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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-163 —
   -- 2024年12月 開催 --

山本 咲


列王記Ⅱ 11章

 時代が少しずつ進んでいくとともに北王国イスラエルの記録が預言者エリヤとエリシャという二人の人物によって書かれていた。イスラエル民族は本来真の神、主を礼拝する民として選ばれた。さらに言うなら南王国ユダの方がダビデ王家を受け継ぐ王たちが続いている。このところに来てその視点へと移って話が進められていく。ヨシャパテという王が北王国と縁を結ぶという最悪な決断をしたゆえに南王国に多くの問題が起こってくる。彼はそのことを意志して行った。本来、北と南は同じユダヤ民族であり、同じ神を信じる民として期待しそのように決断し行なった。しかし、それは人が正しく主を礼拝するものとして生き、そのことが守られているということを前提に行われていく必要があった。にもかかわらず、それ以外のもので関係を構築していくのは労力と、時間、リスクが費やされるだけだった。北イスラエルには偶像礼拝という根本的な罪が残り続けていたのだ。それを、放置して、ほかの方法でつながろうとしてもうまくいくわけもなかった。彼は、神のご計画や御旨がどのようなものであるかを探り極めていく必要があったのだ。信じ願うことは悪くないが、それをどのように進めていくかはヨシャパテ一人の問題ではなく、王と民の悔い改めが重要であった。しかし、その部分に手を入れることなく、ことを進めたゆえに滅びへと向かっていくことになる。ヨシャパテの次の王様ヨラムは北王国アハブとイゼベルの娘アタルヤを迎え入れたゆえに惨事を招いたのだ。ヨシャパテが亡くなり、次代へとうつるその時、ヨラムは権力を掌握するために自分の兄弟を滅ぼしてしまった。それはアタルヤからの影響が大きかったことは言うまでもない。その宗教性は極めて悪いものとなっていった。そしてその間に生まれた子どもたちも歴代誌を見るとアハズヤ以外はすべて滅ぼされるということが起こってくる。そうしてアハズヤがのこるが、エフーの改革に巻き込まれ、アハズヤも打たれ、アタルヤのみが后として残ることになる。その後は、王母として権力をふるうようになった。また一人残ったアハズヤがエフーによって打たれたことで、彼女自身が権力を握る地位へと立っていくのだ。それがどのような理由であったかということは書かれていないが、権力を自らに集めることで身の安全を確保しようとした。またそれと合わせバアル礼拝が彼女を後押しするようになる。ダビデ王家はヨシャパテの後、三代にわたって危機的な状況に陥っている。王の子どもたちの命が一人を除いて奪われていくということが実に三代続くのだ。ヨシャパテがもたらした大いなる災いはただのリスクではなく、ダビデ王家の存亡を危ぶむ事態に陥るような状況が結果として残っているのだ。預言者として、列王記を記している者たちは神がダビデに約束したユダ王家の血を絶やさないという御心のゆえに憐れみによって維持されたと記している。ヨアシという王子も1歳という年齢で命が危ういところだったが、祭司エホヤダとその妻エホシェバによってかくまわれて王位というものにつながっていくことになる。今日のところにその王位が正しい形で戻されるということが示されている。それほどに王宮は乱れ、国が恐怖政治によって治められている時代を越えなければならなかった。ただ、その中にあっても真の神を畏れる人々がエルサレムにある神殿において祭司として、もしくは、それに仕えるものとして、また共に生きるものとして残されたのだ。特に今日のところでは近衛兵という人々が登場している。祭司エホヤダは時を待ち、女王「アタルヤ」と「ヨアシ」という王子が対峙できるまでに準備を重ねた。そして、ついにその時が来た際には、近衛兵を率い、賛同するものと共に王家を守ろうと動き始めたのだ。アタルヤは恐怖をもって王位に就いたゆえに、必要な儀式をすることもなかった。しかし、ヨアシはエホヤダを通し、儀式を正しく行い、王になる手順を正しく踏んでことに当たった。とはいえ、7歳で王になるということはまだまだ、象徴という存在に過ぎなかった。細心の注意を払いながら、その幼子は守られ大切に育てられた。そして、このところで王位についていくことになる。聖書はこのところで人間の目にはまことに危機的状況にも見えるような中、神は守りの御手を置いていたということである。アタルヤは勝利を確信していた。しかし、それは神の御旨の前にはならなかった。
私たちは現在殺戮や偶像礼拝、自分のいのちを危機にさらしてまで追い詰められてはいない。しかし、リスクというものがあることを忘れてはならない。ヨシャパテが行ったようなリスクを注意して回避していかなくてはならないのだ。釣り合わないくびきを負ってはならないと聖書は語っている。だからこそ、私たちは大切なものを大切なものとして守らせていただきたい。いつの間にか大切なものを見失い、危険にさらしてしまうことのないように自らの思いではなく、聖言と祈りをもって神のなさることを信じて歩ませていただきたく願う。

Q:アタルヤがアハズヤから生まれた子どもをみんな殺してしまったのは自分の地位を確立するためだったのでしょうか。

A:そのとおりである。彼らは自分の血縁、実の孫である。一般的に考えても、いかに狂っているのかと思われる出来事だ。この姿から人間の罪が何処まで悪くなるかということを表しているように感じる。神は人間を大いなる可能性を秘めた存在として創造された。それは限りなく善くもなれば、考え付きもしないくらい悪くなる可能性も秘めているのである。神は私たちをロボットのように言われたことだけするような存在に創ることはなされなかった。それは、この善くなる可能性を退けないためだったのである。御心に従てって神と共に歩み、優れたものになることを神は期待しておられるのだ。人はどこかで止まると期待しているが、実際は何処までも悪くなる可能性もあるのだ。アタルヤは自分の地位を危ぶむものを全て殺すということをした。しかし、実際は彼女の命を滅ぼす存在が一人残されることになる。そして、更なる悪に染まる前に死をもって終わることになる。いかにこのことを私たちがとらえていくかということは重要である。ヨシャパテの息子ヨラムの話もしたが、彼も兄弟を全て殺したが、彼が病になった時、彼の死を悲しまないばかりか、王家の入る墓にも葬られていない。それはすでにヨラムという王がアタルヤと結婚し、そのような政治を表してしまっていた。本来なら、民に愛された王の息子であるにもかかわらず、父親が亡くなったとたんにおかしくなったことから、民全体がそのことに対して、ある一定の評価と距離を持っていたことがわかる。それもあってアタルヤはなお、孤立感を覚え、恐怖政治によって国を治めるしかなくなってしまったのである。そのために、自らの孫を殺すという惨事につながっていくのだ。ユダ王家というダビデから続くこの民の間でさえこれほどのことが起こったが、その元凶となったのはヨシャパテであり、彼自身は悪い王ではなかったが人間の限界というものも覚えておかなければならないだろう。恐れをもって御旨を探り続けていくこと、また、リスクを覚え、侮ることの無いようにしていかなければならないのだ。現実にはこのようなことが起こるわけではないが、似たようなことは常に起こってくる。だからこそ、侮らず、注意深くことを探っていく必要があるのだ。そして、どれだけ私たちがこのことに対する指標を正しく御心に置いていくかを十分に考えていかなければならないのである。何度も語っているが、ヨシャパテ自体には悪い思いはなかった。しかし、理想というある意味で美しいもののように見えるそれに手を出したばかりに、混乱を生み出す結果となってしまった。何が悪いのかと思われることの背後に畏れなければならないものがあることに注意していかなければならない。歴代誌はヨシャパテがタルシシュ行きの船を造って貿易をし、経済を成り立たせようとしたことが書かれている。それが、北王国との関係の中で行われている。そこから見ても、ヨシャパテの健全性には陰りがあり、注意を置かなければならないことがあらわされている。理想的な正しいこと、願うべきことの背後には私利私欲が隠れていないかということに十分に注意する必要があるのだ。結果として三代子どもたちが殺されてしまった事実を心にとめていかなければならない。私たちも十分に注意を置き、私利私欲ではなくして、神の御心を追い求めていきたく願う。

Q:周りの人との関係で自分がゆすぶられることがあります。その中で怒りを覚えることがありました。それは怒ったお客さんに机を蹴とばされたということであり、「ごめんね」で簡単に済まされてしまったことにもまた怒りがあった。しかし、そのままでもいけないと思ったのですが、怒った状態から自分を戻していくためにはどのようにしていけばよいですか。

A:怒りそのものは悪いものではない。怒ることができず、問題になってくることもある。そのようなものが私たちの生活なのだが、その中でどのように整理していくかが重要である。なったこと、起こってしまったといういわゆる過去の出来事にどのように対処していくかということが大切なのだ。聖書は詳細に書いている部分もあるが、大枠だけ書かれている部分もある。そのため、そこからどのように御旨を推し量っていくかが重要なのである。確かにアタルヤの人格性まではわからない。しかし、それを全ての人に当てはめて考え、聖書との間を埋めていく必要があるのだ。そして、自らが何を注意していくのか、律していくのかと聖言にきいて当てはめていく必要があるのだ。問題は出た結果を未来に結び付けていくかである。次のことが起こってくる前に自分を操作し、変えていく必要があるのだ。そうでなければ、お題目に自分がなって人生に失望するものとなってしまう。合わぬくびきを背負い続けていくことは大きな問題である。効果があるか、必要なものを生み出しているのかを考えていかないと同じだけのものを失っていく結果で終わることになるのだ。年齢や立場とともに子どもたちも母親や父親の姿を見て育つ時期にかかっている。だからこそ必要な形にしていかないと、相手やことがらに多少違いはあれど内容的には変わらない事柄にいつも遮られるようなことになってしまうのである。そして、それを見る子どもたちが一番に失望してしまうことになるのだ。

Q:今日のところで高き所ということが書いてあったのですが、イスラエル王国だけでなく、ユダ王国にもあったのでしょうか。

A:真の神の預言者が北王国にあげていたのはダンとベテルの偶像である。対して南王国にあげていたのはエルサレムの神殿以外での礼拝だった。御旨とされていたのはエルサレムの神殿で礼拝を捧げることである。「高き所」として示されたそれは歴史的には先住民が礼拝所として使っていた場所とされている。もちろんイスラエル民族が礼拝を捧げた対象は真の神であった。しかし、わざわざ神殿まで行くのが苦労だったがゆえに高き所が変わらず残されることになる。だからこそ、その問題に王がメスを入れて整えることが重要だった。また、それによって偶像を排除することが導かれていたのだ。それを王が行うということが指標としてあった。預言者はそれができるような王であり、それが民に対して徹底できるからこそ、王としての役割を果たし、神に従わせることができるとしたのである。
ヨアシが王になる証拠として律法が渡される。それは王という存在が最高権力者として物事を自分の好きなようにするだけの権力を持っていたが、それは一方で律法、神の御旨の下に僕として選ばれた者であり、民を神のもとに従わせ治める存在であったのだ。もちろんアタルヤはそんなことを微塵も考えてはいなかった。ゆえに、彼女はその王権を象徴するものを持ってはいなかったのである。高き所はそういう意味でも指標となった。ヨシヤという最後の善王はエジプトの王パロネコと対峙して戦死してしまうが、彼はそこまでメスを入れていくことができた王であった。これは例えだが、ユダ王国の王の評価をしていく表を作るとすると善王、悪王の評価の違いは、最初はそれ程ふり幅が大きくなかったが、だんだんとそれが大きくなっていく。良ければよいが悪い王は徹底的に悪いというようなものになっていくのである。歴史を振り返るとそのようなことがよくわかるのである。

Q:先日の礼拝説教の中で「創造的な新しさ」という言葉がありインパクトがあったのですが、その意味するところを教えてください。

A:神の御旨ということを先日のメッセージでは中心に語った。そしてそれをイエス・キリストの誕生と合わせて考えていくことにした。私たちは神の御旨を私たちの存在の枠の中で考え、捉えようとしてしまう。しかし、それはある意味で私たちの限界の中で神を操作してしまうような考え方である。だからこそ、創造的な新しさというものを神の中に見続けることができるかということが重要であり、そのために祈り求めながら生活の中に見出していかなければならない。しかしそれは私たちにとって到底考えつかないことである。だからこそ提示された事柄から神の御旨を推し量っていく必要があるのだ。神という方は創造にあふれ、新しいことを示しておられる。それを私たちの思いに当てはめることなく、受け止めていかなければならない。特にバプテスマのヨハネはイエス・キリストに対し「私の方があなたからバプテスマを受けるはずですのに」と語り、その後、聖霊が鳩のように下ったのを見たにもかかわらず、弟子を遣わして救い主であることを確認しなければならないほどイエス・キリストご自身がなされていることは新しさを持っていた。そこに受け入れなければならない神の御旨があった。躓いたというほどバプテスマのヨハネを貶める必要はない。ただ、バプテスマのヨハネも伺いを立てて、探り求める姿勢を持っていた。私たちも同じように探り求めながら、祈り待ち望み、自分に与えられる頷きを得なければならないのだ。バプテスマのヨハネのように語りながらも本来の救い主を信じないものたちが多かった。むしろ、自らの思い描く救い主を語っていた。それが結果として躓きを与えることとなるのだ。そして自分の思い通りにならないことにへきへきし限界ということにたどり着いてしまう結果が訪れたのだ。
私たちはもちろん聖言を通してイエス・キリストという方を捉えると同時に、教会の中で信仰者同士が共に生きて、その感謝や恵みを分かち合うということを通して、神を見出させていただいている。私の人生だけで神を捉えるのではなく、信仰の友を通しても神を見させていただきながら、神を信じるということが豊かにされている。 そのような思いを皆さんに投げかけさせていただいていたのだ。私は以前咲先生に説教の最初の部分は十分に内容と結びついていなければならないということを語ったが、先日礼拝の最初の話でこの教会が世代を超えて、代々同じように事が行われており、私たちの時代に行ったように次の時代にも行われているということを見るときにそれを大切にすることでさらに次の時代へも続いていくようなことを語った。それは何処につながっているのかというと、この神を互いの中に見出していくということなのだ。お互いが神の御旨を知り、新しい世代に期待していくことができるようにと願っているのである。
私は毎週金曜日に家庭集会を行っている。それは大変なことであるが、とても大切なことだ。私の子どもたちの時代、教会から一人もこぼれないでと願いながらその成長を見守っていたが許されなかった。しかし、なお変わらずこぼれるものが出ないようにと願いことを進め続けている。そのためには本当に教会が健全であるかどうかが重要になってくる。 民主主義ではないが、教会は人の群れであるために、教会の中を御旨を信じて恐れていく人々が多数派を占めていないといけない。神がその部分を確かに導いてくださるということを信じているが、私たちはだからと言って何の手も打たないというものではいけない。だからこそ、神を畏れながら、この時代の中で導かれた教会と家庭と、社会でその責任をどのように果たしていくかということを考えていく必要があるのだ。

Q:御霊が宿る信仰とはどのようにして得られますか。

A:御霊を追い求めていかなければならない。そのなかで語られる。とはいえ、声が聞こえるわけではない。しかし、追い求めながら信じて聖言を聞いていくとこれだと思えるものが導かれる。だからこそ教会学校の先生の話を聞くこと、礼拝の話を聞くこと、家庭でお父さんやお母さんの霊的な話を聞いていくことが重要である。また何より求め続けていくことが重要である。いらないと思うと途端に入ってこなくなる。求めて続けていると導かれるものが数多くあるのだ。

Q:今年のメッセージを振り返る中で「信仰の実験」という言葉が出てきていていたのを手帳で見て、どのような内容だったかと考えたのですが、思い当たるものがありませんでした。もう一度詳しく教えていただけますか。

A:信仰の実験という言葉から結びつくもので考えられるのは、私自身の実体験である。私の信仰生活はそのようなことが多かったのだ。神の御旨と言ってもそれは簡単にわかるものではない。むしろ判りづらいものだと思っている。ある一つの出来事単独で見ているのではなく、牧師家庭の中で親の信仰や自分の信仰をもとに考えながらも答えは出なかった。そこで実際、実験という形で行ってみて初めて結果を見出すことができたものもある。神の御旨を求める際、その時その時でどれがそれであるかと願い求め、導かれたと思うことを行い実際その結果をみて神の答えを探る。そのように何度も行ってきたのだ。そしてその中で私は子どもができたときに不安になったのだ。なぜなら、この子たちは正しく信仰を持つかということに不安を覚えたのである。愛しているが、この子はどのような人生を歩むのか、神に出会い、神を信じ生きてくれるのか。どうすれば良いのかと思い巡らした。それに対する神の答えは「この子たちと何年かあなたは共に過ごす。その中で最善を尽くして導いていきなさい」というものだった。だからこそ私はこうしてみよう、ああしてみようと。そして結果として出されたものがあった。とはいえ、神の憐れみのゆえに結果になったことが多い。一生懸命にやって結果が出た時「自分は一端できる」と思うかというとそうでもない。神の前に自分も出て、向き合って対峙したからこそ、出てきた結果を本当の意味で憐れみであるということが理解できたのだ。私にとっては対盡子師との関係における実験が最も多かった。もちろん盡子師の側が私を愛してくれた部分も多い。その中でいろいろな人の欠点、過程、結果も見ながら、私は神の御旨を考えさせていただいた。人は信仰の実践を曖昧にしやすい。私自身はそれで満足しないという部分があったため、それを実際実験し、検証したうえで結果をみることにした。それによって多くのことを知ることができた。 貴方も信仰生活の中でいろいろなことに取り組んでみるとよい。家庭集会はそのようなことを語り、取り組んでいる。悩みを聞き、それに共に対策を立て、挑戦し結果をみるということを行っている。だからこそ本当に神の憐れみの麗しさに出会えるのである。
以前お祈りということに対しての疑問があった。光明牧師の時代は「胎の実をお守りください」ということを祈ることははばかられた。それは背景として初代のクリスチャンが多かった時代、祈る際に神への祈りだからと好き勝手に祈ってはならないと教えていたからである。しかし私はあまりそういうことを言わない。それは祈りに対する基本的な姿勢と、礼拝に対する思い、そのうえでどう祈っていくべきかと考え祈ることがなされればよいと考えている。ある程度の基盤が教会の中でも築き上げられているがゆえに、様々なことが教会員一人ひとりにゆだね始められている。そして今は諮問委員会に様々な議題を上げること、そこから牧師だけでは見過ごしてしまう部分を共に考えてもらいながら、形にしているということがある。そのような体制が教会でできていることもよいと思う。そして、その先の教会に夢を思い描き、どんなふうに取り組んでいくか。まず一、二年静まって祈ったり、そこから献金したり、牧師も代を越えどのように進んでいくかを考えさせられている。
先日の月のお証会の中である兄弟が「来週、年末感謝会で他の方が語るための時間を残すために私は今日、証しをします」といったことや、家族のだれがどう働きに出ているかと時間まで詳しく語っていた兄弟もいた。またその後、家族がそれを受けてさらに証をしていたことも記憶に新しい。お祖父さんお祖母さんとの同居を示されたときにお嫁さんも信じてその道を選んだが、その結果は確かに出ていた。子どもが三人になった現状の中で、同居していなかったらどうなっていたかと思わされるほどに豊かな家族の助けを得るまでになっている。同じようにお祖父さんの方は息子夫婦と同居が話に上がった際、兄弟は家を購入してまだ9年しかたっていなかった。しかし、彼は悩んだりせず、すぐさま手放して同居したいとその道を選んだ。それは確かに彼の信仰だった。その結果として家庭が豊かに導かれている。一回身に着くとやめない方である。それゆえに行ってきた分科会伝道会の三浦綾子読書会も信仰に導かれる方も出ている。20年近く黙々と広告を出し続けてことを行っている。それを見ていると、私たちの召しというものが賜物だが、それだけではないということがわかる。なお、神のみ旨を探り求めながら、その中に多くの感謝を見出させていただきたく願う。

なおこの年もこの聖書を学ぶ会を通して聖言と今、私たちの生きるこの日々とを結びつけ、どのように御旨と歩むべきかを考え、とらえさせていただいたことを感謝に思う。これからもなお、神の喜ばれる事を探り求めながら、日々を歩ませていただきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)