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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-169 —
   -- 2025年6月 開催 --

山本 咲


列王記Ⅱ 17章

   17章は歴史的にとらえるならば、イスラエルがアッシリヤに滅ぼされた後の時代のことが書かれている。私たちは過去を歴史として見ながら現在を生きている。ホセアは自らが北イスラエルの最後の王になるとは思ってもいなかっただろう。不穏なアッシリヤの動きは理解していたかもしれないが、実際にどのように事が進むかはその日まで分からなかった。人は日々、何が起こるかわからない中を生きている。それは私たちも同じである。しかし、神がすべてのことをそのご意志の中で治めておられることを信じている。だからこそ、これから起こることを示される神の御言葉を大切にしているのだ。それは大予言と呼ばれているような世の中の人たちが考えているものではない。私たちにとって大切な日々の中での信仰生活の歩み方であり、何を畏れて歩むべきかということである。それによってこれから起こってくることに対応していくことができるのだ。北イスラエルは目に見えない恐怖の中であてにならないものを頼りにして勝手に神をつくって拝むということをした。その結果は滅びでしかなかったのだ。私たちも恐怖を抱く出来事が全くないわけではない。ましてや、すべてのことに事前に対応できるということでもないのだ。しかし、神を信じるがゆえに、自らのできることを精一杯やることや、それでもどうにもならない出来事を神のご采配と信じるがゆえに、受け止めることができたり、その結果をすぐに求めずにどうなるのか見ていこうと時間を置くことができたりするのだ。彼らも真の神に祈り求めていくことができたのならば、神による助けがあったことも考えられる。もちろんこれはいわゆる「たられば」であるが、それを考え、自らに適応させることこそ、聖書が歴史を赤裸々に語る理由なのである。
 アッシリヤは占領の政策として捕虜たちが自分たちの思いを通そうとするときに王国に楯をつくことが無いように、それぞれの国にバラバラに捕虜たちを配置したうえで、そこに民を住まわせたことが記されている。そして今日、読んだところに面白い記事がある。それは神が獅子を送った際にアッシリヤがとった対応である。それは真の神が行ったことを「いくつかある神の1つであるイスラエルの神が怒っている」という考え方だったとはいえ、土着の神を崇める方法を調べ、神を祭るようにとしようとしたことだ。正確には誤りではあるが、神の力が確かであったことが記されている。このアッシリヤの政策により、サマリヤには異国の民が住むようになった。このような混乱の中で彼らの中にも異国の民が入り込み、宗教もすでに崩れていたが、更に制御できないほどになっていったのだ。
聖書の時代において捕囚から帰ってきたユダヤ人たちは、正しい方法で神を崇めていることを自負し、対してサマリヤ人は誤ったことをしているとしたうえで袂を分かつという対応をした。合わせてユダ王国の民が帰ってきて神殿を再建しようとした際に妨害したこと、受け入れなかったことがあったゆえに、サマリヤ人とユダヤ人の間に反目が起こってきたのである。それでも少なからず、彼らの中にイスラエルの神、主を礼拝するということが起こってきたために、祭司が送られることになる。彼らの宗教性は全くと言っていいほど整っていなかった。彼らは正しい方法もわからなかったのである。しかし神は彼らの中に姿を現された。たとえ形式的なものであっても、彼らの中にそれらの要素を残したことが17章に書いてある。彼らの姿は決して正しい形として評価をすることはできないが、聖書の流れを見るときに知ることができる。現在礼拝で取り上げているイエス・キリストが井戸で出会ったサマリヤの女だが、彼女の中にもつたないものではあったが宗教性があった。サマリヤの女はイエス・キリストと出会いコミュニケーションをとる中で、はじめはわからない者であったが、どんどんとその言葉がわかるようになっていった。そして、イエス・キリストが何者であるかを知り、信じるものとなったのだ。これはヨハネの福音書4章に記されている。合わせて使徒の働き8章のところに行くと、イエス・キリストの十字架と復活、ペンテコステを通して、サマリヤにも初代教会の執事であったピリポという人が遣わされ、彼を通して伝道がなされ浸透していくこととなる。それは、イエス・キリストがすでにサマリヤでしておられたことがあらわされている。イスラエルと移ってきた人々との混血もしくはそもそもイスラエルにかかわりもない異国の民たちなのかはわからないが、それらの人々を総称したサマリヤ人、すべてに神は憐れみの御手を伸ばされた。一つの民族だけに神はこだわっておられるのではなく、すべての人、主を信じる者に救いをもたらそうとされていることがあらわされているのだ。こうしてサマリヤにはリバイバルが起こり、多くの人々が神とイエス・キリストを信じたのだ。聖書はバラバラに記録を残しているが、不思議なように整合性がきちんと取られている。それは聖書に書いてあることが真実だからである。本当に行われたことであり、神の御業だったことを記しているのだ。だからこそ、私たちは聖言を学びつつ、イエス・キリストがなしてくださった大いなる御業、神の業を信じるのだ。それは、現在にも続き、私たちを導くものとなる。それは偶然ではない。神の手の中で行われているからこそ、必ず神による最善がなされる。それを信じていくことこそ、私たちにとって大切な信仰の営みなのである。

Q:獅子が神から送られた故にサマリヤに主を信じる心が起こされたと語られていたのですが、詳しく教えてください。

A:私たちは完全形を期待する。神がなさった御業ならば、それが完結されることこそ本来の形ではないかと思ってしまう。しかし、あまりにもハードルを高くするゆえに偏見や差別がうまれ、それが拒絶につながってしまう可能性も大きい。それこそ、いわゆる求道者にとっての大きな壁となってしまうのでは本末転倒である。私たちはできるだけ多くの人にイエス・キリストや神、教会、を知っていただきたいと思うがそう簡単ではなく、時には語ったとしても忘れられてしまう場合もあるのだ。しかし、時間とともに何かのきっかけを通して、それが思い起こされ福音に触れて救いにつながっていくのだ。それは私たちにはわからない。だからこそ、今日の聖言から読み取れるように獅子を送ったという出来事によって彼らの中に「これはどういうことか」という思いが起こってきたのである。ここに明確な解釈が存在するわけではない。しかし、私たちはその文脈を通して、サマリヤ人に対する神の業が働いたことを理解することができる。それでも彼らはこの出来事に対応しようと祭司を呼び寄せた。ただ、それはダンとベテルの祭司のため、いわゆる子牛の像を讃えるほうの祭司である。このあたりに彼らの中途半端さというか、どうしようもなさがあふれている部分はある。ただ、それでも何とかしようという彼らの神を探り求める姿勢がここに現れているのだ。このような姿がいわゆる私たちが出会う求道者の方々の姿と重なるのである。だからこそ、彼らのために私たちができる働きを担っていきたく願う。ただどこまででも頑張らなければならないというわけではない。先日取り上げたように、イエス・キリストは「認めない者たちに対してはその町を出るときに足の塵を払いなさい。それによってその責任が彼らに返る」ということを語っておられる。一面厳しいようだが、そこにあるように私たちも神のみ旨を探りながら、必要なところで働いていくことが求められているのである。そのためにもただ知識で終わることの無いように、聖言の真理を聞ける心と信仰を整えていかなければならないのである。

Q:足の裏の塵を払い落としなさい。足の裏の塵はなんの意味があるのですか。それはどことむすびつくのですか。

A:イエス・キリストが福音の働きを弟子たちに示した代表的なところである。その中には持ち物についての制限や、何を語るべきかなどが示された。彼らのために必要な食事や寝床は遣わされたところで用意され、その働きを行ったのだ。足の裏の塵を払うという行為に「交わりを絶つ」という意味がある。イエス・キリストはしがみつけということは言われていない。あくまで求めに応えることが示され、そして受け入れ信じたところでことを進めていくというのが大切なのだ。もちろん遣わされた者ということはあるかもしれないが、そこには主体性が必要となるのである。一方で注意しなければならないのは、わからないことがある中で思いのままに進めていくことである。どうするべきかがわからないならば聞かなければならないのである。私たち自身も、社会生活の中で主体的に自由にその所を治めている。しかし、社会生活が土台になるのではない。というのはこの世の基準が土台となると、自らの力や、豊かさ、利便性で相手を動かそうとしたり、無理強いしたり、支配したりということを行ってしまうのだ。そのようなことを行っていると、本来の形ではなく、世の中の誤った形、報酬を求めてしまうことにつながるのである。
 聖書には私たちは死ぬことと死後裁きを受けることとが定まっている。そこで自らの犯した罪というものについての責任を問われることになるのだ。これは神のために働いたからと言って罪が軽くなるわけではない。ましてや悪い行いを良い行いで帳消しにはできないのだ。だからこそ、イエス・キリストを信じ、その贖いのみが私たちを罪の裁きから救われるのである。ヨハネの福音書3章16節以降にあるように私たちを贖うのは御子を信じる信仰のみである。私たちはそのことを信じ、感謝し、喜んで歩むものとなるのである。
 サマリヤ人と言われる人々の映像を先日みた。イスラムの人々とも違い、ユダヤ教の人々とも違う。その人々が残り続けていることを見ることができる。この後イスラエルが帰還するのは200年後である。ということは獅子の騒動を知る人々も全て亡くなっている状況である。しかし、代を重ねながら宗教性は残っていくことになる。エズラ、ネヘミヤの時代には相容れなかった。彼らはゲリジム山で礼拝を捧げていた。それはサマリヤの女の記事にも書いてあるように先祖から続くヤコブの井戸によって生きているということを語っているように、宗教性のようなものが宿っている。彼女はイエス・キリストの中にメシヤを見出した。だからこそ、彼女はイエス・キリストとの会話を通して、その権威や、彼が神につながることを捉えることができたのだ。ヨハネは彼女のことを記しながら、その宗教性についての理解を示している。彼女は心からイエス・キリストのことを知ろうとした。そして、その権威にゆだね、真理に歩めるようにその言葉を聞いたのである。それゆえに彼女は道を見出し、いのちの泉へと至ることになる。

Q:先日の礼拝のヨハネの福音書3章11-15節が取り上げられた際にその前まではニコデモについて語っていたが途中で「あなた方は」という複数形の言葉を入れたのはこのところを読む他の人に向けたメッセージだったと語られていましたが、なぜこの位置にあるのですか。何度か読んでいると気付きますが、流してしまいそうなものです。わかりやすいところに入れなかったのはなぜですか。

A:先日取り上げたのはヨハネの福音書の聖書学者と言われる人々がその箇所をどのように解釈したかということであった。というのは、今回は説教と一致していたが、説教で書かれていることとそのような学者の解釈が必ずしも一致するとは限らないからである。先日イエス・キリストはアラム語を話していたのではなく、ヘブル語を話していたということが研究で分かったと記されている本を読んだ。ヘブル語で語られていた旧約聖書から、わざわざ新約聖書でギリシャ語にしたのは、公用語がギリシャ語だったからである。福音書はその状況の中で多くの人々に読まれることとなる。しかし、だからこそ、学者の解釈が一概に正しいというものでもない。ただ、それによって導かれる大切なものがあるならば、それを受け取っていくこともまさしく必要である。あくまで理解を助けるものとして目にしておくことがよいだろう。
 ヨハネの福音書はその意味において、歴史的現実を大切にしている。ヨハネは長く生かされた使徒である。そのゆえに黙示録も書いている。この書は黙示文学という分野ができるほど、難しいことも多い。その意味でヨハネという人物には莫大な情報がある。しかし、私は説教者として、メッセージを語るということを大切にしている。ニコデモを通してヨハネは何を語りたかったのかということに目を留めたい。それは「神が実にその独り子をお与えになったほどに世を愛された」という大前提の話である。そこから物事を始めていかなければ、イエス・キリストを信じる中に現実として起こってくる迫害を前に彼らは乗り越えることができないまま終わってしまうことになる。それがヨハネの提案なのだ。イエス・キリストはニコデモに対し叱咤激励している。その背後には彼を心から愛しておられたからである。だからこそ、布石を置き、彼に対して語りかけているのである。それは同時に今この箇所を読む私たちに向けても語られている言葉となる。私はここから様々なことを語ることができる幸いを感謝している。ヨハネの3章だけで1年間礼拝のメッセージが語れるほどメッセージ性が多く込められている。それはヨハネを学んでただその字面から受け取れるところだけを語るのではもちろんなく、必然的にそこに結びつく様々な箇所を同時に取り上げることによってより深くその主の愛に触れることができるメッセージとなる。サマリヤの女のことを取り上げようとすればエズラ、ネヘミヤの時代、イエス・キリストの時代、使徒の働きのピリポの時代もある。またサマリヤの女だけでなくよきサマリヤ人の話もある。このたとえ話を読むならば、イエス・キリストがサマリヤ人を特別視してないことがわかる。重ねてその姿から本来の愛が現されるところまで記されているのだ。また10人のツァラアトに犯された人々をイエス・キリストが癒されたという出来事の中でも、戻ってきたのは外国人であるサマリヤ人だった。このことが事実として記されているのである。私たちは自分を主体として考え、相手を判断し時には色眼鏡を通して断定してしまいやすい。しかし、語られているように、そのような人々を排除するのではなく、広く受け入れていく必要性が求められているのである。聖書は写本しか残っていないが、もともと章や節というものが存在しない。ヨハネは一冊の区切りの無いものとして書き上げた。そのような意味で質問にあったように「あなた方は」という言葉を分かりやすいところに入れればということではないのだ。そういう意味では聖書を何度も読む中でこそ出会う真理なのだろうと感じる。なぜなら興味があると私たちは一気に最初から最後まで読み上げてしまいやすい。それは良い。しかし、それで終わってしまえば、さらっと表をなでるだけの軽いもので終わってしまう。真理は本当に主の言葉を探ろうと取り組むものに示されるものであったと言えるのではないだろうか。それによって筆者の込めたメッセージ、ひいてはその背後におられる主からのメッセージを私たちが受け取っていくことが大切なのである。
私に聖書のことを教えてくれた師の言葉の中に「福音書は難しい」ということがあった。だからこそ、私は一面福音書を一度置いて、旧約聖書からの学びを中心に行っていた。そこから50歳を過ぎていよいよ取り組み、今に至っている。もちろんこれまで全く触れてこなかったわけではない。必然的に旧約との結びつきの中で取り上げる機会は多くあった。しかし、その意味で本腰を入れて学ばせていただいた。実際この教会でも福音の働きが活発化していったこともある。もちろん福音のためだけに福音書を読むわけではない。そこには教会形成を含め様々なことが語られている。福音を述べ伝えるためには自らに与えられた信仰、救い、大いなる御業を捉える必要がある。主イエス・キリストを信じるということが最も大切なことであるからだ。私は今もっと早くに福音書を取り上げていけばよかったと思う。とはいえ、旧約聖書の学びに力を入れたからこそ、新約聖書との結びつきを見出すことができ、神が説教者としての私を捉えてくださり、福音を語らせていただくことができたとも感じている。メッセージは常に神が私たちに語ってくださるものとしてなお大切にしていく必要がある。その日々、その時において必要なことを神は示してくださるからだ。

Q:デボーションのことについて以前質問があり、その中でその大切さが語られていました。それは日々の信仰を守る大切なものだと。しかし、先日体調を崩して、デボーションをすることすらできませんでした。それがショックで、私自身の弱さを実感しのました。しかし、それを咲牧師に話したところ、実際そういう時もあると声をかけて励ましてくださいました。ただそれに甘えてはいけないと思い、自らの弱さを前に恐れを抱いています。

A:私たちの価値観は変わらなければならない。もちろん大切な神が第一という価値観は変えてはならない。しかし、価値観にも成長が与えられる必要がある。価値観が変化するかしないかは自己中心かそうではないかということが極めて大きい。自己中心な人は価値観の変化が少ない。というのは価値観を変化させる要素を受け入れないからである。一度抱いた価値観がその人を支配することになる。もちろん価値観にも変わってよいものと、変わってはいけないものもある。今しているのは変わらなければならない価値観のことである。あなたは今老いによる弱さの話をしていたが、実際肉体のピークはおおよそ20代だ。もちろん経験や技術によってそのようなものを補ったり、むしろそれを上回る力を発揮したりすることもあるが、遅かれ早かれ私たちは老いる。だからこそ私たちはあえて、変革を起こして、自らの年齢によって出てくる不足に対策をしていかなければならない。例えば、誰かがあなたの体を支えようと手を差し出したときに「わたしはまだそんな年齢ではありません」とはねのけてしまうとする。しかし、実際はそのような年齢に達していることを自覚しなければならない。それはただ助けてもらう立場にならなければならない。だからこそ、プライドが一面傷つけられることでもある。ただ、そのプライドは自己中心的な自らの表れであり、その弱さが現れる年齢であること、人に心配される立場になっていることを自覚し、「助けてもらう大切さ」の価値観を受け入れ、代わりに「自立する大切さ」の価値観を一部放棄しなければならない。
デボーションを何のためにするのかという意義をもう一度見つめなおしていかなければならない。体調が悪いならば「主よ助けてください」という祈りひとつでいいのだ。それこそが本来のデボーションの在り方である。それ以上を自分に課すなら、その意味は何処にあるのか、自己満足ではないのか、などと考えなければならない。その中で、年齢に合わせ、あなたに必要なことを価値観として大切にしていただきたい。変われなければ、歩みは止まってしまう。あなたがデボーションをすることができないならその分、誰かがあなたの代わりに祈ってくれることを願ったり、あなたにデボーションと同じく主の存在を身近に感じさせ、感謝を覚えさせ、救いを再度喜ぶ経験をさせてくれる相手と語らったりすればよい。自分一人でできないなら誰かを間に挟めばよい。それもできないなら、代わりに全部してもらえばよい。あなたがそれを誰かに頼むこと、「自分でする大切さ」の価値観よりも「誰かにしてもらう、誰かとする大切さ」の価値観に切り替えていけばよいと私は考えます。

Q:先ほどのことにつながるのですが、先日礼拝の特別讃美のために、奏楽を変わってもらうということをしました。以前の私なら「大丈夫です。できます」と言ってしまっていたと思います。しかし、今回はすっと受け入れて「お願いします」と言えた。それはいい意味での変化だったと感じました。

A:私たちは本当の意味で神に対してできることは感謝である。捧げものなどはそもそも神が用意してくださったものである。だからこそ、私たちができる本当のことは感謝である。なお日々の中に困難は付きまとうかもしれないが、その中に主の豊かな憐れみと、あなたを支える隣人を神が備えてくださることを信じ、感謝していきたく願う。

Q:認罪ということなのですが、ある方がお証をした際に、「それはクリスチャンの家庭で育ったから罪ということが分かったのではないですか」という話がなされました。一般の方にはその罪ということがなかなかわからないということを感じました。どのようにしたら、罪ということについてわかるのですか。

A:認罪はその人、個人のものであり、聖霊なる神によって与えられるものである。私たちが認罪を大切にできるかどうかは先ほどの価値観ではないが、そのことを持ち続けることにある。ただ、そればかりを意識しすぎて、神との豊かな交わりが持てていないようではいけない。私たちはきよめ派という神学に属しており、ひと世代前まではきよめの経験をすることが重要で大切にされていた。もちろんその存在を否定するわけではないが、今はそれらの経験をそれほど重要視していない。というのは先ほどの話ではないが、ただの自己満足になっていてはいけないとしているからである。私たちはそれぞれがそのところで導かれたなかで、個人の信仰というものを確立していく必要がある。そして、晴れ晴れとした気持ちの中で歩みを続けていくことが重要なのである。私たちの教会では歴史的に前を歩んだ方々の信仰を見ながら、評価をしたり、そこから学んだり、改善を図ったりしている。
ある姉妹は結婚を目的として、キリスト教を知ろうとし、その中で神に出会い、信仰に至った。しかし、その初め認罪それ自体はわからなかっただろうと思う。しかし、週ごとに礼拝で説教を聞き、その中に生きている中で少しずつそのことが示されているだろうと感じる。そして自らの罪というものを神の前に示され、認めることができたのである。そして同時にそこから赦しを求め、自らの変革を望んだのだ。
カトリックの懺悔は宗教性においてそのことを重要なところに位置させている。イギリスのドラマで犯罪ものに牧師が関わるものがあった。彼は守秘義務があり、その情報を公開するべきではないとしたシーンがあった。そんなにわかりやすいドラマではないため、見ていただくとよいかもしれないが、私たちの罪の問題は簡単ではない。特に犯罪に触れるようなことにまで行かなければ、それ自体を認識することは難しいだろう。しかし、神が語りかけてくださる御言葉に耳を傾ける時、それに出会う。不思議な主の御力は何処で行われるか私たちにはわからない。しかし、それがどこかで何らかの形で働くことをなお信じ、主からの召しに応えて、歩ませていただきたく願う。

Q:ガラテヤ人への手紙5章11節「割礼を述べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう。それなら十字架の躓きは取り除かれているはずです。あなたがたをかき乱す者どもはいっそのこと切り取ってしまう方がよいのです。」と語られています。イエス・キリストを信じれば救われること。その後に割礼は必要ないということが語られていることがわかりました。しかしユダヤ人にとってこの事実は面白くないからこそイエス・キリストの教えを語る彼らを迫害するということでこの箇所のとらえ方はよろしいのでしょうか。

A:ユダヤ人にとっては十字架は失敗に見える。ペテロでさえ、イエス・キリストが自ら十字架にかかることを語った際にそんなことを言わないでくださいと語ってしまった。結局彼らの価値観が残ってしまっていることの表れがある。しかし、パウロは今まで行われていた律法や割礼などの儀式的な要素が不必要であるとしている。本当に必要なことはイエス・キリストが私たちの罪の贖いのために十字架にかかられたという事実である。だからこそ、私たちはそのイエス・キリストを信じることによって義と認められるのだ。しかし、それを否定する者たちもいる。しかも、彼らは迫害ということを通して私たちが十字架を受け入れることを妨げ、躓かせようとするのだ。だからこそ、パウロは割礼になぞらえて、そのような不必要な人々を切り取ってしまえと語るのである。パウロの面白さがここに現れている。
現在の私たちに迫害はない。むしろ保育園の先生がイベントのたびに宗教を気にして声をかけるほどのものになっている。だからこそ、このことはそれ程服考えなくてもよい。むしろ私たちが気を付けなければならないのは、自分の罪を隠すために罪を重ねてしまうことである。「ごめんなさい」と一言悔い改めれば赦されるはずなのに、それが言えずにごまかしを重ねてしまうということが起こってくる。私たちが注意する必要があるのはそのようなごまかしや、自らの弱さで罪を重ねることである。「ごめんなさい」と言えることが私たちの信仰生活を支えるのだ。ここで対峙するのは私と誰かではない。私と私だ。あなたの心こそがあなたを悩ませ、貶めさせる。だからこそ、私たちは素直な心をもって自らの過ちを認め、告白し、そこからの回復を探っていく必要があるのだ。なお注意を払っていきたい。私たちの敵は私たちの心に住まうことを。そうならないために、私たちの心に聖霊を迎え、なお、整えていきたく願う。豊かに私たちの心を守り、主へとその視線を向けさせ、結び付けさせてくださるその御力を信じ感謝を覚えて、なお歩ませていただきたい。
この時も学ぶことができたことを感謝する。今後も日々の生活と信仰を結び付け、豊かに知恵を与えられ、そこから学び、苦難を乗り越えながら感謝とともにこの人生を歩ませていただきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)