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質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-167 —
-- 2025年4月 開催 --
山本 咲
列王記Ⅱ 15章
変わりなくイスラエルとユダの王について書かれている。王が即位した年を表す際、彼らはイスラエルならユダの王の年代を、ユダならイスラエルの王の年代を互いに書き記していた。最初はサウル、ダビデとはじまり、ダビデ王家が確立。ソロモンへと継がれていった。しかしその後、北イスラエルと南ユダへと分裂してしまう。北王国はヤロブアムという人物が王となり、ダンとベテルに偶像を造ったことがらから始まり、南王国はレハブアムというダビデの血を引く人物が王となり、その王権は引き継がれていった。イスラエルは北と南に分かれてしまったが、神にとっては同じイスラエルであった。北王国は最初の王ヤロブアムが偶像を作るという悪を行ったゆえに、「ネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった」という問題が指摘され続けていた。
この二つへと分かたれてしまったイスラエルだったが、はじめに話したように預言者は互いの王朝などを通して年代を書き記し続けていた。それは、一つの国であることを示し続けたからであった。支配が二つに分かれたことは預言者にとっても大変残念な出来事だった。しかし、それが主のみ旨であり、神が豊かに行おうとしているご計画があることを信じ、それらを表すために彼らは記し続けたのである。先月も語った通り、これに歴代誌を加えて読むことで、時代を詳しく読み解くことができる。しかし、それでは列王記の預言者が、その時代や神のみ旨とともに、王たちを評価しているという事実を見逃してしまう。アザルヤという王について語られているが52年という長い間王として彼はユダ王国を治めた。しかし、預言者たちが記すのは、彼が正しい形で王位を守ることができていない姿である。ツァラアトに犯された姿から王の問題を指摘し、その故に晩年を王位から退けられることになる。彼の子であるヨタムが変わって宮殿を管理し、国の人々を裁いていた。それは事実上その王権がヨタムに移り変わっていたことを意味している。長い年月の王位は本来賞賛されるべきである。しかし、そうはならなかった。確かに「神の目にかなうものであった」という言葉から白か黒かという評価で表すならば、白であった。とはいえ、その姿は限りなく黒に近いグレーのようなものであった。それは神が与えた祝福の機会だった。神からの憐れみや祝福はそれを正しく受け止めなければもっと悪くなり、加速する。それはそこに侮りがあり、自分たちが行っていることは神の承認を得ていると思い込むからである。本来は注意を払い聖言にきき従い、自分を吟味していかなければならないのにもかかわらず、祝福と恵みをはき違えるということが恐ろしい結果をもたらすのである。14章には警鐘がなされ、15章では北王国イスラエルが滅びに向かっていって加速している事実が記されている。祝福と恵みということにおいて考え違いをし、自らの行っていることの正しさを誤認してしまうことは大変危険である。一面神の大いなる憐れみで「このままでは滅んでしまう」という現実を回避したという事実を正しく理解しなければならない。どのような状況においても主の御心を探りながら、恐れ畏んで生きなければならない。そうでなければ、状況が悪いと失望し、良いと傲慢になるという人間の愚かしい姿を現してしまうからである。逆に言うならばどうにもならないときにこそ、信仰をもって主を探り求め、主がどのように事を進めようとされているのかを考えていかなければならない。そして自らがどのように歩むべきかと考え、真理を捉えていくべきである。王たちは決して無力ではなかった。しかし、物事を正しく行うことができなかった。王国の終わりが近づいているのに、それを見ることをしなかった。というよりも見る力がなかったのだ。なぜなら助けとなるはずの聖言がなく、指標となるはずのものがないからだ。なぜ彼らには無かったのだろうか。それは、ダンとベテルの偶像のゆえに、真の神に聞くということができていなかったからである。聞かないことに慣れきってしまっていたのだ。そんな彼らに回復の道は残っていなかった。信仰者であるとかないとかに関わらず、その状態での回復は不可能である。とはいえ、そう言い切れるのは他人事であるからだ。自分自身のことは見えない。だからこそ、愚かにも滅びに向かっていってしまうのである。私たちは新約の時代に生き、イエス・キリストの愛の中に生きている。しかし、その中で歩み続けていけるかは重要である。旧約の時代においても神の約束の中に生きればよかったのだ。だからこそ私たちも畏れ、信仰生活を豊かに歩まさせていただきたく願う。豊かにと強調するのはその「豊かな」神との関係によって私たちはリスクを回避することができるからである。私たちは完ぺきではない。油断をしたり時に怠惰になったり、心を違うものに奪われたりしてしまう。それは確かに人間であるゆえの誘惑である。しかし、そこから神を信じないというところまで自らを落とさずに済んでいるのは、神との豊かな関係の中に身を置くことをあえてし続けているからである。それゆえに回復が与えられている。私たちは旧約聖書を開きながら、この当時の様子と照らし合わせ、自らの人生を考える。当時も貧富の差もあり、社会に悪が蔓延しているような状況だった。彼らは聖言に立ち返ることが無かった。私たちはそこまで悪くないと言われるかもしれないが、私たちもまた自分にとって都合がよければそのことを忘れてしまいがちな恐ろしい心根を持つものであることを注意していきたい。この時代の中で私たちは教会とともに歩まさせていただいている。その中で豊かに愛する者たちへ信仰を継承させていただきたく願う。今晩このようにして主の前に出させていただくゆえに集った一人一人への神の豊かな憐れみが尽きないことを願う。
Q:福音を伝える際に個性を用いていくというようなことが礼拝で語られていたと思うのですが、どういうことでしょうか。
A:相性や賜物というものについて語ったところだと考えられる。それが相手との関係を成立させるうえで、必要な要素であるということだ。私たちは福音に携わるゆえに八方美人のような姿であることを連想しやすい。しかしそれは福音に携わるうえで必要な要素ではない。八方美人は自分が相手に好かれるという思いからなるものである。もちろん、福音に携わるゆえに神が恵みとしてよい香りを放つ存在に導いてくださったことで人から好かれるならばよい。しかし、そうではなく、いい人になりたい、人気者になりたい、賞賛されたいという思いで行っていることならば、それは誤りである。結局福音という形で偽り、自分を売り込んでいるようなものになってしまうことを注意したい。また、そうでなければならないと勘違いすることも誤りなのだ。それは、人間的な考えで福音に混ぜ物をしているような状態である。なぜなら福音はイエス・キリストを伝えることだからである。そうではなく、自分を伝えたり、それによって地位を得たりするならば、異なったものになるのだ。もちろん、はじめに述べたように、福音を語ったゆえに様々な恵みを受けたのならそれは神からの祝福であり、喜んでよいものだ。福音は神がその人の賜物を用いて、選び語られるものである。時には相手にとっての福音を伝える相手が自分ではないということも起こってくる。それならば、潔く手を引かなければならない。もちろん誰でも彼でも自分の相手ではないと手を引いていてはいけないが、恐れ畏みながら聖霊の言葉に耳を傾け、相手との関係を作り上げていく必要があるのだ。この教会でも多くの方が福音の中を歩んでいる。そしてそこからまた信仰者を用いて導かれる。そこには多くの賜物が存在するのだ。時には誘ったのはわたしなのにということもある。しかし、そこに神の選びが確かに存在するのである。教会は多くの人の賜物が発揮される。そこで自分がすべきこと、誰かがした方がいいことが出てくるのだ。それは人間的な考えではなく、神が選ばれ、導かれたその召しによるものなのだ。それによって互いが結び合わされ、神による最善がなされるのである。だからこそ、人間的な思いではなく、神のみ旨、導きを実行するものとなさせていただきたく願う。
この時代は預言者だったが、現在はその役割を牧会者が担っている。だからこそ、それらの対象とコミュニケーションやかかわりを持っていく必要がある。もちろん牧会者は相手の悩みに直結する答えを与えてくれるとは限らない。むしろ異なる場合が多い。例えば、商売のことを聞いたとして、帳簿のつけ方を教えてくれるわけでも、仕入れの方法を教えてくれるわけでもない。しかし、神とのかかわりを交えた商売というものに対する答えをくれる。そこには一見まったくつながっていないような事柄に思える出来事でも答えから必要なことを行っていくと自分の思い、願いへの応答が与えられる場合があるのだ。社会は決して切り離されたものではないのだ。社会生活においても聖言や牧会者の語る神の言葉に従い歩むならば必ず神が導いてくださる最善がある。なぜならこの世界は神の造られたシステムによって動いているからである。だからこそ私たちはそれを豊かに信じ歩みたい。なお、日々の働きに求めがあるならば、語る時間を取りながら、共にその日々を歩まさせていただきたく願う。
もう一つ付け加えるなら、個性の中に何があるかというと、人を評価するという力になる。同じことを複数の人が見ていたとしても、その出来事を評価するか否かはその人によって異なる。それは本来神への奉仕や、働きというものである。しかし、その中で互いに評価しあい、慰め合い、励まし合うことができる。もちろん同じ人の評価だけで満足していてはいけない。その中でさまざまな人から評価を受け、自分もまた、相手を評価する。それによって互いに変革や影響を与えることができるのだ。これもまた積極的に意識して行う必要がある。そのコミュニケーションが重要になるのだ。私も夫婦で意見を交換する。価値観は一致しているが、個性は異なるために違った視点、与えられる影響も大きい。現在は若い先生方もいるためによりその部分が広がっていると感じる。なお教会だからこそ、導かれるそのつながりも大切にしていきたく願う。
Q:相性は時間とともに変わることはあるのでしょうか。
A:相性は変わる。というのは、はじめは互いに気を使い距離感を図っているような状態である。だからこそ、時間とともに互いに本来の姿を出してくると、相性があっていたと思ったのに、合わないということも起こってくるのだ。だからこそ、そのように感じたのなら、手を引いた方がよい。ましてやそれが自らを苦しめるようなものになるならなおさらである。その相手には自分は合わないのだと思った方がよい。そうでなければ最初に語ったように八方美人の偽りの者になってしまう。本当に必要なのは、その時に潔く身を引くことである。それでも時に相手の方から距離を詰めてくることもある。その場合にも、無理に対応するよりは、直接本人に距離を取りたいことを伝えるか、誰か異なる人を通して、伝えてもらうとよい。無理に語る福音は福音ではなくなる。そのことを大切にしていただきたい。
Q:伝道者の書1章12節から18節ですが、18節の「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す」と語られていて、そのことについて先日台所で思ったことについてお話したいです。私は知識ということについて、子どもたちの将来を考えたときに勉強が少しでもできた方がよいと考えていました。だからこそ日々の中で子どもたちにそのように伝えているのですが、この箇所を読んだときにどうとらえるべきかと思いました。先生はお子さんにどのように勉強や知識について語ったのでしょうか。
A:私は行くべきところが決まっているので行かせていると言えます。勉強ということよりも、学校に行くべき時期だから行ってきたらよいと伝えていた。中学でやめて仕事してもいいし、高校でやめてもいいし、大学まで行ってみてもいい。信仰者において「おおよそ」であるということは時に大切である。この場合の「おおよそ」というのはいわゆる「多くの人と変わらない」ということである。逆に言うと「うちの子は特別だ」と持っていきたくなる親が多いと思われる。しかし、私はその意味で他の子と同じでいたほうがよいと思っていたし、そのように伝えた部分もある。とはいえ「隣の子がゲームを持っているから私も欲しい」などということを受け入れるのとは話が違う。ただ、勉強などにおいては「なぜ勉強しなければいけないのか」という質問を真剣に子どもがしてきたら、真剣に答えていく必要がある。そしてそれが更に信仰とどのように結びつくのかという点においても十分に考える必要があり、大切なことだ。それは母親として最低限子どもを愛するうえで必要な労苦であると思う。質問をされる前に「わたしには質問しないで」というのは良くない。子どもたちが聞いてきたときに答えられるようになることが重要である。本来答えがあるものをいつか聞いてきたら答えようと考えるものは対外聞いてこない。だからこそ、常日頃からいろいろなことを吟味し、考えている必要がある。あなたの息子たちが聞いてくる質問はきっと勉強に対すること以上に難しい問題であると思う。本来親が親として生きている営みであり、信仰者として生きている営みなのだ。時には潔く「わたしにはわからないからあの人のところにききにいきなさい」ということもある。それでも良い。もちろんすべてを丸投げにするのはよろしくないが。忙しいだろうし、考える時間もなかなか取れないような日々だろうと予想できるが、優先順位でいくならば、それよりもまず、子どもたちを愛するゆえに、そちらを考える時間を確保していっていただきたい。それによって何を思い描いていくか、神が力を与えてくださるか、そのようにして考えているからこそ、日々の中やデボーションの中、礼拝でそれらが導かれていくのだ。価値観の高いものはもちろん低いものまでも神が必ず答えと知恵を与えてくださるだろう。子どもたちのことを考えながらあなたが導き出した答えならそれが同じ答えで、時に「それしかないの」と子どもに言われたとしても、本当にあなたが神から導かれたものならばそれこそが正しいのだ。子どもに勉強しなさいということが愛することかというならば、そうではないと思う。それより、子どもを愛し、観察し、相手への求めに答えようとするようになる。それは結果的に相手の質問を待たずに、語るということも増えてくる。食事の時にぼそっと聖言から与えられた、導かれたことを語りたくなる。それが子どもの中にたくわえられ、どこかで必要な時にそれが子どもの中で思い出されるのだ。
私たちはとにかく子どもたちにいろいろな話をした。それが人格の中に蓄積され、信仰者として生きる上での重要な要素を植え付けることになる。そしてそれが当然のものになるのだ。問題は学校の勉強の話だが、できすぎると悩む。本人だけでなく親も悩む。だからおおよそでいいのだとすることも大切である。あなたの息子たちは先週の土曜日でジムに行くのは4回目である。だがすでに私が木曜日にジムに行くと「あら今日は御一行様いないの?」「違うわよ彼らが来るのは土曜日よ」「小学生の子可愛いのよね」「一生懸命で礼儀正しいし」なんて話になる。彼らは多くの人の注目の的なのだ。そして一年先を行っている先輩は、先輩として彼らにいろいろ教えている。それもまたジムの人の関心事なのだ。子どもはどんどんと手を離れて社会を形成していく。だからこそ、子どもをよく観察し、コミュニケーションをとっていただきたい。
Q:先日のメッセージの中で「社会でも家庭でも個人が尊重されている。しかし、私たちは価値観が受け継がれていくことを大切にしていく」という話がなされていた。先日両親と将来について話したときに父はまさにお墓の問題で面倒をかけたくないから自分たちで終わりにするという先生の語られた事とは正反対でした。父の気持ちも自分が育てられてきた今までを思うと確かにそのように感じると思いました。そのようなことも父から受け継がれたものだと感じている。ほかにも教わって私に残っているものがたくさんあります。だからこそ、親に対して、私はつながり続けていきたいと思うのですが、どのようにして伝えていけばよいのでしょうか。
A:年を取っていく親に対する福音宣教だと思う。それは難しさを伴う。というのは、親を知っているからこそ、福音の真理から遠いと感じてしまうのだ。あなたが福音に入り、イエス・キリストに出会ったプロセスを考えると、なかなか難しいと感じるだろう。だからこそ、待ち続けていく姿勢と、その心を持ち続けていく必要性を感じる。先ほどの話と同じようにそのようにしているからこそ、聖霊を通して語られる言葉があるのだ。もちろん一問一答を持っていると安心する。そのための準備も重要である。ただそれは一言一句覚えて答えることが重要なわけではない。世の中的には娘が二人ならば、嫁に行ってしまうなら自分たちの墓は絶えるということになってしまう。しかし、あなたがそれをつなぐということを語ること、あなたの二人の息子のうち片方がついでもいいということも考えていけるのは世の中とは異なる価値観があるからなのだ。それは確かにあなたの思いとして語っていくとよい。その背後には確かにあなたの中に福音宣教としての思いも込められている。ただ、それをあまり表に出しすぎると本当にあなたの愛ゆえの行動なのに、「教会に来てほしいからこんなことするの」という方に結び付けられて逆効果になってしまう。だからこそ「私はお父さん、お母さんに許される限り、一緒に生きていきたいと願っている」と伝えていくとよいのだ。ただ、物理的にも心理的にも距離が空くと、そのようなことを伝える機会もなくなっていく。だからこそ、共に生き、あなたや子どもたちの姿を通して伝えていくことも重要である。特に父親にはプライドがある。あなたに迷惑をかけたくないというのもそれが起因している。ただ、家族の関係の中ではそのプライドを置いて「わたしに愛させて」ということが必要なのだ。そこにこそ香る信仰者の福音があるのだ。あなたが旦那さんに「結婚するの、しないの!」と迫まってまでも関係を持ちたいと願うほどの思いを旦那さんの信仰者のかおりを通じて抱いたように、同じ思いをあなたの両親にも抱かせるようにしていきたい。あきらめてしまわないことが重要である。親子であるからこそ「無理かな」と思ってしまう。そう思わないようにしたい。わたしにも福音は届いたのだから、両親にも届くと願い、信じ歩んでいただきたい。
Q:創世記3章2-6節のところで蛇の誘惑に負けてエバが禁じられていた木の実を食べてしまったところなのですが、このところを解説している本を読みました。その本では「エデンの園でサタンがエバを誘惑する前は、感謝することは息をするように自然なことだった。サタンはエバをそそのかし、彼女がただ一つ禁じられていたものに関心を向けさせた。エデンの園にはいかにもおいしそうで食べたくなるような果実があふれていた。それなのにエバは手に入れられるたくさんの良いものに感謝をしなかった。そして彼女の関心は手に入れられないたった一つの果実に向けられた。こうしたネガティブな関心はエバの心を曇らせ、彼女は誘惑に負けてしまった。あなたの関心が持っていないものに向くとあなたの心もエバのようになる。」このところから誘惑に負ける過程について腑に落ちるものがあった。よくお題目のように感謝するということがあるが、私もそのような思いを持っていた時もあったように感じる。本来ならば、感謝しなければならない事柄や、守られた事実に気が付き、それを大切にするということが必要なのにも関わらず、そうできない自分がいた。私は病で入院していた時にカレーが出た。ご飯もルーも冷たく、あまりよろしくないものであった。当たり前にあるようなものがあたりまえでなかったことに気が付けたのはそのようなことがあったからだと感じた。今更かと思われるものかもしれませんが。
A:あなたはそのようなことを弱さとしてとらえ、克服しようと試みるが、それはそのような霊的感性を持ち合わせている人においては及ばないものである。もちろんだからこそ、そのまま行かないで、そのような機会を通して、もう一度考え直せたことを感謝すべきだ。私は余計なお世話かもしれないが、あなたはどれだけよいことがあっても一個が気に入らないとすべてが気に入らないとなっていた昔に比べて、感謝できるようになったことは本当に幸いだと感じる。そのように変えられた事実を私は見て、福音と神のみ手が働いていることを感じる。ただそのエバの問題は、様々なメッセージがある。それが正解というものでもない。「あなたも感謝しないとエバのようになる」ということであるが普段から感謝している人にとってはとらえるに値しないことになる。であるなら、あなたの目に留まったそのことはあなたにとって必要なこと、弱さにつながることなのである。そして、そのことがわかるならば、その弱さをそのままではいけないなと思う重要なことにつながる。この場では様々な人が質問をしているが、だんだんと聞かれている内容は決まってくる。その中で同じことが語られているとただ流して聞いているか、そこから導かれることを探ろうとするかでは大きく変わってくる。このエバの個所も、神は約束を違えた彼らに対して滅びをすぐさま与えたのではなかった。皮の衣という犠牲がそこで払われた。ここにイエス・キリストの贖いが予兆されている。人間は確かに罪深く、過ちを犯すが、神はその所に救いの手を伸べられ、私たちの罪を覆ってくださるのである。そして、エバからは生みの苦しみはあるが、子どもという存在が与えられることとなった。誘惑に陥らないことは大切だが、陥ってしまっても悔い改めることを通して回復していくことが重要なのだ。あなたは冷たいカレーを食べないために入院しないと結びつけたが、人によっては冷たいカレーも感謝して食べようという人もいるだろう。そのような話、コミュニケーションをしていくことが重要なのだ。先ほどにもあったようにそのようなことを語るからこそ、子どもたちの中に信仰の真理が残っていくのである。そうやって神が教えてくださることを大切にしたい。私は余計なことと最初に語ったが、私があなたと共に歩んできたことや、神を間に挟み、関係を持ち続けていくことが大切なものになると感じる。本当に感謝をし続けながら、挑戦していくことを大切にしたい。
なお私たちの信仰生活の中には悩みや、苦しみ、誘惑もあるが、あきらめず挑戦しそれを乗り越えながら、立ち続けていきたく願う。