同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

~ ピアノ発表会 真実編 ~

石井 和幸

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
(ピリピ4:6〜7)

 7歳になる長女はピアノを習い始めて1年半になります。3月19日、仙台市戦災復興記念館のホールで、ピアノの発表会がありました。娘にとって、大きなホールで、大勢聴衆がいるところで、ステージでひとりピアノを演奏する・・・そのような形式の発表会は初めてであります。
 今年の2月、娘が私に「お父さん、ピアノの発表会見に来てくれる? お仕事があるならいいけど・・・」と言ったとき、私は戸惑いました。私も、中学3年生までピアノを習ってましたが、私は、ピアノの練習といえばレッスンにいく前の30分くらいで、先生や親を困らせる生徒でありました。ですから、発表会なんかは私にとって、夏休みの終わりと並んで「来てほしくない、迎えたくない日」でありました。発表会に出れば、ステージ衣装を着て綺麗にしている多くの女の子に比べて、男子は私含め数えるほど。ただでさえ緊張しているのに加え、出番を待っている間も、集合写真撮影の間もずっと周りに気を遣いながらの1日でした。中学生になると、普段練習をしない私と、同年代の生徒とは、もう演奏する曲目からしてレベルが違う・・・という状況でありました。
 娘の発表会の会場が、私がピアノを習っていたときの発表会会場と同じホールであったこと、そして、ピアノを演奏するとき、緊張して頭が真っ白になった場合、どういうことが起きるか・・・私自身経験していたため、なんだか怖くなってしまい、家内にこう相談しました。「僕は真実の発表会行かないで仕事してもいいかな? ビデオを撮ってもらって、後でそれを見るだけじゃダメかな? ちょっと・・・あのホールに行って見るのが怖いんだよね…」すると、そばで私の話を聞いていた母が答えました。「何を言ってるんだい?私は子ども3人、ピアノ教室も、発表会にも連れてったよ。私はやったけどあなたはやらないの?」私はハッとして、「や、やります。」と即答しました。母はかつて、一向に進まない私のピアノについて、「練習しなさい」というだけでなく、母自身ピアノやオルガンを習った経験がないのに、私の課題曲を両手で弾けるまで自ら練習したりもしました。それだけの苦労をかけて、尚、練習に励まなか
った過去の自分を思い出しました。
 娘のピアノ発表会・・・このことをを通して、私は自分の過去と向き合い、さらに自分がどういうところからイエス・キリストの十字架によって救われたのか振り返る機会となりました。また、娘が今の課題に挑戦する時、そばにいる親の私はあえて現場から目をそらそうとしてはいけないことを教えられました。
 ピアノ発表会当日・・・戦災復興記念館は、私が小学生の頃とほとんど変わらない光景でした。かつてこの雰囲気のなか出番を待ち、演奏をし、そしてこの場所で記念撮影をした・・・当時の記憶がよみがえり、懐かしいというよりも、鳥肌が立ってきました。娘は、ステージ上で丁寧にお辞儀をし、力強く演奏を始めました。発表会ですから、楽譜はなく、暗譜した曲を演奏します。1曲目は無事終わり、2曲目も途中までは上手に弾けました。終盤、最後の小節がちょっと変な音になりました。私ならそこでごまかして終わりにしてしまうところですが、娘は最後の小節を何度もやり直し、楽譜通りの音を探しているようでした。そして、何か気づいたように何小節か前からもう一度弾き直し、きちんと覚えたとおりの音を出して演奏を終えました。
 後から本人に聞いたら、かなり緊張をしていてパニックになったのだそうです。娘が間違ったのは最後のフレーズだけで、そのまま演奏を終えても、聴衆は演奏者が間違ったことに気づかなかったかもしれません。私自身も、(別にそれまで完璧だったんだから最後くらい間違ったままでもいいじゃないか)と思いました。けれども、娘は(私が習った曲はこんな終わり方なんかしない!)と思ったそうです。なんとしても楽譜通りに演奏したかったとのことでした。

 次の日、私たちの教会は野外礼拝で、メッセージは私の担当でありました。棕櫚の聖日、受難週であったため、私に示されていたマタイ26章にあるゲッセマネの祈りと、今回の発表会を通して思わされたことが、重なりました。イエス・キリストにとって十字架の死は、「いちばん来てほしくない日」であったこと、しかしキリストは苦しみ悶えられて、「わが父よ、できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)と祈られました。キリストが苦しみの中でも父なる神の命に従って十字架に向かい、みこころにかなった祈りをし、十字架で死なれ、復活されたことは、イエスキリストの真実でありました。その真実によって自分は救いを受け、憐れみによってここまで生かされてきました。長女も、嘘やごまかしではなく、名前の通り真実に生きる姿勢を神様は喜ばれる・・・と、教えられています。冒頭のみことばは今年、長女の年間聖句として、私が年頭に掲げたものです。そこには、自らの思いや悩みを主のもとに素直に出してほしい、自分だけで思い悩むのではなく、何でも親である私たちに打ち明けてほしい、私たちも子どもの気持ちをちゃんと分析して子どもの必要に応えることができるように・・・という私たち夫婦の思いがありました。  
 私は、今回の発表会を通して、私自身も未だに「避けたい、見たくない、うまく通り抜けたい」とときに思ってしまい、示された課題に率直に向き合おうとしない性質があることを思い知らされました。けれども、娘がステージ上で見せた真実な姿勢は、大人になっても変わってほしくない大切な部分であります。

 野外礼拝が終わった次の日、私たち家族は山形蔵王にスキーをしに出かけました。娘は、スキー教室に入ることに対し、楽しみにしながらも緊張を覚えていました。スキー教室、まず半日で申し込んで、「午後もやりたい!」と娘が言ったら延長しよう・・・そう夫婦で話をしました。シーズンも終わり頃だったこともあってか、お姉さん先生と娘だけのマンツーマン教室となり、娘は結局1日中、先生とたくさんゴンドラやリフトに乗って、疲れながらもスキーの上達を喜んでいました。

 長女が、多くの祈りと助けのなかでこの1年、与えられた課題のなかで、従うべき人を知り、素直に従って得る恵みを年齢にふさわしく体験させていただいていることを感謝するのと同時に、親である私たちがなお主の前に遜って、愛する魂とともに自らの十字架から逃げずに担うものでなければならないことを覚えております。

スキー

(仙台聖泉キリスト教会 会員)