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キリスト教—信徒の志す—

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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—6

 私たちの教会では8月、いつも行なわれている集会がお休みになるなど、変則的に行われました。その中で聖書を学ぶ会だけは変わりなく開かれています。
 この集会は一人一人の質問に対して先生が答えてくださるという形なので、積極的にそのところに参加する、しないはそれぞれに委ねられています。質問がなかった時は・・・と思うのですが、教会学校の高等科のクラスではくじを引いてハズレた人?ではなく、当たった数名の人に質問する権利があるそうなので、若い方々の質問がいつもあり感謝を覚えます。
 今回は高校2年の森田輝兄から「学校の図書館でいろいろな宗教の書いてある資料を見ました。そこにはたくさんの宗教があり見ていて思ったんですが、キリスト教は神様がいて、イエス様がいたという事実があるのに、どうしているいないと分かれたり、信じない人がいるんですか。」という質問がなされました。
 それに対して先生の答えは、それだけ人は不信仰でキリストがいたということは事実でも、信じるということは別なのです。神は信じるということによってのみご自身を現しますが、もう一方で隠している一面があります。人がへりくだって神を求めていかないと頭でわかっても、心で信じるということにはならないと語られました。また、そこにきちんと歩んでいないとたいへんな事になるということを先人たちは語っているんですよと。信じるということと、疑うということは常に隣り合わせで、人はいかに信じることができない者かということを思います。たとえば科学で神を証明しようとしても、今発見されているものも10年後、20年後には更なる発見がされたりと、人間は神の領域から出られないのだから信じる以外にはないこと、人間は生きる領域を超えると自分を神としてしまう危険性も語って下さいました。更に、宗教は本来武器になるもので、みんなが「YES」といった時に「NO」といえるか、「まあいいか」は大人になっても続き、子育ても親が「まあいいか」で育てていたり、仕事も人生も同じように「まあいいか」になってしまうことを語られました。
 尚信じて、主と共に歩ませていただきたく願います。

(執筆担当 茂永 和子  仙台聖泉キリスト教会会員)

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