同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第18回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)

<4.聖書の示す人間観>

今回は
 ・魂とその機能
について取り上げます。今回は直接テキスト本文を引用します。
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4.魂とその機能
 魂は自然界に属しますが、人間の体を霊界と結ぶ役目をします。魂はそれを支配する霊の姿を示します。優しい心(魂)を示す人は、優しい霊の持ち主なのです。怒りっぽい人は、怒りっぽい霊の持ち主です。というよりもむしろ霊が人間なのですから、”人間(人霊)は自分の姿を魂(心)の姿によって顕わす。”と言う方がよいでしょう。そして魂の姿は肉体を通して外部に顕わされます。従って人霊の姿は、魂の姿によって分かるのです。「良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。…実によって彼らを見分けることができるのです。」(マタイ7:17-20)魂の姿はその人の欲求や欲望、思い、行いを観察すると分かります。ですから人は、「あなたの心を見守れ。」(箴言4:23)との命令を守ると自分の姿が分かります。自分を知らない人は、聖潔への渇きを持つことができません。
 人間だけでなく、神、天使、悪霊も霊ですが、人間の魂および体と調和を保って存在しうるのは「人霊」だけです。
 聖霊は魂のうちに人霊とともに住んで下さいますが、自ら前面に立ちこれを勝手に支配することはされません。必ず人霊の背後にあって語ることによって人を導いて下さるのです。”聖霊の御支配に従う”ようにとの勧めがよくなされますが、聖霊は「助け主」(ヨハネ14:16)であって、魂の支配者にはなりませんから、人間は自らの意志(権威)をもって聖霊の示される勧めを行わなければなりません。
 神(聖霊)が直接人間の魂と体を支配されると、人間は恍惚状態となります。その例は、モーセに率いられて荒野を旅していたとき選ばれて神の霊を与えられた70人の長老達は「恍惚状態で予言した。」(民数記11:25-26)、予言者達例えば「予言者の一団が予言しており」(1サムエル記19:20)や「神の霊が祭司エホヤダの子ゼカリヤを捕らえたので、彼は民よりも高いところに立って言った。…」(2歴代24:20)など、また「3.人霊とその機能」の項に示したサウルの例、ペンテコステの時イエスの弟子達「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊がはなさせてくださるとおりに、他国の言ことばで話し出した。」(使2:4)などの姿に示されています。それは人間にとってすばらしい経験ではあるのでしょうが、正常な人間の状態として常に存在するものではありません。
 聖書の中に天使が人の心に住んだと言う記事は見当たりません。つまり天使は決して図々しく人間の魂を占拠するようなことはしないのです。しかし悪霊達は人間の魂に住み、人間を支配することをします。悪霊が直接人間の魂を支配すると、発狂状態となります。このことについては、「ガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人が…」(マタイ8:28)や「…霊がこの子に取りつきますと、突然叫びだすのです。そしてひきつけさせてあわを吹かせ、かき裂いて…」(ルカ9:39)など多数の記事があります。
 聖書の観点から言う多重人格は、二人以上の人格がその人の中にいることですから、人の魂に自分の霊だけでなく他の霊が住むことを意味しています。多重人格を引き起こす霊は、悪霊だけです。悪霊が、人間の魂のうちに住み、魂を直接支配しているときは狂乱状態となり、悪霊が魂を直接支配することをやめて、人霊に魂を任せるともとの普通の人に戻るものと考えられます。それが、交互に現れると顕著な二重人格と呼ばれるものになります。パウロがピリピで出会った「占いの霊に憑かれた若い女奴隷」(使徒16:16)は、占いをするときは霊に憑かれたものとしての姿を顕わし、普段は普通の人であったものと推測されますが、これも多重人格の一例です。サウルが死の直前に自分の未来を問うたエン・ドルの降霊術師(霊媒)の女(1サムエル記28:7-25)も降霊術を行うときは霊に憑かれた者の姿ですが、その時以外は普通の人間のようであって、二重人格の一例だと言えます。
 一方、唯ひとりの人間(人霊)であっても、ときには各時点で異なった様々な姿の現れを示す場合もあります。しかしその場合には多重人格ではなく、”いろいろな性格が現れる”と表現しなければなりません。ハレスビー(文献38)が「人間の気質と信仰」に述べているように、人間の性格、気質というものは時間的な変化だけでなく、年齢とともに変化することも知られています。
 通常人格の形成と表現されることは、人霊の姿の形成であると同時に、魂(心)の姿の形成であるともいうことができます。肉体の形成が、生まれたときから摂取し続ける食物などからの栄養素、生活習慣や睡眠、労働や運動などに左右されるのと同様に、人格の形成は経験により大きく左右されます。当然それは長く、生涯を通じて行われますが、殊に幼少の時の影響は大きく、幼少のとき親に服従を迫られて、人格と人格の対決がそこにあり、親に従うことを経験することは、健全な人格、魂(心)の形成上欠くことの出来ない要素であるように見受けます。それは成人になったときも、権威に服従することのできる人格の姿であることを、その経験をしていない人に較べてはるかに容易にします。信仰の根底には、神の権威に従うということが存在しますから、親への服従の経験はその人が信仰を持つことができる素地が造られていることを意味しています。幼少の時には、その経験の一切が親や周囲の人の技量に委ねられています。しかし、ある年齢に達すると、自分の心がけによっても、人格の形成が変わります。健全な人格と呼ばれる魂(心)の姿は、バランスのとれた知情意の働き、良心の働き、人を愛することができる品性、己を制御できる自制心、社会生活において他人と協調して生きることのできる寛容さなどを持っていることです。「そればかりではなく、艱難さえも喜んでいます。それは艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(ローマ5:3-4)この聖句の示す内容は、自ら選択したことではなく他動的に起きてくる事柄にどのような心で対処するかによって、品性が変化することを意味しています。また特に知識、生活習慣、友人などの領域では、自らの選択が決定的に作用します。
 精神科医が向精神薬を造ったり使ったりできるのは、脳の機能に作用する物質の研究が進んだためです。頭脳の働きは魂の機能の一部を構成しています。そして魂の働きは頭脳の働きと深く結びついていて、頭脳が働かないときは魂も働きをすることが出来ません。ここまでが頭脳の働き、これは魂の働きと明確な線を引くことは困難です。このことはまた魂(心)が自然界に属する証拠でもあります。
 「信仰は頭でするものではない、心でするものだ。」とよく言われますが、この言葉はその事柄を「考えただけ」で信仰だと思ってはいけないと言う意味であって、信仰の中心は、思考にあるのはなく、心情と良心に裏付けられた意志決定にあることを言っているのです。もちろん、信仰には最小限の知識、理解、思考というものが必要であることは言うまでもありません。パゼット・ウィルクス(文献39)はその点を分かり易く解説しています。
 心が健全であっても体は病気である事例は沢山あり、誰も異論を挟まないでしょう。同様に霊は健全であっても、魂(心)を病んでいる場合があります。その場合残念ながら、その人の示す信仰の姿が歪められます。
 魂(心)を病んだときに最初に現れてくる現象は、周囲の人の言葉を受け入れることができないこと、あるいは曲がって把握するつまり言われていることとは違う理解をすることです。また、一旦聞き入れたように見えても、ほんの僅か時間が経過するともとに戻ってしまうこともその一つです。信仰に生きるとき、神の言葉によって人格がよりよいものに変化させられていく経験が要求されます。周囲のひとの言葉が魂(心)にとどまらない人は、信仰によって変えられることが困難です。
 実際に精神科医が出来ることは、体の病気の場合に熱が出たから解熱剤を投与し、痛いから痛み止めを投与するというような対症療法に対応するようなものがほとんどで、本質的に病気や不具等に相当する事柄を癒すことはかなり困難であるように見受けます。しかし、体の病気を治すために、患者自ら医者に協力して、健康に悪い食物や酒煙草などの摂取を控えたり、健康に良い食物や医薬品を摂取し、規則的な睡眠や適量の運動などをしていると、やがて病気が本質的に癒される場合が多いのです。同様に魂(心)の病気や不健全さも、夜起きていて昼寝ているなどの魂(心)のために良くない生活習慣を避け、魂(心)の健康に良い生活習慣を保ち、頭脳労働をやめて肉体労働をするなど魂(心)の負担を軽くして生活することがまず必要でしょう。
 義しい人でも体の病気になるように、義しい人でも心を病むことが当然あるのですが、我が儘から魂(心)に良くない生活をし、病に至る場合も多々あるように思われます。謙ってイエス・キリストの救いに与り、霊の健康を頂いて、極力我が儘を排除し、魂の健康に良い生活をすることが、病む人に求められることです。しかし、体の病気でも自分では全く何も出来ない事態もあるのと同様心の病の問題でも自分では全くなにも出来ない事態があることもまた事実です。その場合は、医者と介護する人を必要とします。
 実際の場面では、どこまでが健康な人の性格的な問題であり、どこから病気であると言えるのか線引きは困難です。
 強調しておかなければならないことは、魂(心)を病む人の人格もまたその尊厳が認められており、神の前にひとりの人間として値高く値ずもられていることです。
 魂(心)の持っている機能を整理してみますと、第一にこれまで述べた、人霊を肉体と結びあわせ、ひとつの存在とする働きが挙げられます。そして人間の自然界の部分の「知覚」「思考」「感情」「意志」も魂の機能と位置づけられます。心の思い、感情、行いなどを通して、魂は霊の姿を顕わします。さらに魂には「良心」という機能がありますが、この良心については次の項で考察します。
文献38
O・ハレスビー、人間の気質と信仰、杉山昭男訳、聖文舎、1965、p.5
文献38
パゼット・ウィルクス、救霊の動力、沢村五郎訳、バックストン記念霊交会、
    改訂4版、1966、p.164
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(仙台聖泉キリスト教会員)