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質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-166 —
-- 2025年3月 開催 --
山本 咲
列王記Ⅱ 14章
イスラエルとユダ双方の王が対峙している様が記されている。この章はユダの王について語られているところであるが、この時代、王が暗殺され続けた中でアマツヤが王となった。彼は問題を抱えつつも王国を築き上げていこうと取り組んでいった。しかし、その流れに翻弄され、滅びへと向かうことになる。ここではアマツヤが戦いを仕掛け、南北の戦争が始まる。アマツヤについては歴代誌の中にも詳しく書かれている。列王記を読む際に歴代誌を参考に読み解くこともよいが、どちらかというならばわざわざそれぞれの書がその目的を持って書かれているという事実を大切にしたい。列王記の中で完結し、その出来事を捉えることも必要なのである。エドムに勝利したからといってアマツヤはさらに戦いを起こす必要はなかった。しかし、書いてある通りその戦いは避けられないものとなった。歴代誌を読めば、その理由の一部に雇った傭兵が悪さを働いたことがわかる。しかし、列王記にはそのことが書かれていない。ならば、このことを列王記のみを読みつつどのようにとらえていく必要があるだろうか。アマツヤは父親が暗殺されたことによって王になった。しかし、彼は自らの手に権力が本格的に与えられることを待ち、その時が来ると力を発揮し始めた。それはまるで抑えていた時代を超えて自らを解き放つような姿である。彼の傲慢な心がそこに現れていると読み取れるだろう。イスラエルはダンとベテルに偶像があるような状況の中でそれを取り払えずにいた。しかし、神はその状況をじっと忍耐しておられたのだ。そしてこのまま行ったならば、北王国も南王国も滅んでしまうというところまでくるとその力を表され、憐れみをもって彼らを救われた。しかし、彼らはその神の救いを喜び、神を讃えるのではなく、ただただその恵みを享受し、自らの欲望を満足させているような状況に陥っていくことになる。神の憐れみの前に悔い改めるのではなく、彼らはどんどんと罪へと陥っていくのだ。そして、強者は弱いものからその祝福をかすめ奪い、悪行をかさねていくことになる。
ここには王権争いのために多くの人が奪い合いをしている姿が書かれている。ダビデが築き上げた一つの王国の姿はもはやない。神の憐れみを受けている自らのことをもう一度見つめなおし、遜り、悔い改めて生きることの必要性が示されているのだ。聖書はイスラエルとユダ王国の王たちについて表し、一時の繁栄の時代を越えて彼らが滅びに至るその原因をここに記している。私たちはこれらの書をもう一度読みながら、自らが日々の営みの中にあってどのようにして罪から離れていくべきか、また、罪に陥った際にどのようにして遜り、悔い改めていくのかを考えていきたく願う。また日々神の忍耐、憐れみ、祝福に感謝し歩み続けていきたく願う。
Q: 26節の後半に「奴隷も自由の者もいなくなり、イスラエルを助ける者もいなかった」と書かれていますが、これは誰もいなくなったということでとらえ方はよろしいのでしょうか。
A:誰もいないということではない。しかし、彼らがどれほど切羽詰まった生活をしているかを表しているのだ。奴隷は勝利すれば得ることができる。だからこそ繁栄の象徴として記されている。また自由にはある程度の余裕がなければならない。ここは彼らの生活レベルがそこに至らないことを表している箇所だと言える。エドムに勝利して国が豊かになるはずだったのに、そのまま北王国に挑み負けたせいで、戦費ばかりかかり、戦利品を十分に持ち帰ることができなかった。必ずしも裕福はイコール祝福ということではないが、確かにその部分が結びついているときがある。アマツヤという人物は二面性が強くあったことを聖書は記している。彼は神を信じていながら、それを徹底することができないゆえに祝福に至ることが無く終わってしまった。彼らはエドムに勝利した際に自らが主に祝福されていると勘違いをした。実際はその勝利は神の憐れみだったのだ。だからこそ、その憐れみを正しく受け取らず、傲慢になった彼らは滅びへと向かうことになる。私たちは二代、三代と信仰を重ねながら人生における神の祝福や、その憐れみということを生活と結び付けていくことができている。それはとても幸いなことである。
ヤロブアム二世はその名からも神をないがしろにしていることがわかるが、神は彼をも憐れまれ、祝福された。祝福と裁きは私たちの信仰生活とマッチしているのが本来あるべき姿である。しかし、それが一致しない時もある。しかしそれが憐れみで与えられているという事実は私たちと神との関係が乖離しているような状況だと言えよう。私たちも人と関わる際に本来怒る場面なのに怒らなかったり、うわべだけで笑っていたりするような関係がある。それを思い浮かべてみると何とも寒々しい関係である。ということは神の憐れみによってのみ維持されているような関係もこれと同様である。だからこそ、その終わりが急に来るということもある。神は私たちから離れていかれるということはない。しかし、私たちがそこから離れていくことによって関係が絶たれてしまうのだ。神の愛に無頓着に生きるのではなく、本来の正しい関係を維持していきたく願う。
更に付け加えるなら、先ほど開いた個所においては民がどんどんと離れているその状況があらわされている。神が助けの御手を伸ばしているのに、彼らは決して信じないのである。
Q:先ほどの語られているところと今晩この始まりに賛美されたところに「世人よこの聖言をむなしく聞き流しなば、悲しみくゆるときあらん。新たにうまれよ」と歌われていました。このことに確かにそうだと思わせていただきました。
A:神はすぐに白黒はっきりさせる方ではない。なぜなら神は人格が救いに導かれることを願っておられるからだ。人の自由意志がそこにはある。裁きがあるということは神のご支配の中にいきながら、許されている自由がそこにあることを示している。裁きとは悪いことに対して行われるものだけではない。良いか悪いかということの決定が行われるということなのだ。私たちは悔い改めをなし、神のご命令を守り生きる時、裁きの時にいのちが約束される。人は一度死ぬことと裁かれることが定まっていると聖言に書かれているようにそれを覆すことはない。だからこそ、その中でどのように生きるかが問われているのだ。
隣人が救われるか否かということは私たちが本来口を出すべきではない。しかし、その讃美にあるように、相手が「悔ゆる時」がないように愛する者に対し神の救いを述べることが許されている。それが福音に生きるという神が導かれているところなのである。それが今、礼拝で語っているイエス・キリストの弟子となるということなのだ。イエス・キリストは「わたしは父をあなた方に示したし、父が何を御心にしているのかをあなたにも伝えている」と語られている。私たちにはその真理を悟ることが許されているのだ。
Q:先日の礼拝で、私たちの自由について「自分の行いが神のみこころと一致している」ということが重要だと感じたのですが、実際神のみこころと一致していなかった際に「なぜなのか」と思う時もあります。そのときにどのような思いをもっていったらよいのでしょうか。
A:御心に対する選択に御旨があり、「やる」「やらない」「いく」「いかない」というような端的なものの中に示される時もある。私たちの主義主張の中にもその御心が反映されていくものである。会社で業績を上げることが御心である。そうすれば献金もできて神が喜んでくださると考えたとしよう。しかし、そのために集会出席ではなく、仕事を優先しているということが起こってきたとするならば、それは本当に御心を行っているのか、それとも、自分の出世と給料を増やそうという自分の思いが隠れていないかと考えていかなければならないのだ。しかし、それはそう簡単にわかるものではない。だからこそ、神と共に生きる選択をすることが重要なのである。それによって自らの思いの出所を知ることができるのだ。理屈で真理を捉えるのではなく、神が何を喜ばれるのかを人格的に捉えていくことが必要なのだ。「神は献金を喜ばれると思っていたけれど、それで集会に出られずに神から離れていく私を悲しんでおられるな」と捉えられるようになる。私たちは月1回2時間ほどのたったそれだけの時間、家庭集会を行っている。その中で個人的に関わりを持ち、やり取りをしてその中でアドバイスをしたり必要を伝えたりしている。その交わりの中で言われたことをやってみようと取り組んでみればその成果や状況の変化が見えてきてそれを伝えたくなる。そのようにして何度もやり取りをする中で物事が良い方向へと進んでいくものになるのだ。神との交わりも同様に親しく密に行なうことを通して御心を知ることができる。結婚するまでにはあなたの中に奥さんのために家事を共にしようという考えはなかった。しかし、考えが変えられ、今はあなたは自らの進んでするべきところを担っている。それもまた自らに示されたことをあなたが守ろうと歩んでいるからである。なお、取り組んでいただきたい。
Q:最近私にある賜物と、ない賜物、気づいていなかった賜物の三つを示されました。気づいていなかった賜物は隠されているということでよろしいのでしょうか。
A:そうだと思う。多くのことが隠されているなかで、逆に言うと本来無い賜物を自分の賜物だと勘違いしてしまう場合もある。だからこそ誰かの言葉を大切にしていく必要がある。特に親は子どもに対して「あなた勘違いしているよ」と示す必要がある。それは聞きにくいことであるが、それを聞ければ客観的に自らを捉えることができる。そのためには違うなと思っていても、まず「そうですね」と相手の意見を受け取っていく必要があるのだ。そうでないと飛び上がれると思ってバタバタと足を動かしていても飛び上がれない水鳥と同じようになってしまう。飛び上がることができれば景色も変わり、それを繰り返せばより高く上手に飛べるようになる。しかし、そのためには飛び方を学んでいく必要があるのだ。愚かな鳥にならず、賢く更に高く飛べる鳥になっていただきたい。
Q:デボーションの本の中で歴代誌Ⅱが開かれテーマが「いかに生きるか」ということだったのですが、ヨアシュのようにではなく、エホヤダのように生きなさいと示されました。そして最後にあなたはどのような方向を向き、どのようにしていきたいかを求めていきないさいと示されました。私自身家計のために遅い時間の勤務に身を置いていますが、家庭にとってそれが良かったのかと考えさせられました。私はどのようにしていったらよいのでしょうか。求め続けて神のお返事を待てばよろしいのでしょうか。
A:私は神を信じて生きるということをどのようにして実行していくかということが求められていると思う。私たちの見えている景色が良い時には神を信じやすい。こうしなければならないということの先に結果的にことが良い方向へと進んで行きそうな状況が見えかけているとき、それは見えている景色が良いと感じる。しかし、これから出ていこうとするときに雲行きが怪しいとなると足も止まりそうになるだろう。ただ、その中で神を信じ、力づけられ、その一歩を踏み出していくということが神と共に生きるということなのである。あまりにも色々なことを考えすぎて、問い続けていると悩みに呑み込まれてしまう。神に問うならば、神がその時、黙っておられ応えが与えられないということが導きかもしれない。ここに集う人々の中にどれほど自分の人生を納得の中で生かしているだろうか。ほとんどの人がそうではない。しかし、それを待っていてはことが動いていかない。あなたはどちらかというと楽観的ではない。むしろ心配ばかりして物事に向かうタイプだろう。しかしそのままでは信仰に結びついていかない。あなたは信仰で結婚した。だからこそ家庭においてあなたの役割も信仰において行われるべきである。その中にあなたが真実に生きているならば、その信仰を神は必ず受け入れてくださり最善を導いてくださる。
Q:ヨシュア記3章8節「ヨルダン川の中に・・」15節「箱を担ぐ者足が触れた時・・・」と書かれています。ヨシュアが神に命じられたことを民に告げて、ヨルダン川を渡ったということについて信仰書に「ヨシュアの決断は信仰によるのでなければ不可能だった。」と書かれていました。昨年末に宅建師として雇っていた方が亡くなりました。もうしばらくお願いできるかということを期待していた矢先に亡くなられ、思いがけないことでした。一ヶ月の間に新しい宅建師が与えられなければ不動産業をすることができなくなるということで祈り求めました。三人の方が募集に応えたのですが、辞退された方やなかなか折り合いがつかずにいた方などがおりました。その中で期限を前に付け焼刃のような形で雇ってもいいのかと悩み続けました。現実的にはその1ヶ月の期限という大きな出来事を前にとりあえずと雇ってしまってもしょうがないような状況でした。しかしそのような中でも私は待ち続けるという選択をしました。その後、結果的に期限ぎりぎりで信頼できる方が導かれ、今その方と仕事をしています。その他にもこれまで大きな仕事が舞い込んで期待をするたびに、キャンセルという形で悲しむという出来事が何回かありました。しかし、いま大きな仕事を前にある程度の確約が取れ感謝を覚えています。
A:私たちは生活で自らの信仰を知り、試されたところから結果を知ることができる。とはいえ、自らの信仰をどこかにおいて日々を普通の人のように歩むこともできる。昔は色々な場面で試された。それは仕事終わりの飲み会や仕事が日曜日にかかるということなどだ。しかし、今はそういう機会も少なくなってきた。ある意味で安泰と呼ばれるような日々を送ることができるのだ。だからこそ、自らの召しを探そうと思わなければあっという間に10年20年経ってしまう。そして振り返った時、自らの信仰って何だったのだろうというところに立たされてしまうのだ。ある家庭集会では「私たちは何を召しとして担っていけばよいでしょうか」と問われた。その様に置かれた状況に甘んじて生きるだけではなく神は何を自らに求めておられるのかを課題として歩まなければならない。キリストの贖いによって与えられた新しい人生の醍醐味がそこにある。その様にして導かれた歩一つ一つには時に恐れや迷い、困難が当然伴うだろう。しかし、あるところに来たときに「なぜ主はそのようなことを示されたのだろうか。私の人生のこの時には何があったのだろうか」と考えていくことができる。そして、自らの人生を振り返ることで見えてくるものがあるのだ。いかに豊かに主によって自らが育まれたか。同様に神によって育まれたお互いが共に刺激し合い、励まされて生きて来られたか。祈っているよという言葉がご挨拶だなと思う人と、本当に祈ってくれているということを感じる人がいる。それを互いにしあう中で、神を見出すことができる。私はあなたの営みを見させていただいているが、色々な戦いを越えてきたことを知っている。また、絶えずチャレンジし続けていることもそうである。私は先ほどの話ではないが、客観的にあなたの姿を語ることができる。そして、時には無理やり行きたくないようなところに追いやられることも知っている。ヨセフは大臣にまでなったが七年の豊作と七年の飢饉が夢で示されたとしても、本当になすべきことができるかどうかは重要な問題だった。彼はその神の示された夢を信じて七年穀物をため込み、七年それを豊かに譲り渡したのだ。それによってその時代の人々を救い、同時に莫大な富をエジプトにもたらしたのである。ダビデの祝福はイエス・キリストまでつながった。同じように私の娘が牧師になったことで、牧師は四代つながった。尚、共に信じてヨルダン川を渡って行きたく願う。この時期のヨルダン川は雪解け水であふれかえっていたにもかかわらず、進み行く必要があった。そこに信仰が必要だったからである。ギデオンは300人足らずで勝利を収めた。その必要があったのだ。信じてついてくるだけ大したものである。信じさせるだけのものがあるから信じてついてきているのだ。同様に私たちの生活の中に使命を見出させていただきたい。そしてなお主のために戦い続けていきたく願う。