同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 長男の救いにあたって —

森田 心

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ 1:12-13)

 7月7日、長男忍が救いの恵みにあずかることが出来ました。
 親として、神から与えられました3人の息子をどのように育て、導いていくべきかを常に問われながら、そうであればこそ自らが信仰者として揺るがされないように歩むこと、主を畏れ、主の御旨を生きることをせつに願いながら歩みをしてきました。しかし、この時もう一度振り返ってみた時、自らの足らなさばかりが思いかえされます。ですから長男の救いは神がこの子を愛し、御手の内に生かし続けて下さった愛の故であることを強く感じ、心から感謝しております。
 彼は悔い改めと告白の言葉の中に、「私はイエス・キリストの十字架の御足の元に引き出されて来た。強い力で私は押し出された。」と語っていましたが、尊い十字架の血潮は彼にも注がれ続けてきたことを感謝いたします。それと共に、彼に与えられていた教会の御用が、彼の霊性を少しずつ良い方向へと導いて下さったことを確かに感じます。彼は礼拝と祈祷会でのピアノの伴奏者をさせていただいています。その御用は特に彼にとっては緊張し、思うように弾けない時があるようです。「礼拝の司会などで緊張するの?」と彼から問われた時もあり、私が「20年以上たってもいつも緊張をおぼえるよ・・・」と答えると、彼が驚きながらもホッとしている顔を見た時もありました。伝道の働きの中にも音楽のバンドのメンバーとして用いて下さり、その働きにも彼が福音に生きる者としてどうあるべきか、心を探られ続け、主にある良き働き人である為にどうすべきかが、問われはじめていた良き発端であったように思います。
 救われる大きなきっかけといってもよい、ミルフィーユの伝道コンサートの当日の朝の教会学校で、彼は福音に生きる大切な姿勢について語っていました。今考えてみると彼は自分自身に問い、答えを出さなければならない所に自分を置いていたように思います。まだまだ不十分な者にも教会は彼に大切な御用を託し、愛し共に生きて下さったことに心から感謝をいたします。
 そして、ここから彼が神と牧会者に期待される器となっていけることを願いつつ、その為にも自らにそそがれ続けた愛を証し続け、今度は自らが愛を与える者と成長していって欲しいと願っております。
 息子の為にいつもおぼえて祈り続けて下さった愛兄姉に心から感謝いたします。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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