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キリスト教—信徒の志す—

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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-161 —
   -- 2024年10月 開催 --

山本 咲


列王記Ⅱ 9章

 いよいよ神の裁きが行われる前準備がなされていくことがこのところに書いてある。前回ベン・ハダデの病の時にハザエルが王になることをエリシャが告げたところを取り上げた。今回のところはそこから続いての神からの預言の成就が記されている。イスラエルの女王イゼベルがエリヤを殺すということを宣言した際に彼はホレブまで逃げた。その所で神から「イスラエルに七千人を残しておく」ということが語られたが(列王記Ⅰ19章15-18)、それに合わせてなされた預言にハザエルとエフー、エリシャのことがあった。ハザエルに油を注いでアラムの王、エフーに油を注いでイスラエルの王、そしてエリシャに油をそそいでエリヤに代わる預言者とされた。そしてそのことがこのところで実現している。復讐は神の業である。だからこそ、神に召された者が動き出し事を行っていく。今日、取り上げられたのはエフーである。聖言は彼は王に重んじられていたが、将校たちの間では同じ様に扱われていることから、彼が特別だったわけではない。ただ、油注ぎがなされた際には、彼の傘下に下ることを他の将軍たちが上着を脱いで表していることから彼が慕われる人物であったことがわかる。
ダビデのように油注がれてからだんだんと戦いの中に身を置いていく者もあれば、彼のようにすでに戦いに身を置いていたがこの油注ぎを受けて立ち上がっていく者もいる。神はその働きにふさわしい人物を召し、事を行われるのである。ではエフーの信仰はどのようなものだったのかというのが気になってくる。しかし、それについて詳しく述べられているわけではない。だからこそ、彼らが神の召しにどのようにして従ったかという姿を通して私たちは聖言を探っていく。自らの願いや欲を捨て、神の召しに必要な働き、努力をする姿が書かれる時に私たちはそれを知るのだ。このところで長く続いていたアハブ王家を滅ぼすことが示された。このことは中途半端ではなく、徹底的に行われる必要があった。人道的なもの、自分の感情、温情を入れてはいけなかった。なぜなら、神の復讐が確かに行われる必要があったからである。神の召しに対し、私たちは自分のいいように解釈をして行うのではなく、神のご意志を探っていかなければならない。エフー王朝は102年と半年続いた。もちろん、これも全てがよかったかというとそうではない。ネバテの子ヤロブアムの罪から離れることはできず、罪を犯すものが出てきてしまうゆえにやはり滅びへと向かうことになる。
 私たちは神の御業と、民と預言者、王、家来、そのすべての人々の動きを見ていくことができる。アハブ王朝はとにかく悪かった。それゆえに滅びへと向かった。王はエフーに射貫かれ死に、イゼベルは預言の通り悲惨な死を迎えることになる。とはいえ、エフーが整っていたかというとそうではないことがこの先を読むと分かる。ただ6節から10節までに語られたことの中で彼が行わなかったことは一つもなく、預言通りにならなかったことはなかった。
また同時に南王国の王アハズヤが来ていたことも書かれている。エフーの使命の中には特に彼のことについて語られていなかったが、不思議なように神はこの時を導かれた。エリシャが預言者のともがらのひとりに戦場にいたエフーに油を注いだとき北王国にユダ王国の王が来ていたこと、その戦いの場がナボテの畑地のそばであったこと、導きであるとしか言いようがないほどその状況が神によって整えられていたのだ。ヨシャパテが何とか北王国をと思っていたがゆえに、彼の息子は北王国のアハブ家の婿になり、最悪の状況を南王国に及ぼしていた。このことに関しても神の裁きがなされたのである。南王国は救われたヨアシ以外すべての王子がアタルヤによって殺されていたことが、この後に記されているが、悪しきものに近づくことによって同じように悪しきに染まっていってしまうことが述べられているのだ。この記事を通して聖書は私たちに悪しきに近づくことへの警鐘を鳴らしているのである。勿論、私たちは救いを求める人の近くに行く必要はあるが、危険から離れていく必要性も感じる。アハブ家のその罪の前に本来ならば離別しなければならなかったにもかかわらず、それを引きずり、近づきすぎたあまりに大きな代償を払うことになったのだ。9章というのは神の裁きがなされたという事実だけではなく、それがこのところで実行されるまでの長い期間、アハブ王家に預言を置き続けながら悔い改めを願っていた神の憐れみを見ることができる。だが、彼らはこれを受け入れなかった。それゆえに滅びへと向かうことになる。私たちは自らの悪しきや弱さ、罪深さというものに大きな恐れをもって心を向けていく必要があることを覚えさせられる。
 エフー王朝が102年、4代で終わってしまった。それは確かに預言の通りである。しかし、預言は決まったことが語られているのではなく、神の言葉を預かるという意味での預言であり、はるか遠い未来の確定した出来事を語っているのではないのだ。神を畏れ、信じて歩むならば神はその預言を変えてくださることも忘れてはならない。だからこそ、この程度でいいと妥協し侮ってしまうのではなく、神が与えてくださる祝福と恵みを信じつつ、なお高みを目指して歩み続けていきたく願う。

Q:いま語られたところで、自分の罪に畏れを持つということが言われていましたが、日々その難しさを感じます。自分を変え、畏れを持ち続けるためにはどのようにすればよいですか。

A:今、私たちは福音書を通してイエス・キリストについて学んでいる。イエス・キリストが神でいらっしゃられ権威をもって働かれ、愛をもって私たちを導かれる。だからこそ、そこからイエス・キリストを信じ、畏れ、共に生き、その御力が働かれることを信じることがとても大切なこととしてある。そこをどのように捉えて、イエス・キリストという人格と自らを結び付けていくかが重要なのだ。私たちが普段、人と接するようにイエス・キリストと対峙することはできない。しかし、福音書や聖言を通してイエス・キリストがそばにいてくださり私たちを救う方であることは十分に示されている。それを読みながら、実生活の中で人格的交流をイエス・キリストと行うことが大切なのだ。先日の礼拝でも語ったが、そのためには隣人との人格的交流を信じて行うことが重要なのである。いつでもイエス・キリストの存在を隣人の背後に見なければいけないのだ。それはそう簡単なことではない。どうしても相手は同じ人である故に軽んじ、時に無礼にふるまってしまうことや、相手によって態度を変えてしまうこともある。ましてや相手が自分に対してあまりよくない感情を向けているとなれば、対応も悩ましいだろう。しかし、そのような時にこそ、相手の背後に主を見出していくことが重要である。その人のゆえにではなく、主のゆえに私たちは心から愛をもって接していくことができるのである。とはいえ、それでも思い通りにはなかなかならない。また、私たちの生活が簡単に変わるわけではない。しかし、そのすべてを主はご覧になっておられるのだ。だからこそ、そのような状況で隣人とどのように交流していくかが重要になってくるのである。あなたが先ほど語っていたが、「いうこと」と「やること」が違うということへの注意は必要である。それが隣人との関係の中でなされている時、実際は神とのかかわりの中でも同様なのではないだろうか。口でよいことを語りながらも、その心が伴い、行動へと移っていなければ偽りである。そういうものに限って言い訳はいくらでもたつ。言い逃れをして、自らの都合のいいようにしてはいないだろうか。しかし、そのようなことも主は見ておられる。この時ばかり「主よ見ないでください」というのは限りなく失礼であり、侮っているとしか言えない。だからこそ、十分に注意していく必要がある。 先日、礼拝で私は光明牧師のことを語った。彼が父であり、先代の牧師だった岩次郎牧師の病に対し、「祈ってほしい」と言われた際に代替わりを自覚したという話をしたが、私は代替わりを光明牧師と伝道師であり、私の伴侶者である盡子師の関係の中に代替わりの時を見出した。光明牧師は盡子師の行うことによく苦言をこぼしていた。そのたびに、盡子師は私にそのことを訴えながら、どのようにすればよいかと悩んでいた。それは光明牧師が老年になっても変わらなかった。しかし、盡子師は仕え続けた。なぜならその背後に神を見ていたからである。理不尽なところもあった。しかし、彼女は権威と秩序というものを大切にし続けた。だからこそ、年老いてもなお、「年寄りが言うことだから」とはせず、その言葉を大切に扱っていた。ある時、彼女が教会の信者さんが身ごもってそのお手伝いのために出かけようとしていた際に光明牧師が「働きも大切だが、家族が優先だろう。優先順位を守って私たちを先にしなさい。すぐ出かけていかないでここで話をしてくれ」と言ったことがあった。盡子師はその言葉に「教会の仕事ですから」というのではなく、「はい」と従って、話をし続けた。とはいえ、手伝いに行くと言っていたこともあり、刻一刻と迫る時間の中で、どのようにしようかと思っていなかったわけではもちろんない。それでも、言われた通りに行った。そして話を終えると急いで出かけて行って、働きをして、また昼食を光明牧師と和子伝道師に出すために戻ってくるということを行っていた。そのうちにある時から「そろそろ行かなければならないだろう。私たちはいいから行ってきなさい」と光明牧師が言うようになったのだ。初めに語った通り、相手は年寄りだし、自分の好き勝手を言っていると理由をつければその言葉を無視することもできる。しかし、神がその地位と権威を授けられているということを相手の中に見たときに、私たちは主を畏れ、神のゆえに、相手を愛していくことができるのである。
 アハブは神を畏れながらも、イゼベルによって結局、神を侮るものとなっている姿が示されている。彼は神に従う生き方をする必要性は十分にわかっていながらも、自分のしたいことをしたいようにし、それがならないとへそを曲げたようにふてくされていた。その生き方そのものが、神を侮っていた。そうなれば、そこに救いは訪れない。むしろ、今回語られたように、滅びが待ち受けている。ましてや、正面から神に戦いを挑んだイゼベルはより残酷さをもってその最後を迎えることになる。
 先日の日曜日に語ったもう一つの大切なことは、神の御業を自分の願いの中に見ているうちはご利益宗教の域を出ないということである。むしろ、あなたが相手を救おう、愛そうと思った人格の中に御業が現れるからこそ、その人に救いがもたらされるのだ。少なくとも、その中に神の祝福を思うからこそ、神の御業を信じることができるのである。「これこれがなったら神の御業だ」と思っているうちは結局ご利益宗教で終わる。自らの利害を優先しているうちはどうにもならない。それに関係ないところで起こってきたところ、他者に対して起こってきた救いに神の御業を見出すことが大切なのである。それは如実に表れる。しかし、本当に畏れている人は隣人を愛し、自分の生活を律して歩んでいる姿が見える。家庭集会で私たちは何をしているかというと隣人の話をしているのだ。ある家庭では隣に旦那さんがいるのに「旦那のこういう姿が気になるのですが、これはどうなのでしょうか。この件は私の問題でしょうか」と話をしていくのだ。それは裁判のように相手を罰するものではない。そこで第三者として私たちが入り、家庭の問題や、課題を見つめなおし、信仰に歩むうえで必要なこと、家庭に必要なことを話していくのだ。それによって神のご支配、すなわちイエス・キリストによってもたらされた「天の御国」の中で自らを生かし、家庭を生かし、子どもたちを生かしていく事ができるのである。

Q:子どもが生き物の図鑑を借りて来てそれを読んでいた際に「進化」という話が取り上げられました。そこで夫が私たちは聖書を信じているから「進化」ではなく「進歩」って言った方がいいと語りました。それから子どもたちが私の前でその言葉が出てくると言いなおすようになっていて、最近ではゲームでもモンスターが「進化」するという表現が使われているところも、「進歩」と言い換えているのを聞いていて、素直だとは思いつつも、ことばだけにこだわるのもどうかと思うところもあるのですが。

A:ただ、一つのとらえ方からすると、わざわざ言い直していることは親に対する愛と信頼であると私は感じる。それは信仰の継承のカギとなる。子どもがそのように言葉を言い換えるのはあなたたちを心から信じて注意しているという尊敬の現れである。親を敬っているからこそ、彼らは大切にしているのだ。それはとても尊いことである。それはあなたたちの言葉や姿が真剣だからこその現れである。そこに心配すべきことはないと私は感じる。本当に何らかの注意が必要なら、神は彼らが世の中に出た時に知識や知恵、助け手を与えてくださる。だからこそ、親は心から「神はあなたを愛してくださる」ということを伝え続けていくとよい。そして、あなたたちの言葉を素直に守り、生きている子どもたちの姿に誇りを持ったらよい。逆に言うと、「えーなんで進化って使っていけないの?だってみんな周りの友達はそういってるんだからいいじゃん」という子どもの方が多い。どうしたら治るかと悩む人が多いような問題なのだ。だからこそ、なお、あなたの子どもたちには常に色々な話をもって感じたことを伝えていくとよい。
 礼拝の時とにかく男の子3人が大きな声で讃美をしている。自分の都合で出し入れする人は多い。理由をつけて、ごまかして、決めたことをすぐ変えてしまう。しかし、そうしないで自分の都合ではなく、一度決めたことをし続けるということは大切なことだ。彼らは常に心から大きな声で讃美している。それは素晴らしいことである。
私たちは信仰の実践を目指している。ということは、子どもたちはその姿を見続けているのだ。そして、親の目指すところにその姿をもって子どもたちの目に神の栄光を表すことであり、信仰の姿を現すことである。
 私の娘は学生時代に携帯で母親と電話をした後、友達に「誰と電話をしていたの?」と聞かれ母親と答えると「えっ親と話すのに敬語使ってるの」と驚かれたそうだ。私たちの家では言葉に気を付け、友だちと話すような言葉遣いをしないようにしていた。それは先ほどの話のように、権威と秩序があらわされるためである。親は決して子どもと対等ではない。子どもを愛し、育て、同時に注意し、しつける権威を持っている。それは神が与えられたものだ。なぜなら神となされる私たち人間との関係は親と子の関係に等しいからである。親は神の権威を教えるにあたり、一番近しい関係性なのだ。だからこそ、愛されるという喜びを受ける相手であると同時に、自らを律したり、注意したり、叱る権威を持つ相手なのだ。そして、その教えに従うことは重要なのである。子どもたちは確かにあなたたちを通して働かれる神の権威のもとにいることを心から私は嬉しく思う。

Q:先月の話の中で「恵みと賜物」について、恵みは一時的なもので賜物は一生続くものというようなものとして受け取ったのですが、それでよろしいでしょうか。また、その違いについて、どのように注意をしていけばよいのでしょうか。

A:そのような考え方でよい。特に賜物は贈り物であるため、注意を払っていく必要がある。自分の利益のために使うとそれは神からの賜物と呼べないものになってしまう。神から与えられたものであるがゆえに、隣人のために用いていく必要がある。同時に神の恵みであるため、それに対し、どのように感謝をしていくかが重要である。神から与えられるものを当たり前と思うのが一番怖い。とはいえ、私たちの手にあるように見えてもそれは決して私たちのものではない。自分のものは何一つない。だからこそそれをどのように管理していくかが重要になってくるのである。同時に周りを見ながら、その賜物が良い管理下にあると思うか、雑だなと思うか。裁く意味ではないが、評価していくことは重要である。それによって自分の賜物の用い方も十分に評価チェックしていくことができるからである。隣人の賜物を見ると、比較してしまいそうになったり、うらやましく思ったりしてしまう時がある。しかし、それは神から与えられたものであることを思い返せば、うらやむよりも一緒に働かせていただき、その力を借りたり使わせていただきたいと思ったりするぐらいが良いと思う。
 私はとにかく教会の当務表がプログラムであっという間にできるようになったことが感謝である。今までは莫大な時間がかかっていたがそれがパソコンでできるようになった。また、それに伴うかのように、当務自体の数も増えたり、一本杉の教会への出入りがあったりで複雑化した。だからこそあなたがそのようなところを担ってくれたことを神に感謝をしている。
 また、賜物や恵みは家庭ができるとより大切になる。子どもの賜物をどのように見極めるか、伸ばしていくか、また逆に必要なところへのテコ入れはどうしていくか、それがこれからあなたにも見えてくるだろう。楽しみにしている。

Q:先日のメッセージの中でマルタとマリヤのことが取り上げられていましたが、そのマルタの「何とも思いにならないのですか」という言葉を聞いたときに、私も同じように思うことがあります。相手に対して共感を求めているのですが、そのような気持ちで大切なところを見失ってしまうことがあるとも思い、どうしたらよいのか教えていただきたいです。

A:それは相手に対する信頼と愛を勝ち取りたいという深い部分であり、求めているからこそ出てくる言葉なのだ。人間の愛への叫びである。それがイエス・キリストとの結びつきを豊かにするものとなる。嵐にあった際に弟子たちも同じように語っていたが、愛が豊かになればなるほど「何とも思いにならないのですか」と言いたくなる。「私のことどう思っているの」と詰め寄りたくなるのだ。また先ほど光明牧師と盡子師の話の中でしたが、相手が行っていることの順番、優先順位の中にその本質が現れてくる。時には愛するということと、優先順位にぶつかり合いは起こってくる。しかしこの問題は克服できないのかというとそうではなく、克服できるのだ。だからこそその思いを込めて、私はこの話をしたのである。光明牧師と盡子伝道師の関わりは一面「なぜ嘉納先生の分まで私が言われなければならないのか」というジレンマを盡子師に与えていた。それは光明牧師が私に対しては一面牧師としての権威を大切にしたがゆえに、私に言いたいことまでも盡子伝道師に語っていたからである。苦しいことも多く語られたことを私は知っている。だからこそ、私は盡子師に感謝をしている。生活の中にはそのようなことが起こってくる。マルタは家にイエス・キリストを招き、その弟子たちを迎え、奉仕をした。不備がないようにと畏れながら、その準備をして家を開放したのだ。人を招いたことがあればわかるだろう。ましてや、上司やお得意さんというような位置以上の神という存在を招いたのである。ならばよほどの緊張感をもってそのことを行っていたのかが見えてくる。彼女は救われた者として自らにできる働きをそこでなそうとしていた。救われて、神の働きをなそうという心が強ければ強いほどその畏れゆえにピリピリとしてくるだろう。だからこそ、マルタはそんな自分と対照的にじっと話に聞き入っているマリヤの姿に取り乱してしまったのである。イエス・キリストが福音を述べ伝える働きに出始めたのにもかかわらず、多くの群衆を置いて船で出るという行動をとったことは彼らにとって驚きであり、不思議なことであった。そのうえ、嵐にあってもなお眠りについておられるその姿を見た弟子たちは、「自らのすべてを捧げてついてきたのに、イエス・キリストは何を考えておられるんだ」「私たちはどうなるのだ」という思いにかられていく。それが「どうともお思いにならないのですか」という言葉に現れているのである。すべてがそのジレンマの中で出てくる言葉なのだ。思いが強いゆえに、応えてほしいと思うゆえである。イエス・キリストはこのような出来事を通して彼らを訓練された。なぜならそのようなジレンマが伝道の中では多く起こってくるからである。日々の生活の中でこれが上手くいったというようなレベルではないのだ。その程度で一喜一憂しているようではならない。私たちが目指すのはもっと高き所なのである。一人の人を救おうと考えた時、相手の出し入れをする姿や、弱さが見えてくる。しかし、そこで無理なのかと思うのではなく、自らも罪人であった中から救われたという事実をもって、相手を思い、救いを願い、共に歩むことができるようになるのだ。マルタがイエス・キリストを迎える働きをなしていたからこそ、ここでマリヤが救いに導かれていくことになる。それは大いなる主の祝福であることを覚え、私たちにも同じように与えられることを信じ、感謝したい。

Q:長男が生まれてまだ一人だった時、母性ではなく、信仰で育てるということを教えていただいたのですが、子どもたちが増えていく中で、2番目、3番目に対しての思いが長男の時とはまた違うと感じています。今、子どもたちにきちんと向き合うことができているのかと思うのですが、どのようにしたら、信仰で育てていくことができますか。

A:正解がこれということではないが、実際は自分の一番やりやすいようにことを進めるというのはあまりよろしくない。この問題に取り組んでいく中で「母性とは何なのか」ということを考えていく必要がある。私たちの考える母性とは世の中のものと同じになり、自分が自然体でできるということをそのまま行っていることである。だからこそそのままではいけないというのが私たちの考え方である。手間もかかるし、難しさもある。大切なことは、親が神を畏れて生きているということを教えなければならない。子どもが親を馬鹿にしているとき、自分が我慢すればいいやというと「父母を敬え」という神の教えを子どもたちに教えないことになる。だからこそ、子どもが馬鹿にしてきたときには神をそのようにしていると怒らなければならない。私は子どものころ何か悪いことをしたときには「ごめんなさい」というと父が祈ってくれた。その時には「嘉納は神とお父さんを馬鹿にしました。どうぞ赦してください」と語っていた。子どもながらに別に神様を馬鹿にしたわけではないのにと思ったこともあったが、年齢とともにその意味が分かるようになった。私は父に赦しとともにその刑罰としておしりをたたかれた経験が数多くある。ただそれは「この子は私から罰をうけましたから、神の罰をこの子に与えないでください」という神の怒りを畏れた父の愛であったことを思う。私は神に出会う前、神を知りながらも、赦しを求め、救いを願うことをしなかった。それはどれほど神を侮る行為だっただろうか。だからこそ、私はそれを自覚したときに大いに畏れた。それと同時にだからこそ、救いを知らない者たちを前にしたとき、私が救われたようにこの人格にも神は必要な恵みを与えてくださると信じるのだ。あなたの子供達がこれから歩む中でどのように人生を選択するか。救われて信仰者の伴侶を見つけ、そこで家庭を築き上げていくことができるか。それはわからない。しかし、そのために必要なことを私たちは少しでも教えていきたいと願う。怒って泣く姿に「可愛そう。だってこの子は眠いんだもん」「お腹がすいているんだもん」「まだ何もわからない、しょうがないんだもん」と言っていれば逃してしまえる。しかし、実際はそれではいけない。理由がたつからと母性でその罪を見逃してはいけない。「誰に向かって怒りをぶつけているのか」と本当に必要な時にはその子を是正していく必要があるのだ。話は飛躍するが、あなたの子どもたちもよく話をするようになって来ている。年齢とともに言葉が増えてきているなら、その中に意思が育まれていることを注意していかなければならない。言葉によって心がより豊かになる。ならば、その言葉が荒れていくならば、心も荒れるのだ。出てくる言葉に気を付けていかなければならない。常に心に聖霊が語りかけてくださることを大切にし、子どもたちに対峙していく必要がある。子どもたちの上に守りの御手があり、子育ての中に豊かに神の知恵が与えられることを願う。

なお信仰生活の中に神の御業を見出しながら信仰を豊かに建て上げていきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)