同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

城壁を建てはじめています

石井 和幸

「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」(Iコリント 3:10-11)

 最近、私の娘は、自分の目でみたこと、聞いたことを覚えて、模倣するようになりました。教会で歌われる讃美歌、頌栄も、一緒に、ときには家でも歌ったりしています。 また、公園の(特にテーブルがある)ベンチにすわると、(ここは会話をするところだ)と思うらしく、「うんとね〜 これさ~」とゼスチャーを交えて話しだします。まだ1歳10ヶ月なので、何を話しているのかはほとんど分かりません。 先日、家内が戴いたお菓子の箱を開けると、「うわぁ、おいしそう」と言って娘は喜び、家内が電話で、「石井ミワと申します」と言うと隣で「いしいまみだよ」と言いました。 たまに自分で受話器を持って、「え?、うん、うん、あははは!」と、親が電話する時の真似をし、「わかったからもうやめなさい」と、親に制止されるシーンもあります。 ラジオの野球中継にて、「ホームランです!」「3アウトです!」ということばを聞くと「よし!」と言ってガッツポーズをします。もっとも、親がどちらのチームを応援しているかは全くわかっていませんが(笑) ・・・娘の成長を喜ぶのと同時に、これから幼稚園、小学生と、社会生活が始まったらどうなってしまうのだろう・・・とも思います。私は決して、世との接触を極力少なくする箱入り娘にしようとしているのではありませんが、世の中にあっても、なおイエス・キリストのもとにいて、神と人に仕える子どもに育てる使命があります。
 先月号で家内も証ししていましたが、私の両親との関わり、そして、教会の先生方との関わりを大切なこととして取り組んでいます。3世代の同居に向けての準備、また、私たち夫婦が教会で奉仕する時間帯に、おじいさん、おばあさん、時には婦人伝道師の先生に娘の面倒をみて頂いています。
 先生には、教会学校幼稚科においても、1歳になる以前から娘と一対一で接していただき、(現在、幼稚科の生徒は娘1人です)大変感謝しています。そこで、私たち夫婦の視点と、先生からの視点でともに子育てを考え、教えて頂き、祈っていく時を与えられています。 また、教会建設者として、先を見据えて取り組むことも示されています。 娘と接する時に、 自分の親はどうしたか?、教会の先生方は、先輩方はどのようにしていたかが都度、目に浮かんできます。そして、指針を徹底して娘と接することを心がけます。 これから次の世代へ信仰を継承をするために、親として、教会として、そして事業家として何をしなければならないかが問われています。
 先に述べたとおり、自らがどのように教会で育てられてきたか振り返るのと同時に、これからの子どもに対して何が必要かを吟味し、模索しなければなりません。具体的なことの一つは、信仰の友が与えられることを願っています。 私は、ある2つの教団の中高生会・子どもキャンプについて興味を持っています。どちらも多くの献身者が与えられていて、私自身、どのような経緯で、どのように営まれているのか、それは私たちの信仰と方法に適用できるものなのか、これから研究していこうと思っています。
 最近、実家の片づけを手伝っていましたら、日本聖泉教会連合の第4回新年聖会(1973年)説教集を見つけました。山本光明牧師が説教された一部を紹介いたします。
 「・・・この尊い天国の鍵を与えられて、遠く広がった国としての祝福を約束されても、私達は依然として無神論的な考え方や、無神的論理を組立ててその中に在ったり、古い習慣に止まって居て、それに気づきません。広く広がらない原因がそこにある事に気づかない事です。弟子としてイエスに訓練を受けた様に、正しく牧会され、指導されて、その気づかない面を指摘されねばなりません。この世で倫理的、道徳的である事と、神の世界にある倫理的、道徳的である事が本質的に異なって居る事を察知し得ないと、伝道し、様々と労してもそのむくいを受け得ない事です。人が私共に近づいて来て、信仰の友、教会建設の場が与えられる事は感謝です。今日は人と人とが共に生かされる事を願って居る時代です。只黙して隷属して居る時ではありません。弱い時、足りない処を補足し合って生きて行こうと云う時です。神の恵みとキリストの贖いの中に在る人達が正しい意識の上に建設されていく時です。教会の建設がぼつぼつと形を表して行く時になって来て居ります。パウロの拡大された働きの中に、ピレモンの奴隷オネシモの救いと奴隷からの解放が示されてあります。パウロとオネシモとの関係の中にピレモンが居ります。ピレモンは自分の立場を正しく理解できませんと、パウロとピレモンとオネシモの関係は成立しません。」
 今、私たちの教会では、礼拝にて講壇からネヘミヤ記を通して、メッセージが語られています。私たち夫婦も、キリストにある「正しい意識」を持って、祈りつつ城壁を建てていくものでありたく願います。片手に鋤、片手に槍を持ちながら、喜びと悲しみを教会とともにしながらです。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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