同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞理由を問う(2) —

「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ 16:15)

 前回、主題の原因と考えられる第一の理由として述べたことは、福音を宣べ伝える側の人々が持っている福音、神から与えられている福音の質が、新約聖書の標準的な姿として示されているものに届いていないことです。これについて、既に前戦である福音宣教の現場に立っている方々は、自ら工夫し、精進し、神の前に立って、神からそれをいただくしかありません。牧師、伝道師、宣教師などとよばれる教師たちを送り出す側の指導者は格別にそれが求められることはいうまでもありません。
 次に取り上げたいことは、福音宣教の現場に立っている先生方に課せられている課題についてです。
 統計が示している結果ですが、日本の教会の会員の平均寿命は3年に過ぎないと聞いています。長く教会の席に座っている人もいるのですから、新しく教会に加わってくる信者はもっと早く教会を去っていっていることになります。つまり新人教会員は3年以下で入れ替わるということで、100人救うと100人が教会から去っていくことを意味しています。そうでなかったら、教会に人が増えていくのですから、たとえこの3年に多少の誤りがあっても、結果は五十歩百歩、同じことです。
 このことからいえることは、日本では、<礼拝だけ信者>が多いのですから、礼拝説教を3年程度の期間聞いているうちに、それを聞いた信者が福音に相応しく整えられて、キリストと共に生涯歩む心備えがなされることが必要なのであることを意味します。それができていれば、日本の教会の会員数が増えていくのですから、それができていないと結論されます。説教を聞いても、信者が変わっていかないのであれば、説教に問題があることになります。
 引用したみことばの「福音を宣べ伝えなさい」という部分は、英語訳の多くで、「福音を説教しなさい」という翻訳になっています。イエス・キリストは天に帰られるとき、福音宣教を説教という手段を用いる説教者にお委ねになったのです。説教を聞いている人々が変わっていかなければならない、罪人が自分の罪を認識し、十字架の贖いを求めて、「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と叫び出させなければならない、救われた信者には福音に相応しく整えられ、キリストのために自分の生涯を使っていただこうと決心させなければならないという重い課題を担っていることを、説教者は認識していなければなりません。この仕事は知識の切り売りで間に合うものではありません。
 この課題に対して説教者は何をしたらよいのでしょうか。まず自分が本物を握ることから始め、次に説教の内容に取り組むべきでしょう。信者は、先生がそのような説教ができるよう助けなければなりません。

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