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キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(63) —

野澤 睦雄


「あなたがたは、わたしにとって聖でなければならない。主であるわたしが聖だからである。」 (レビ記 20:26)
「主よ、神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方がいるでしょうか。」(出エジプト記15:11)

1.「神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。」(創世記 2:3)
2.「主は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。 神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」」(出エジプト記 3:4-5)
3.「あなたは彼らを導き、あなたのゆずりの山に植えられる。主よ、御住まいのために、あなたがお造りになった場所に。主よ、あなたの御手が堅く建てた聖所に。」(出エジプト記15:17)
4.「『・・あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』」(出エジプト記19:6) 5.「主はモーセに言われた。「あなたは民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、自分たちの衣服を洗わせよ。」(出エジプト記19:10)
6.「ただ主ひとりのほかに、神々にいけにえを献げる者は、聖絶されなければならない。」(出エジプト記22:20) 7.「アロンは年に一度、その角の上で宥めを行う。その祭壇のために、罪のきよめのささげ物の、宥めのための血によって、彼は代々にわたり、年に一度、宥めを行う。これは主にとって最も聖なるものである。」(出エジプト記30:10)
8.「あなたはイスラエルの子らに告げよ。これは、あなたがたの代々にわたり、わたしにとって聖なる注ぎの油となる。」(出エジプト記30:10) 9.「主はモーセに言われた。「あなたは香料のナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香と純粋な乳香を取れ。これらは、それぞれ同じ量でなければならない。 これをもって、調香の技法を凝らして調合された、塩気のある、きよい、聖なる香を作れ。また、その一部を打ち砕いて粉にし、その一部を、わたしがあなたと会う会見の天幕の中のあかしの箱の前に供える。これは、あなたがたにとって最も聖なるものである。」(出エジプト記30:34-35)
10.「その者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた、神の憤りのぶどう酒を飲み、聖なる御使いたちと子羊の前で火と硫黄によって苦しめられる。」(黙示録 14:10)
11.「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」(マタイ 21:42)
12.「私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。」(マタイ 3:11)
13.「『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか。」(ヨハネ10:36)

4.救ってくださる神

 次に「神は聖です。」ということを考察しましょう。神はご自身の性質として「聖」なるお方です。
 神はなぜ人間を創造されたのか。救いの恵に与り、神と共に生きている生活があり、教会に通って真摯な信仰生活をしながら、聖書や信仰に関する書物に触れているとだんだん分かってくることでしょう。ひとによっては自分で知ることができないで、先生に教えていただくことが必要かも知れません。神は人との交わりを望まれたのです。神も人間と同じです。話し相手もなく一人でいるそんなつまらない事は無いでしょう。
 人間の形をしていても、全部自分がプログラムしたとおりに行動するロボットでは、交わりになりません。交わりができるのは「人格」をもち、自分で判断し、自分で意志して行動する自由の人でなければなりません。神は人間を、自由意志を持った人格として創造されました。そこに交わりの可能性とともに罪に陥る可能性もありました。そして世はその通りの展開となりました。ところがハイパーな(強硬な)カルヴィン主義の人々は、人間は自由のつもりでも、神が定めたとおりのことをする、自然もすべて神の定めた通りに進行する、と主張します。それでは人間は決められたプログラムを実行するロボットと全く同じで、自由意志は存在しません。親しい交わりができるための条件は、「互いに等質である」ことです。それが「神が人間に聖であることを要求する」理由です。(レビ記 20:26)
  先に、イエスの十字架の死による「贖罪」によって、人間は「救いの恵みに与る」ことを述べました。救いは「罪の赦し(義認)」と「新生(天、霊のいのちに誕生すること)」から成り立っています。
 イエスの贖罪は、この段階で終わりません。人間に神の「聖」を授けられます。それでその恵みを「聖化」(きよめ、聖潔、などいろいろの表現があります)といいます。それには重要な二つのこと、「イエスと共に死ぬこと」と「イエスと共に生きること」があります。そしてこれは救いの恵みと同じ「神がしてくださること」です。聖化を求めるひとは、愛に生きよう、罪を犯さず生きよう、という努力に進みがちですが、それは「律法によって潔くなろうと努めること」です。 神の恵みの道はそのようなものではありません。聖化は律法によるのでなく恵みによるのです。

(印刷版にはありませんが、追加です。)愛に生きよう、罪を犯さず生きよう、自分の十字架を負って主に従って生きよう、・・・ということは大切で、実行しなければなりません。しかしそれが「聖化」ではありません。救いにおいて悔い改めは重要ですが、悔い改めが救いではなく、神が実際に罪を赦し、新生のいのちを与えてくださる事がすくいであるのと同様です。

「聖性」は神の聖の反映でもあります。上記*1-*10はその事例です。
同様に人間に聖霊が満ちて下さるとき。神の聖性がそのひとに付与されます。

(仙台聖泉キリスト教会員)