同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第15回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)

<3.聖書の示す世界観>

今回は、7.ことば
    8.光
    9.時間
の3節を引用しておきます。
「ことば」と「光」は聖書に多くでてくる用語ですから、聖書の述べている意味をよく理解する必要があります。
「時間」は聖書全体が、時の流れを表しています。時は解説にされてあるとおり、罪と信仰と自分との関わりに重要です。

 

7.ことば…霊界のことばは一つ
 自然界に属する人間がことばをもち、伝える情報を持っているのと同様に、霊界においてもことばがあり、情報、意志意向などが互いに伝えられます。このことを示している聖書の記事は数え切れないほどあります。
 たとえば、創造の初めに、神(父と子と聖霊)は相談して言われました。「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」(創世記1:26)
 そのほか、「ある日のこと、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンもいっしょに来て主の前に立った。主はサタンに仰せられた。『おまえはどこから来たのか。』サタンは主に答えて言った。『地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。』…」(ヨブ記2:1-2)
「私は…『ガブリエルよ。この人に、その幻を悟らせよ。』と呼びかけて言っている人の声を聞いた。」(ダニエル8:16)
「…この人は十四年前に、…パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。…」(コリントⅡ 12:2-4)などがその例です。
 霊界の言葉は一つです。
 人間の言葉も霊界と同様もともとは一つだったのです。(創世記11:1)それが多数の言葉に分かれた由来はバベルの記事(創世記11:1-9)でよく知っていることです。

8.光
 自然界における光については論ずるまでもなく、私達がよく知っているものです。また、ここでは電磁波がどうのというような、自然科学の領域には立ち入りません。
 霊界の光について、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)「光のある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」(ヨハネ12:36)とイエスが語られたことが記されています。ここで、イエスが「光」と呼ぶものは、霊界の情景を示すものであって、イエスもこの霊界の情報に対する知覚を持たないものを「盲目」と呼ばれました。霊の目の開かれた人は霊界の光によって霊界の情景を悟るのです。
 言葉はどちらかと言えば人間の思考、意志、感情など心の中を示すものであるのに対し、光は場面の全体を情景として伝達します。霊界の光も自然界のそれに対比して理解されるべきです。
 光には、まず霊界の真実の姿を知る意味合いがあります。その意味ではサタンと悪霊達も光を持っています。「あなたは、神はおひとりだと信じています。…ですが悪霊どももそう信じて、身震いしています。」(ヤコブ二2:19)との聖言がそれを示しています。
 光には更に意味があります。それは「まことの光」(ヨハネⅠ 2:8)とヨハネが呼んだものであって、「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネⅠ 1:7)という光です。その光は、人間が罪と一緒に持っていることが出来ないものです。「光にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなおやみの中にいるのです。兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのかを知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。」(ヨハネⅠ 2:9-11)
 つまり光は、善悪、神の国と「暗やみの世界」(エペソ6:12)と無関係に存在するのではなく、良いものとして扱われています。光はことばとともに働いて人間の心を照らし、神の御心を悟らせるのです。

9.時間
 時間は信仰に関する大切な要素です。
 「神はひとりの人からすべての国の人々を造りだして、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは神を求めさせるためであって…」(使徒17:26-27)ここに人間が時間と空間との中に生きるように定められていることに対する、神の目的が記されています。
 信仰は、「神を信じ、またわたし(イエス)を信じなさい。」と「命令できる」ことであって、命令に対する応答は、意志的行為でなければなりません。また、「その子の父は叫んで言った。『信じます。…』」(マルコ9:24)などの記事が示すように、人間が信ずる応答をしている記事も明らかに「意志的な行為」であることを示しています。人間は現在においてのみ「意志する」ことができます。過去に遡って意志を働かせたり、未来の時間において意志を働かせたりはできません。「明日、こうしよう。」というのは「現在の決心」なのです。従って、現在以外に信仰は存在し得ません。贖罪は信仰に係わっており、救いも潔めも信仰によるのですから、現在以外にそれらは存在しないのです。”永遠から永遠まで救われている”などと言うことは夢想に過ぎません。信仰が失われるとき救いも潔めも失われます。従って、潔めは刻一刻キリストの贖いに結びついているときにのみ成立しているのです。
 ただし、潔められた人間には、信仰は呼吸のように自然であって、免許取り立てのときに、いちいち考えながら操作をする自動車の運転のようなものではありません。一々考えなくても信仰に生きているのです。
 以上の論議は、「信仰は意志的行為である」という命題の上に成り立っています。信仰についてのその考えが聖書に立脚したものであること、また、他の考えに立つ人々の見解について、後述の「五.救いの経綸」の中で考察します。

(仙台聖泉キリスト教会員)