同労者

キリスト教—信徒の志す—

人物伝

- 山本岩次郎牧師の思い出(10) -

秋山 光雄

第2部  荒川教会週報抜粋集(つづき)

【1952(昭和27)年6月29日・消息欄】

 秋山光雄兄は直接伝道の為に献身を決意、総幹事会にて諒解(りょうかい)を得本日より主牧一家と生活する事となりました。主に用いらるる器となりますようお祈り下さい。                      

【1952(昭和27)年6月29日】

 此処は始めにあるように、イエス様が或処に於いて祈り給ふを弟子たちが見て『祈ることを我らに教え給え』と申し出られた時、言い給ふたである。路加伝は『人なるイエス』を即ち『理想の人イエス』を伝えん為に書かれしものと云われているが、この路加伝はよく祈られしキリストを伝えて居る。是は我らの誠とに心すべき問題である。
 キリストの祈りの態度は弟子たちに祈りとは何かをよく教えたものであろう、勿論彼の凡ては我らの模範であるが特に祈祷に於いて然りと云わねばならぬ。祈祷は我らの信仰生活の源泉であるからである。特に五節以下に目を止めたい。夜中に突然訪れられし友に最小限度とも思われる程の供給するパン(三つ)が無い為に他の友のもとにゆきて之を乞ふているが中々与えられないが、ひるまずしてひたすら求めたる事によって其願ひが適えられた事を教えて居る。勿論之は祈祷は『ひたすら』『最後まで』『應(こた)えられるまで』するものである事を教えているもの即ち祈祷に於いて何よりも持続すべきものであると云う事だと思ふ。
 切なる祈祷は何処から生まれるであろうか、旅より来たりし友に供ふべきものなし。即ち自らの欠乏を痛切に知る処から起こっている。然も友の為に彼は悩んでいる処を見る時其動機は愛より出発している事が判る。祈祷にもその程度に於いて色々あるが此処では主はは其程度に於て高い祈祷を教え給ふた。自らは既に満ち足りて床にあったであろう然るに旅より来たり空腹を訴える友の為に起き出て、他の友に行き之を訴えた。容易に与えられそうもないのに空腹な友の事をを思ひ応えられる迄求めたのである。基督者の行為は凡て愛より出発すべきを理想とする。祈祷に於いても然りである。我らの祈祷は如何に、ただ単なる自己満足であってはならぬ、我らの周囲には如何に空腹をしながら旅を続けている者の多い事であろうが之に供ふべき物のないにも拘わらず自己が満足すれば事足りているが如きは高き基督者生涯には許されないものである。率直に欠乏を認め切願せよ。

 (以下次号)

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