神が違う役割を担っていることを意識していくことが必要である。「天の父なる神様」と祈るならば、その対象を意識するのだ。時にこころの中で「聖霊なる神よ。感謝いたします。私をもう一度天の父のもとに導いてくださりありがとうございます」と語るときそれがより意識されるのだ。それぞれの神に感謝と熱い思いをもって語る必要がある。私は家内に「あいしてる」や「ありがとう」や「すきだよ」と語っている。それは言葉にすることで意識するものがあるからである。今日やめたいと思って「やめたいやめたい」と言っていると本当にやめたくなる。しかし「もう一日だけ頑張ろう」と思っていると頑張れてそのまま続けることができたりする。そのように意識して何事も言葉にすることが大切なのである。
Q:マタイの福音書20章1節~16節のたとえ話のなかで主人はその時間にかかわらず報酬が同じように与えられたということが書かれています。私はこのことを読んだときにとてもこころを動かされました。私はきっと妬んでしまうと思います。しかし、それではいけない、感謝を意思していかなければならないということを示されました。
A:実際にそのような営みをやってみるとよい。理想論ではなく、実際ちょっとしかやっていない人が1デナリもらえた時に「良かったね」と言ってみるとまた違う世界になる。ただ、こういう話をすると人はあまりやらない。やってみたらよいと言っても挑戦しない。
私は家出をしたときに帰るべきか、帰らないべきかと利害を天秤にかけた。その結果帰るということを選択した。そして最終的にそこで神の祝福を見た。私に神はその姿を見せてくださった。
ここまでいろいろなものが経済を含め出たり入ったりしている。その結果として確かに祝福が豊かに与えられている。手元から出ていったときにはそれを惜しむのではなく主にささげたものとして忘れるということを行った。そしてその後それが返ってくるかもしれないということがあっても、それは忘れたのだからとすることにした。そうでなければもう一度その問題を出してきて、返ってくるものを受け取ったら、神と人との二重取りになってしまう。だからこそ、私はそれを取らないようにした。そのような神とのかかわりが大切なのだ。そのさきで神は様々な景色を私に見せてくださる。それは豊かな祝福であることを私は確信しているのだ。
聖書を豊かに学び、聖言を身近においておくことで神の存在を確かに感じることができる。その聖言を通して示されたことを試して、挑戦してみるとよい。その中で神はきっと新しい景色をあなたの前に見せて示してくださるだろう。
Q:最近娘の食事のマナーについて悩んでいて、そのことを盡子師に相談したところ厳しさが足りないということを言われ、指摘された通りに対応したところ1日もしないうちに改善されていきました。今回はすぐに相談せず自分で考えて行動しましたが、それではうまくいきませんでした。初めから相談すればよかったのでしょうか。
A:すぐ相談しなかった理由は何処にあるのかを考えるとよい。あなたの子どもは3人3様で似ている部分もあれば似ていないところもある。兄弟でも育て方を変える必要が出てくる場合もある。これから多くの場面でその違いが出てくる。お兄ちゃん二人とまた違う娘の存在も出てくる。3人いるのだからいろいろ育てながら挑戦していくとよい。ヤコブは厄介な12人を育てた。とはいえヤコブはもしかするとヨセフ以外にはその子育てにおいて大きく重点を置いていなかったかもしれない。それでも彼は神からゆだねられた子と存在を認識し、その神から与えられた責任を確かに果たそうと生きたのだと私は考える。
光明牧師が私を愛したのは神に対する責任の故だったと感じる。私と光明牧師との相性はそうよくない。ただ、そこに神の存在を意識するゆえに豊かに愛を注いだのだと思う。あなたが娘との関係の中でこれからもいろいろなことは起こってくるかもしれないがその中であなたがどのようにその娘を愛するかはとても大きな責任であることを意識していくとよいだろう。
Q:最近考えさせられているところなのですが、神を伝道するということの難しさを覚えます。私の言葉の足りなさ、至らなさというものがありながらも、精一杯自分に与えられた愛を証していくことが大切だと示されました。そして、その際には神が働かれること、聖霊が示されることを意識していきたいと思わせられています。
A:つたないということを枕詞として使うのはいいが、チャレンジを怠らないようにしていきたい。
内輪としてはお互いを知り、語られる言葉、証しというものを聞いて、励まされ、慰められている。ただ、伝道となるとどのような話し方をするか、アプローチをするかと考え、作文していくとよいと思う。そして1年ごとによく見返しながら吟味していくことが必要だと考える。今日全体がどのような話で動いているかと考えるならば、それをただの神の導きということだけに重点を置いてはならないだろう。私は最近安住アナウンサーのラジオ番組で日曜天国というものをYouTubeで聴いている。はがきを読んでコメントをするのだが、とても面白い。特にはがきの文章構成が面白いのだ。アンテナを広げて周りの情報を得ていくとよい。この世の中にはそのようなものがあふれていると感じる。人が関心を持てるような文章を立て上げるということに取り組んでもらうのもよいかと思う。
そこに神の導きが宿るかもしれない。日々の生活のひとコマをぜひ語っていただきたい。
Q:最近神の守りをひしひしと感じる出来事が2つありました。1つは4年前にひどく体調を崩して入院して以来今は3か月ごとに通っているのですが、その中で看護師さんとお話しする機会があり、「あなたほどまで回復するのはまれ」と言われたことです。回復したとしても後遺症があったり、入退院を繰り返したりするとのことでした。今は入院していた時の記憶も薄れてくるほどに回復しました。もう一つは先日意図せずひき逃げという形になっていた事件です。右折した際に接触したらしいのですが、私は近くに女性がいたという認識しかなく、後日警察から電話がきて驚きました。出頭しなさいと言われたときにはドラマの取調室を想像し、手錠をはめられるのかと思っていました。しかし、すぐに出頭したことや、誠意をもって対応したことで相手の方も大事にしないとなり、無事に済みました。本当に感謝だったと感じています。なお気を付けていきたいと願います。
A:私たちクリスチャンは良いことは感謝に思い、悪いことが起こるとなにが語られているのかと考える。強気に生きる時もあるが、時に弱気になるときもある。その日々の中で神がそばにいてくださることを意識することも起こってくる。必要なことは、主から離れずにどんなときにもともに生きようとすることである。主はいつも私たちを見捨てず、離れるということはない。聖言による導きを覚え、常に主の姿を追い求めながら、前進していく姿勢でありたく願う。この火曜日に行われる聖書を学ぶ会に皆さんが集うという姿を神は確かに評価し、祝福してくださる。苦しいこと、つらいことは起こらなければいいと願うだろう。しかし、それでは何も考えずに日々を過ごしてしまうこともあるだろう。神からの注意喚起、執行猶予の示し、そこではじめて私たちは思ってもいなかったことを考えるようになる。それによって人生の波に追いつかれてしまう前に先を考え、進み、備えていくことができるのだ。これこそ主からの大いなる祝福であり、それにあずかり、恵みを受けた者たちをなお主へと引き付ける大きな力となるのである。私たちの愛する者たちをその恵みによって信仰に結び付けていきたく願う。