同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第22回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)

<4.聖書の示す人間観>

 聖書の示す人間観のテーマとして次の項目を取り上げて検討しています。

 ・人間創造の目的
 ・人間の構造
 ・人霊とその機能
 ・魂とその機能
 ・良心について
 ・体とその機能
 ・欲求について
 ・肉という表現について
 ・人の誕生
 ・罪と罪の性質について
 ・罪の性質の遺伝
 ・自我の死は存在するか?
 ・地上生涯の価値
 ・いかにして己を知るか

今回はその中の
・体とその機能
・欲求について
という二つのテーマを取り上げます。

まずテキスト本文を引用しましょう。

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6.体とその機能
 体は人間の物質部分、自然界に属する部分であって、今の世界において、人が他に働きかける、あるいは他から受けとるすべてのことは、肉体を通して行われます。キリスト教とは関係ない人の言葉ですが、「健全な精神は健全な肉体に宿る。」のも真実です。また「魂(心)の健康」は更に大切です。
 健全な知覚、健全な思考、健全な肉体の欲求、健全な情緒、健全な良心、健全な意志決定、人はこれらに支えられて健全な行動をとります。
 キリスト教の世界で、ある人々の間では「肉体は罪である」、「肉体の欲求は罪である」、「肉体の欲求を満たすことは罪である」と言うような議論がなされてきました。しかし、信仰が霊の意志決定にあるように、罪も霊の意志決定にあります。詳しくは次章「救いの経綸」の中で考察しますが、このことは、肉体自体は罪でもなければ、罪を犯させるものでもないことを示しています。もしも肉体が罪の原因であったなら、サタンと悪霊達が罪の存在ではあり得ません。なぜなら彼らは肉体を持っていないからです。
 一方、「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとして下さいますように。…あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(1テサロニケ5:23)の言い方には、霊だけでなく、魂も体も聖くされるというニュアンスがあります。魂が聖くされることについては異論がでないでしょうが、体が聖くされるということには、すこし考察が必要です。この意味するところは、霊が潔くされ、潔い心情、潔い思考、潔い行動、慎み深い生活、等々をもって聖徒にふさわしい生き方をすることです。逆に、これを「潔い」を「汚れた」と言う言葉に置き換えた生き方から離れていることに他なりません。またサタンや悪霊達、悪人の手や世の力から守られることでもあります。

7.欲求について
 本書では「欲」と自然な「欲求」という用語とを区別して使用することにします。
 体に付随する自然な欲求は、体に必要なものを取り入れること、体に不要となったものを排出すること、運動、休養や睡眠、性などに関連して存在します。
 食物、水、空気(酸素)、これが人間の体を支えるために外部から体に取り入れられるものであって、食べること、飲むこと、呼吸することによってそれが行われますが、空腹、渇きによってそれが続けられます。呼吸は健康な人にはあまり意識されませんが、心臓の悪い人が、血液の循環の不足からか、深呼吸したくなるという事例があります。しかし、ここでは呼吸について議論しないでもよいでしょう。食べること、飲むことに対する欲求が満たされないと、空腹と渇きという結果が現わされ、その欲求が強く意識されることになります。
 同様に魂(心)の欲求と霊の欲求がありますが、これらの欲求は、明確に区分できません。
 欲求というものは、本来神から与えられている人間の機能であって、行動の動機となり、神が祝福されたものです。欲求を正しく用いて神の下さるものを感謝することができることは、聖潔の生涯に欠かせないことがらです。他の人々との交わり、遊び、食事、夫婦生活などなど様々な場面でそれが許されています。
 これらの欲求のうち、以下は特に「欲」と呼んで区別します。すなわち「食欲」、「性欲」、「交際欲」、「知識欲」などがそれです。中には睡眠まで欲に入れる人もいますが、睡眠は体と魂の休み時間であって、必要とする時間の間隔は違いますが、呼吸と同様人間が制御できる幅が狭いものです。ですから睡眠は欲という分類には入れない方がよいと思います。目覚めていても、布団から出てこないのは睡眠ではなく怠惰です。
 食欲を個体維持本能と呼び、性欲を種族維持本能と呼ぶことがありますが、人間の欲というものをよく観察してみますと、食欲には個体維持という表現で顕わされていること以上のものがあり、性欲には種族維持と表現できるものよりもっと奥深いものがあるように感じられます。性は雅歌に歌い上げられている夫婦の愛を造りだす場を提供するものです。それらは単に体に付属した欲求であるとは言い切れません。交際欲や知識欲もスキンシップという表現があるように、単純に魂(心)の領域のことであるとは決めつけられません。これらの欲求は、体から出てくるものか、魂からでてくるものか、霊からでてくるものかはっきりしません。人間はいかにこの三つのもの、霊、魂(心)、体がひとつの統一された有機体となっているか分かります。
 霊と魂(心)の領域の欲求と欲には更に別の領域があります。即ち、権力欲、名誉欲、金銭(蓄財、富)欲…などです。これらは、それを持っていると危ない領域の欲です。もしダビデが権力を持っていなかったなら、彼は罪を犯さなかったでしょう。名誉についていうならば、パウロという人物がいかに誇り高い人であったかは、異論がないでしょう。しかし、神はパウロには特別に彼の「肉体にひとつのとげ」(2コリント12:7)を与えて彼がつまずかないよう配慮されました。また富を持つことも神は祝福としてアブラハムやヨブやソロモンに富を与えられました。富はそれを正しく用いることが出来る人にはつまずきになりません。しかし、これらが危ない領域であることは、誇りを正しく持ち、富を正しく持つことが普通の人にはいかに難しいかを示しています。
 欲求は、罪の入り口になりました。「そこで、女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(創世記3:6)ですから、誘惑の入り口にもなりやすいのです。ひとたび聖潔を与えられた人も、欲求を正しく用いることに絶えず心がけることが必要です。

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 「体とその機能」の節では、霊の世界、それは神の世界と言い換えてもいいわけですが、その中での体の役割を考察しています。霊の世界の事柄であっても、人間はすべて体を通してそれに関わります。体を通して罪を犯し、体を通してイエス・キリストと十字架の贖いを知り、それを受け入れて救いに至ります。体を通して、善き業を行ったり、反対に悪しき業を行ったりして、神の前の歩みをします。そしてそれらがやがて天において栄光の冠を受けることができるか否かを決定します。そのようなことを整理して、理解しておくとよいでしょう。

 「欲求について」で考えておくべき事は、神が私たちに欲求をお与えになったのは、私たちの人生を素晴らしいものとする手段としてなのです。欲求のない自分を考えてみればわかります。それはなんと味気ない、つまらないものとなるでしょう。一方、欲求は罪の入り口になりえるものでありますから、欲求をコントロール出来るかどうかこそが潔めに生きえるか否かを決定する重要事です。

(仙台聖泉キリスト教会員)