同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 祈祷会を大切にしよう —

「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」(ルカ 18:1)
「絶えず祈りなさい。・・これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Iテサロニケ 5:17-18)

 イエス・キリストはなぜ私たちが祈ることを望まれるのでしょうか。
 神は私たちのこの信仰の世界について、いくつかの基本的なルールを決められました。その中心にあることは「イエスを信じる人を救われる」ですが、神はさらに私たちによいものを豊かに与えることを望んでおられ、私たちの求めに応じて働きをなされることをも約束しておられます。その神が働かれるルールは、「信仰による祈り」(ヤコブ 5:15)です。神はご自分が約束されたことを違えることがおできになりませんから、信仰による祈りを祈る人は神に働いていただくことができるのです。
 このことはその逆も真であって、もし私たちが祈り求めなかったなら、神が私たちに与えようと思っておられる多くのよいものを失うでしょう。
 祈りに多くの時間を費やすことが奨励されてきましたが、祈りは決して時間だけではかることができるものではありません。しかし、教会の定期的な祈祷会は・・通常週に1回程度持たれているでしょうが・・祈りがどれだけ大切にされているかを示す重要な尺度のひとつになります。ひとりひとりの個人的な理由があり、導きがあり一律に判断されるべきではないことは当然ですが、群れ全体としてどれだけ祈祷会が重んじられているかは、その教会をはかる指標になるでしょう。個人的に祈っているから、祈祷会にいかなくてもよいなどと考えたら、その個人の祈りも虚しくなるでしょう。ある人々は、あなたの教会の祈祷会の出席者がどのようであるかで、その教会の力が分かるといいます。礼拝に100人、200人と出席するのに、祈祷会はほんの数人であるとしたら、だれがその教会を力ある教会だと判断するでしょうか。その教会が神に大いに働いていただけると誰が思うでしょうか。祈祷が重んじられないのですから、神がお働きになることは期待薄です。教会の力は神がその教会にどれだけお働きになるかであるからです。
 自分の教会の祈祷会に出席して、礼拝に出ている人のうちほんのわずかの人しかいなかったなら「悔しがり」ましょう。私の教会は、人からも「サタンからも」軽く見られていると。そして、自らも祈祷会を大切にし、兄弟たちを呼び集めて、祈祷会をさかんなものとし、自らの属する教会を力ある教会に変貌させていただこうではありませんか。

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