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キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(59) —

野澤 睦雄


「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。」(出エジプト記 3:10-15)

4.救ってくださる神

 神はご自身で「ある」お方です。人間は「あらされてある」存在です。「在る」と漢字を使った方が意味が分かります。
神はご自身で「在る」お方ですから、これを「神の自存性」といいます。そしてこれが神の名です。 冒頭のみことばは神がモーセにイスラエルをエジプトから連れ出すようにお命じになっているところで、モーセがイスラエルに神の名を聞かれたらなんと答えたらよいでしょうかと質問したのに対して神がご自身の名を明かされたところです。
神は付け加えて、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主」であると言われました。
イエスはユダヤ人たちに対して、ご自分を次のように言いました。
「それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」(ヨハネ 8:24)
「そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。」(ヨハネ 8:28)
「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」(ヨハネ 8:59)
ユダヤ人特にパリサイ人たち、律法学者たちは「あなたは人間なのに「わたしはある」=「神ご自身」だと主張するのか」と激怒しました。
だがイエスは真実を語られたのです。
イエスは神の本性である「ありてある」お方です。

 先に「神の遍在」について述べましたが、世のすべての所におられるのですから;「神は無限」です。
「無限の神」とも表現します。
神は無限であって宇宙の隅々にまで満ちておられます。このことは、神は空間について、なんの束縛もないことを意味します。
 「永遠の神」についても述べてきましたが、ある人々は、神は「永遠の過去から永遠の未来まで」一望しておられるお方であることを強調します。そして神は永遠の過去から永遠の未来にわたり、時間の制限、束縛を受けることはないお方であることがその中に含まれています。
そして神は、時間、空間の中でおきていることを自由にできるお方です。
皆さんがもし自分の神を「時間に縛られる神、空間に縛られる神、自然現象に縛られる神、奇跡をおこなうことのできない神」と考えておられるなら、神をなんと小さいものとしていることでしょう。

(仙台聖泉キリスト教会員)