同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第27回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)

<第5章 救いの経綸>

第5章のふたつめのテーマである
 ・個人の救いの概観
を取り上げます。
今回も、結実の本文を直接引用しましょう。
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2.個人の救いの概観
 前項で述べたように、世界全体の救いについて神の定められたプログラムがあるのと同様、人間一人々々の救いについても、神はプログラムを用意されておられます。それを理解しないと、救いも潔めも、例えば”石に躓いて転んだ”とか、”宝くじに当たって喜んだ”とかいうあるその時点での経験で終わってしまい、救いの時点を転機に長く救いの人生を生きる、潔めの時点を転機に長く潔い人生を生きるというような信仰生活ができないのです。
 次ページの図は、神が人間に備えられた救いのおおよその流れを示します。

・人間の創造(誕生)
 聖書の示す人間観の章でも述べたように、人間は親の形質を受け継いで生まれます。その受け継ぐ形質は、肉体や魂(心)だけでなく、霊にもおよびます。アダムが罪を犯し、罪の性質を持つ者になって以来、人類全体が罪の性質をもって生まれるに至りました。その罪の性質は徹底していて善なるものが全く存在しない「全的堕落」であると信じられています。
前章でも述べたようにそれは、利己心と神の権威、支配に服さない点に顕れています。
 人間が断罪されるのは、罪の性質をもっているからではなく、罪を実行し、罪人となるからです。罪の意志決定を出来るに至らない嬰児がそのまま死んだならば、天国に受け入れられると信じられています。それを「嬰児の義」と呼びます。
 この原則は、生まれつき魂(心)を病む等の理由で自らに責任をとれない人々についても当てはまります。

・救いの経験(罪の赦し、新生、聖霊の内住)
 全的に堕落した人間には、神を求め、悔い改めてイエス・キリストを信じ、救われることができません。聖霊が全的に堕落している者の内にも働いてくださり、心を開いて、悔改めと信仰を持つことを助けてくださるのです。そのとき人は、イエスを信じて救われることができます。
 信仰とは何であるかその定義について、アンドリュウ・マーレーは、「(信仰とは)人が神の啓示を認識して受け入れる霊的機能であり、その啓示によって呼び覚まされた霊的感覚です。」(59)としますが、これはむしろ霊と魂(心)の機能の部分の定義です。新生の命が与えられる以前にその機能が働くのは、神の先行恩寵によるのです。信仰は、「信じなさい。」という命令に、アンドリュウ・マーレーが言う呼び覚まされた霊的感覚を用いて応答する「意志的行為」です。
 神は、人が救いに与りたいと思い、放蕩息子が立って父のもとに帰ろうと決断したように、救いに与る決断を、人間の罪の本源とも言える「利己心」を用いてさせなさるのです。人が救いに与りたい事自体、己を利するために他なりません。しかし神はそれをよしとなさるのです。イエスの引用された放蕩息子(弟息子)(ルカ15:17)は、自分の食を得るために父のもとに帰って行ったのです。
 人が救いに与るための、神の側の準備は整っています。人が救いに与かりたい場合、罪の悔改めと、イエスを信じることがなされなければなりません。罪の悔改めは、事務的に実行することが大切です。しかるべき信仰の指導者(多くは牧師ですが)のもとに行き、自分の知っているすべての罪を「口に言い表す」(ローマ10:10)ことです。これをしないため、教会に出入りしている多くの人が、心ではキリストの教えに同意していても、罪ゆるされ新生の命に与ることが出来ないでいます。罪を言い表すと、聖霊が働いて下さって、イエスが私を救ってくださると信じることができるものなのです。
 救いに与ったとき、人間は神によって救われたことを必ず自覚します。その自覚を与えられていないで平気でいる人は、救われていないと判断できます。
 救いの経験は、人間に三つのことをもたらします。その一は、罪の赦し(義認)です。義認とは、イエスが私たちに代わって罪を負われた故に、あたかも罪が無かったもののように取り扱って下さることを意味します。第二は、新生であって、永遠の命が与えられることです。第三は、聖霊が魂の内に住んで下さることです。
 この段階では、人間は、自らの霊を自分のものとして、聖霊に服さないまま保有しており、罪の性質は人霊の内に残されています。また霊を神に明け渡していないので、霊の内に神の光は未だ届かないのです。
 ですから、まじめに信仰生活をしていくと、新生の命に従って生きようと思っても、罪の性質は人に罪をもたらし、葛藤することになります。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるでしょうか。」(ローマ7:24)との叫びは、新生の命に与っており、かつ、まじめに信仰に生きている人におきるものです。かえってこの叫びこそ、聖潔の生涯の入り口となっているのです。

・潔め(聖潔、聖化)の経験(罪の性質の除去、聖霊の内住)
 罪の性質に振り回されて罪を犯した自分を見て、神に明け渡していない自分のかたくなさを悔い改めたとき、神は聖化に与らせて下さるのです。どのようにして潔めに与るかは、ひとそれぞれ異なることでしょう。しかし、必ずなされなければならない条件は、自らの霊の内側まで、神に明け渡すことです。
 人霊の内にある罪の性質は、「聖絶」(ヨシュア6:17、11:11など)されなければならないのです。人が悔い改めて自らを明け渡すとき、聖霊は罪の性質を聖絶して下さるのです。「聖絶のものはもっとも聖なるものであり、主のものである。」(レビ27:28)のであって、「聖絶」と「聖」と「主のもの」とは一体で切り離すことは出来ません。聖絶される罪の性質とは、「神の権威、支配に服さない」というその一点だけです。このことは、R.S.ニコルソン(60)の提起する、「現世においてドノ程度に罪よりの釈放を期すが聖書的か」、人は潔めの経験に当たってどの程度のレベルの潔さというものを与えられるのか、あるいは、どの程度のレベルの潔さによって「潔められた」と言ってよいのか、という命題の回答でもあります。神に対する全き服従は、全ての事態に対する備えを全うしているのです。「神の権威に完全に服従した私(人霊)」と「聖霊に満たされた私(人霊)」が、聖化の内容です。その時人は「動機の完全」すなわち「利己心からの解放」を得ています。
 潔めの経験も、救いの経験と同様に、それが与えられると、与えられた人自身が自らの内に大きな変化のあったことを必ず知り、潔められたとの確信を持ちます。神はそれを本人に知らせて下さいます。これが第二の転機として経験されるものです。
 潔めの経験は、罪の性質を除かれることと、聖霊が魂の内すべてに満ちて下さる、豊かな聖霊の内住との二面をもたらします。
 もはや魂の内に神の光の届かないところは無くなります。ですから、神の前に隠すものはなく、それが人間に「自由」を実現します。「キリスト者の自由」はここにあります。神の前に隠さなければならないものがある時、人は「不自由」なのです。この自由はしばしば取り違えられて、”教会、家庭、職場あるいは社会的な組織上からの、指導、指示、命令、各種の制約などを受けないことである”と思われたりしますが、それらは全くの見当違いなのです。
 神が人間の救いを、新生と聖潔の二段階に分けられたことには、合理的な根拠があります。それは、はじめの救いを受ける段階では、人は全的に堕落しており、自らの意志というものは十分に働かすことができません。新生の命は人間に意志決定の自由をもたらします。その意志決定の力によって、神に明け渡してつまりすべての神の御心に服従して生きることを決定します。そして「イエスの血はすべての罪から私たちを潔め」(ヨハネⅠ 1:17)ると信じるのです。
 ここに、聖潔に与る際の大切な問題が示されています。潔めを求める多くの人々が、「神よ。私を潔めて下さい。」と言いつつ、神が働いて下さるのを”死体の姿”で待っているのを見かけます。潔めに与るときは、その自由意志を働かせ、”生けるものとして”神の権威に服して生きることを決意しなければならないのです。「服従と信仰」が潔めの鍵であるということは、ジョン・ウェスレーのときから語り続けられているのですが、このように今でも教えられなければなりません。潔めに与るために”自我に死になさい。”と教えられることが、その真意を理解されないで受け取られるためでしょうか。
・聖潔の生涯
 潔めの恵みを受けてから、キリスト者は、S.A.キーン(61)が、語る前進的聖化を歩むことを期待されています。型の見地から言えば、カナン全体の領有のために前進し、これを戦いとらなければなりません。「あなた方が足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」(ヨシュア1:3)
 潔められると霊的戦いが無くなると思う人が多いように思います。救われる以前は、罪を犯しては後悔(悔い改めでなく)することの繰り返しです。救われて荒野を歩む間は、罪を犯して悔い改めることの繰り返しです。しかし、聖潔の生涯は、誘惑と戦うことの繰り返しです。神は、潔められた人の人生に様々な課題を置きなさいます。それらはしばしば、苦痛であり、困難であり、苦いものです。「死の陰の谷」(詩篇23:4)と呼ぶことがぴったりの状況もあります。その目的は潔められた人が結実するためなのです。足の裏で踏むとは、それらの状況の中を信仰をもって歩むことそのものです。愛が必要な状況に置かれたとき、愛の実を結ぶことができます。寛容が必要な状況に置かれたとき、寛容の実を結ぶことができます。忍耐が必要な状況に置かれた時、忍耐の実を結ぶことができます。
<文献>
(59)アンドリュウ・マーレー、キリストの御霊、沢村五郎訳、いのちのことば社、
初版第6刷、一九八七、p.256
(60)ロイ・S・ニコルソン、聖化論、蔦田二雄訳、日本ウェスレー出版協会発行、
イムマヌエル綜合伝道団、一九五九、p.74
(61)S・A・キーン、信仰の盈満、大江邦治訳、日本ウェスレー出版協会発行、
イムマルエル綜合伝道団、一九六○、p.152

(仙台聖泉キリスト教会員)